2013年02月14日

サパテオ:「キューバ音楽の理論」より

さて前回短く述べたとおり、キューバ音楽もハイブリッドだそうなので、キューバ音楽が好きでカントリー音楽は嫌いだという単純な立場は存在しない。そもそも単純なパターンが存在するという考え自体が、西欧クラシック的である。まあそれでビゼー大失敗だったわけだが。不注意な音楽関係者は、言葉があるとそれに対応する何か明瞭なスタイルが存在すると簡単に思うわけである。坂本龍一みたいに。
キューバ音楽は非常にちゃんぽんだし、結果として多様だが、歴史的にアメリカのリゾート地になったため、ジャズオーケストラの影響など様式化が進んだと思われるが、社会主義化して音楽教育で伝統音楽が継承されたためガラパゴス化したというわけである。サルサはまったく様式的にソンなのだが、NYのヒスパニック、特にプエルトリカンがその場合主役である。ピアノがクラーベの代わりをしばしばするので、全然違う音楽に聞こえる。
しかしサンバもそうだが、奴隷船で連れてこられた黒人の文化(キューバの場合は現在のナイジェリアのヨルバだと分かっている)がUSAのように徹底して弾圧されたのとは違って、そのまま伝承されたため、USAのようにややこしいことはないから、西欧音楽と混ざるときにややこしいことになり、大変細分化されたリズムしばしばポリリズムになったわけである。

前回のプント・クバーナがヨルバ系6/8の様式なのに対し、今回のサパテオは白人系で本来フラメンコの靴音でリズムを表現した6/8と3/4が混合する形式であるそうだ。「キューバ音楽」p67。

サパテオ例。楽譜同書「キューバの音楽の理論」p13
 *2小節目のトレスの2拍目が不協和になるので落とした。
1段目が歌、2段目がトレスという弦楽器、3段目がクラーベである。
Zapateo

次は歌をトランペットで、トレスはガットギターで、クラーベはクラーベでSonarにより作った音源である。
Zapateo


比較すれば分かるが、プント・クバーナのクラーベの2小節目の2拍目四分音符が八分音符二つに変っただけである。

お聞きの通り、素人には十分ラテンに聞こえる。というのもすでに偶数小節の二つ目の四分音符がシンコペーションしているからである。

次回は2拍子系のハバネラと、ダンソンのシンキージョとパケテオを紹介する予定。
posted by Kose at 11:15| カントリー

2013年02月13日

カントリーで行きまっせ 中間考察

カントリーが好きかどうかは、趣味の問題だからどっちでもいい。僕はたまたま中学生の時好きになったロックバンドがしばしばカントリーがかっていたので好きな方に入るけれど、実際大半のカントリーは聞くに堪えないと確信している。
坂本龍一のカントリー評価の間違いは、つぎのとおりである。
彼はワールド・ミュージックというフランス人とか日本人とかが1990年頃発明したエセ民俗相対主義の文脈で、カントリーとかハワイアンとかを評価しているのだが、間違いである。
彼がスペインの音楽とカントリーの関係を問うのだったら相当高い見識があるとみなしてもいいが、彼の評価の仕方はそうではなく映画音楽のヘンリー・マンシーニ・オーケストラ的評価なのだ。
つまりまあ多くの知識人が引っかかることなのだが、ベネディクト・アンダーソンがナショナリズムを論じたときに、エスニックな起源がねつ造されるまさにそういうものとして、エスニシティを感じなくてはいけないのである。
明らかに、カントリー・ミュージックは今のところ、わずかなパイオニアを除いてひどいコマーシャリズムの中ででっち上げられた音楽である。でっち上げが悪かったらハイブリッドあるいはクレオール的となんとでも呼んでかまわない。
まだ扱ってないが、結論からいえば、カントリー・ミュージックはチャック・ベリーにおいてシカゴブルースの典型的なシャッフルリズムから離脱させ、カントリー的な速い2ビートを作曲させる材料になり、ストレートな8ビートという決定的なスタイルを作る触媒となったということである。
「アフター・スクール・セッション」その他50年代のチャック・ベリーのアルバムには流行しなかったさまざまなリズムの実験が、シカゴブルースバンドとともに録音されている。ラテン音楽のリズムも相当実験されている。バンドが入らず、ほとんど作品にし上がっていないものもある。
Havana Moon - Chuck Berry


ザ・バンドのリヴォン・ヘルムによるカバー


これも「アフター・スクール・セッション」の収録曲である。次は完璧にカントリーでしかないかなりデタラメな曲であるが、これがシカゴ・ブルースからのチャック・ベリーの離脱の意思の現れである。ピアノは3連符だが、チャック・ベリーのカントリーとは言えないギターソロはストレートな8ビートである。
Chuck Berry - Thirty Days. 1955


しかし同じリズムの「Maybellene」はロックンロールにしか聞こえない。ボーカルラインが8ビートなのである。ギターはそれほど明確に8ビートではない。
Chuck Berry - Maybellene 1955


Blue Sweed Shoesが1955年なんだが、リズムはシャッフルしているのである。
Carl Perkins - Blue suede shoes


Elvis Presley 版


そんでビートルズがぱくった1956年でベリーの傑作は完璧に8ビートのギターを弾いているのである。バンドがついてこないのはこんな速い。ベースはまだアコースティックだ。


これでわかったと思うが、ストレートな8ビートの創始者はチャック・ベリーであり、それはバンドがカントリーライクな2ビートを演奏していながら、ボーカルとギターで速い8ビートを演奏するという形で実現したと言うことである。これにはチャック・ベリーによる白人のカントリーのパクリを通じて実現を見たのである。

ビーチボーイズもストーンズもビートルズも黒人の曲はただだと思っていたクソ連中である。そしてそれに直接影響を受けているのにカントリーが嫌いだと豪語する坂本龍一はさらに悪質な泥棒だということである。

チャック・ベリーほか50年代の黒人が白人に文句を言える立場でもなかったのは明らかである。しばしば印税すらレコード会社や出版会社に搾取されていた。その事情は、ネヴィル・ブラザーズ自伝に詳しい。

原発に文句があるなら等しく北朝鮮にも文句を言え、と故吉本隆明なら言うであろう。

posted by Kose at 20:52| カントリー

ボレロからのルンバの導出は間違い(ページ削除した)

楽譜ソフトの実験で、ボレロからルンバ(ソンのクラーベ)の導出の楽譜を作ったが八木啓代、吉田憲司「キューバ音楽」を再度入手できたので、それに基づき、そのページを破棄した。

八木=吉田によれば、クラーベのリズムは、スペイン起源の6/8拍子のプント・クバーノに遡れるとされる。次が掲載されたプント・クバーノの楽譜をFinale SongWriter Demoで再現したもの。そしてそれを再生したもの(Sonarで)。

プント・クバーノ
punto-cubano.jpg



さて、この6/8拍子のプント・クバーノが「サパテオ」と同じであり、他方フランス=ハイチ産の2拍子のコントラサンサ=ハバネラ(ビゼーの盗作の奴ね)からダンソンのシンキージョ=パケテオが成立、これら6/8拍子系のリズムとシンコペーションのある2拍子が混ざって、5つの音からなる2拍子のソンのクラーベ=いわゆるルンバができるとされる。
なぜ2拍子にならなければいけなかったのはそれほどコントラダンサが流行ったからだという説である。ビゼーは盗作した上に、ハバネラをスペイン産と勘違いしているので最悪である。ハバネラはキューバのダンサだからダンサ・ハバネラと外国で呼ばれ、ダンサが省略されてハバネラとなったということである。
そう書いてあっても直ちに理解しがたい。カントリー・ミュージックはまだ2冊ほど本を読まないといけないので、その間上のルンバ成立史の楽譜とそのMP3音源を今後掲載する予定。

ごめんなさい。


posted by Kose at 19:02| カントリー

2013年02月08日

カントリーで行きまっせ #8 その他のいけてない初期ナシュビル・サウンド

グランド・オル・オープリーは次第に大きな会場を必要として移動し、1943年現在のライマン・オーディトリアムに定着する。1939年から1956年までNBCのネットワークに入り、その全国的影響力を行使するようになる。

前回書いたとおり、グランド・オル・オープリーは、あり得ない「アパラチアの郷愁」と名人芸の融合物を「演出」したショウを、アメリカの田舎者に最初から提供したのである。

この国内の異国趣味は、テネシーの月夜やケンタッキーの草原などたわいのないものも含まれた。この点まったく日本の民謡系歌謡曲とおなじ嘘っぱちなのである。その嘘っぱちと名人芸はニューオリンズについても言えるし、ヴァンヘイレンやその他ヘビメタにもいえることなのである。

しかし、明らかにナッシュビル自身に、クリエイティブなミュージシャンを生み出す想像力は欠けていた。そのため、カントリー音楽史は、西への移動してしまうのである。その西のカントリー音楽を扱う前にどんなつまらない音楽をナッシュビルが提供していたかを確かめる。20年代にオープリーで演奏したほとんどがナッシュビル近郊のなんちゃってマウンテン音楽プレーヤーたちである。彼らが「本物の」アパラチア・ミュージシャンと交流があったのかどうかも分からない。Uncle Dave Maconのようなショーマンですら、彼らに比べたらクリエイティブなのである。ナッシュビルの保守性というのは、マネしかできない性、あるいはそのまんまパクリ性の自信のなさの表れだと思われる。このナッシュビルの空っぽさが21世紀のカントリーチャートの崩壊となって現われるのである。

次のハンンプティ・ベイトは1875年テネシー中北部(Castalian Springs、ナッシュビルが最も近い都市)生まれで、アパラチアンではない。ブリストルセッションと比較して単なるマウンテンダンスミュージックでしかなく、カントリーとしてジャンル化できないものである。編成は比較的大きいのだが、それを生かすアレンジがはない。当時のラジオなので、ベースは聞こえるはずがないと思われる。オープリーには1925〜36年出演した。
Humphrey Bates & His Possum Hunters-Throw The Cow Over The Fence


つぎのバンドもテネシーのバンドである。クック兄弟は父親が事故で他界する頃にはテネシー中で有名なミュージシャンだった。ハーモニカの演奏の革新で認められている。
http://www.allmusic.com/artist/the-crook-brothers-mn0001798822
The Crook Brothers-Jobbin' Gettin' There


ブリンキー・ブラザーズに至っては、ナッシュビルの隣の町の出身である。兄弟それぞれ1888年、1893年生まれである。マウンテンミュージックではなく、そこそこ垢抜けたバラードを歌っているが、ビル・モンローがオープリーに参加したとき交代した。
Binkley Brothers-All Go Hungry Hash House


フィドラーのシド・ハークリーダーはナッシュヴィル郊外の出身である。
Sid Harkreader & Grady Moore-Old Joe


Fiddlin' Arthur Smithもナッシュビル郊外(Bold Springs)の出身である
Fiddlin' Arthur Smith - Eighth Of January


Paul Warmackhaもほとんどナッシュビル郊外(Whites Creek)の出身である。
Paul Warmack and his Gully Jumpers Robertson County


限られた写真だが、オーバーオールかスーツのいずれかしか身につけていないことに注意していただきたい。そこで例のカウボーイが、どんなに適当なものでも、ファッションとして必須になるのである。

そのためにはシンギング・カウボーイを扱わなければならないが、カウボーイについてはちょっと先入観がアメリカ人にも日本人にもある。これは歴史的に解釈し直さなくてはならないし、西部開拓史とも関連するので時間がかかるかもしれないので、どっちが先になるか微妙である。

場合によってはビル・モンローを先に扱う。ブルーグラスという音楽はない。ビル・モンローと彼のバンドのフォロワーがいるだけである。創造性を欠いた名人芸の世界である。
posted by Kose at 16:19| カントリー

カントリーで行きまっせ #7 ナッシュビル/グランド・オル・オープリーの興隆

20年代はフィッツジェラルドの本の題名で知られるようにジャズの時代であり、SPレコードの時代だった。アパラチア音楽のニューヨークのレコード会社の録音もその放流でしかない。それがメジャーなジャンルになると考えた節はない。またその後も商業的な都合でジャンルが変節するが、カントリー・ミュージックが(最近はともかく)、消えてなくならなかったのはナッシュビルの興隆の所為であるし、それはラジオ=テレビ番組グランド・オル・オープリーの興隆によるものであった。グランド・オル・オープリーを放送したWMSは強力なラジオ局でほぼ全国で聴くことができたとされる。そして大恐慌後の30年代ほぼ現代と直結するカントリー音楽が一大商業音楽として成立するのである。

しかし出発は、かなりいい加減だったとしか思えない。どちらかというと音楽寄りのショー番組から、音楽番組として成立していったことが初期の出演者の足取りから読み取れる。黒人のデフォード・ベイリーが出演していたのは驚きかもしれないが、それは番組がミンストレルショーやメデシンショーのように低級の娯楽という意図があったのが推測できる。実際アンクル・デイブ・メイコンもロイ・アンカフもそういったショーの出身であった。
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アンクル・デイブ・メイコン(既出のバンジョーを演奏する古い世代1970年生まれのエンターテナー)、ロイ・アカフ(20世紀生まれのフィドラー、シンガー)、デフォード・バレイ(1899年生まれ人カントリー、ハーモニカプレーヤー)などであった。

1925年頃にメイコンが結成したメイコン&ヘッドキーパー(後にフルーツ・ジャー・ドリンカーズを結成、ゴスペルを録音するときはデキシー・セイクリド・シンガーズ)が、ナッシュビルで演奏した3週間後にWMSの放送開始となったため、グランド・オル・オープリル最初のミュージシャンとなった。1925年12月26日のことだった。当時は別にカントリーの中心と言うこともなく、ローカルなラジオ局の一つでしかなかった。各州にラジオ局が作られ、多くのミュージシャンがローカルな番組に出演していた。これは1950年代まで続くことである。メイコンは26年間WMSに出演するが、メインパーソナリティではなく、他の人気ミュージシャンとの共演の形を取ることが多かった。このため彼に特にヒット曲はなく、バンジョー奏者としての腕はあまり評価されていない。40年代にはビル・モンローとツアーをしているがすでに70前後である。しかし、後のブルーグラスに、バンジョーがつきものだという固定観念を、あるいはステレオタイプを残すのには大いに貢献したものと思う。音がでかいリズム楽器としての役割は他のジャンルではギターの改良やジャズにおけるドラムスのフィーチャーで実際に消え失せつつあり、唯一残ったのが、でかい音を嫌う田舎のプロテスタント白人の音楽分野だけであったということである。

バンジョーは民俗楽器でも何でもなく、まして現代においてバンジョーは時代錯誤であるのは、楽器の音量の歴史から明らかである。このかわりにギターやフェンダーエレキギターがブルーグラス以外からバンジョーを追放することにつながるのである。

UNCLE DAVE MACON-BUDDY WON'T YOU ROLL DOWN THE LINE

むしろ、おどけたボーカルと、ショー的な間奏部分のバンジョーのピッキングが、カントリーミュージックのバカみたいで名人芸に走るショー的要素が一通り入っている演奏だと思う。

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1903年テネシー生まれのロイ・アカフ(Roy Acuff)は「カントリー音楽の王」とよばれる。ヒット曲は知られていないが、音楽的スタイルの洗練と、ナッシュビル・サウンドの商業的確立には多大な業績がある。ナッシュビル音楽は産業に発展するのである。さらに彼は1942年音楽出版社を設立し、ハンク・ウィリアムズ、ロイ・オービソン、エヴァリー・ブラザーズと契約し、パティー・ペイジの「テネシー・ワルツ」をヒットさせる。

アカフは、まず最初野球選手だったがその後メディンショーに雇われ、伝説のアパラチアン・バンジョー・プレイヤー、クラレンス・アシュレイと会い、彼から「The House of the Rising Sun」「Greenback Dollar」を学ぶ。
Roy Acuff The house of rising sun 1938


スチールギターとベースが入っているが、それは生まれ故郷のノックスビルのラジオ局で演奏をしていたとき、ハワイアン・ギタリスト、クレル・サニーが、ベーシスト・レッド・ジョーンズがアカフのバンドに入ったためだった。その後バンド名をクレージー・テネシーマンに変え、クリアなアカフのボーカルが人気となって(メイコンとは逆だ)、多くの曲をレコーディングする。
Roy Acuff - Great Speckled bird 1936


ジーミー・ロジャース=カーター・ファミリーの流れから言えば水準の高い演奏だが、あくまで東部から見た南部人のステレオタイプで商売をするグランド・オル・オープリーは、彼らのバンドをオーディションで落とした。バンドは名前を変え、アパラチア風のスモーキー・マウンテン・ボーイズにしたあと、オープリーに出演するが、スチールギターがビーチャー・カービーに代わり、高音のバンド・サウンドを確立し、メイコンと共演したりもするようになる。1940年にハリウッドに進出、メイコンらとの映画を残すほか、1943年B級映画「O, My Darling Clementine」などに出演し歌う。アカフが司会を務める「グランド・オル・オープリー’プリンス・アルバート」が1938年から1946年まで続く。

彼のクリアなボーカルはジミー・ロジャースの直系であるし、なによりもスチールギター(アコースティック)をメインの独奏楽器に高めたことは、好き嫌いにかかわらずカントリーのサウンドに決定的変化を及ぼした。ナッシュビルの保守性はドラムやエレクトリック楽器の拒否にも表れるが、アカフはその革新でも少なからぬ役割を果たしたと思われる。まったくアコースティックのビル・モンローと決定的に分枝してしまったと言うことである。
Roy Acuff - Wabash Cannonball 1939


Roy Acuff & The Smoky Mountain Boys / Country Style USA


Roy Acuff - Great Speckled Bird

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デフォード・ベイリー(DeFord Bailey)

最初のグランド・オル・オープリーひとりで、しかも最初の黒人だった。ハーモニカがメインdねたの楽器もプレイした。次のナンバーが十八番らしいが、このスタイルはブリストル・セッションでEl Watsonが演奏した「Narrow Gauge Blues」と類似しているものである。
Pan American Blues


彼は1927年から1941年までオープリ−に出演するが、著作権団体BMIとASCAPにより、公の演奏を事実上禁じられ、音楽界から追放され、靴磨きなどして暮らしたという。理由は明確でない。まあ、たぶん人種差別であろう。
のちに、リバイバルしたときの映像が残っている。

DeFord Bailey Playing Fox Chase and Pan American Blues.


DeFord Bailey: A Legend Lost


DeFord Bailey: A Legend Lost 2
posted by Kose at 11:32| カントリー

2013年02月07日

カントリーで行きまっせ #6 カーター・ファミリー(4)変遷とヒットソング

僕が買ったCDは2枚組で50曲も入っているのだが、これを全部聴くのはさすがに退屈である。しかしオリジナル・カーター・ファミリーは、APとセイラが1936年離婚し、セイラがAPのいとこと結婚した1944年解散する。
それに先立ちメイベルはクック・ファミリー・シンガーズに惚れ込み、ツアーをともにしたり、1939〜40年のレコーディングにはAPとセイラの子供と、メイベルの子供も参加するなどサウンドが変化する。このため1939年以前あるいは1936年以前がオリジナル・カーターファミリーと言うことになるだろう。この時期はラジオ番組を持つようになっていた。
なお1933年にはブリストル・セッション同期のジミー・ロジャースと乗れコーディンをしている。
メイベリンは娘たちとカーター・シスターズの名称で活動を続けチェット・アトキンスとレコーディングもしている(つまりナッシュビル録音をしたと言うことだ)、セイラも別に子供たちと1950年代活動した。1960年APが他界するが、メイベルのカーター・シスターズは、カーター・ファミリー名義で活躍することになる。映像が残っているのはメイベルのグループである。

今ひとつAPの影が演奏面で薄いが、彼はトラディショナルの蒐集を友人の黒人ギタリスト、レスリー”エズリー”リドルとやったり、オリジナルを作曲をして、大量の曲をセイラとメイベリンに提供したものと思われる。

重大なのはカーター・ファミリーがヒットしたと言うことである。ジミー・ロジャースとともに基本的にギターをバッキングにしたソロボーカル(およびシンプルなコーラス)のスタイルが人気を集めたと言うことである。コーラスは二の次だし、ギターピッキングも二の次である(この点で日本のWikipediaの記述はデタラメである)。これ以降、やかましいフィドル・ダンス・ミュージックややかましいゴルペル・コーラスは時代遅れになったのである。これは録音音楽の勝利である。
1930年代にはラジオ局が各地に開設されるため、マイクを通した演奏が一気に広まる。その基礎を築いた点において、プレスリーやビートルズより偉大なのである。そう聞こえなくてもだ。

代表曲のひとつ。完全にセイラの高音のソロとメイベルのギターだけである。
Wildwood Flower


かなり、南部訛りの強い低めの声でドスをきかせて歌うセイラ
Meet Me By The Moonlight Alone (Prisoners Song)


ゴスペル的3パートハーモニーを生かしたもの。こういうコーラスの場合はほぼゴスペルの可能性が高いというお約束なのである。この点ブルースと黒人ゴスペルの関係に等しい。ブルースでハーモニーというのはない。逆に黒人のゴスペルではソロは分厚いコーラスに飲み込まれるのである。これは共同体と個人のアメリカの根本的な文化を象徴している。カーター・ファミリーの場合は両方できたと言うことで、浅はかなフォークソングファンが言うように単にレパートリーとして、いろいろやりましたと言うだけではないのである。
Can the circle be unbroken
http://youtu.be/qjHjm5sRqSA
寒い曇った日、窓辺に立ち
私のママを運ぶ 霊柩車が来るのを見た

絆は永遠に途切れない さようなら、主よ、さようなら
よりよき家が待っている 天上に、主よ、天上に
(以下略)


スライドはメイベルだそうである。こういうスタイルと言うことは世俗の歌だと言うことだ。こういう場合、躊躇なくラブソングを歌うのである。
Little Darling Pal Of Mine
http://youtu.be/gX0za9bG1qg
琥珀色の空の夢を見ながら
あなたが眠っている夜
ため息を聞きながら 
貧しい少年は胸を痛める

愛しの人よ、愛する人よ
言葉では言い表せないほど
あなたは心の中で、他の人を愛している
愛しの人よ、私の友よ
(以下略)


これもほとんどソロなので、世俗の歌である
Forsaken Love
http://youtu.be/5YWiPshxH7k
月夜、門の脇に立つ人々
さよなら愛しい人、あなたが待っているのは分かっている
彼女が涙で泣いたり笑ったりするのが分かっている
ずっとずっと本当に愛していると言うことも

明日夜明け 彼は遠くへ旅立つ
彼は彼女を抱きしめ、結婚を誓い
彼女にも誓いをもとめる
(以下略)


タイトルからラブソングと勘違いしてはいけない。これはスタイルがゴスペルで歌詞を見てもゴスペルなのである。
Anchored In Love
http://youtu.be/6Q4r9ej0bCQ
私はとうとう麗しの日の光輝く天国と
天上のイエス様を見出しました
主の御手はやさしく私に投げられ
やさしく主の愛を語ります
(以下略)

このまったくコーラスの入らない歌は歌詞を見るとほとんどブルースであるが、宗教的でもあるが、明示的にゴスペルではない
I Aint Gonna Work Tomorrow
http://youtu.be/PHLmOLCUGNA

・・・・・
悲しくて首を吊るだろう
首をつって泣くだろう
悲しくて首を吊るだろう
愛しい人が見向きもしないから

明日はもう働かない
その次も働かない
明日はもう働かない
雨の日でびしょ濡れだから


これもブルース的だが、宗教的でもあるものの明示的にゴスペルではない
Will You Miss Me When I'm Gone?
http://youtu.be/Uyb1GCuCy2I
死が瞼を閉じるとき
この心臓が鼓動を打つのをやめたとき
人々が私の体を横たえ
花を供えて黙とうするとき

あなたはさみしく思うの?(私がいなくてさみしく思うの?)
あなたはさみしく思うの?(私がいなくてさみしく思うの?)
あなたはさみしく思うの?(私がいなくてさみしく思うの?)
あなたは私がいなくなっててさみしく思うの?
(以下略)


これは全くのゴスペルで、ゴスペルのほうが陽気。個人で現世の辛さを受け止めるほうが悲しくなるのは白人も黒人もないというわけである。Jordanはジョーダンではなくて、パレスチナのヨルダン河のことである。
River Of Jordan
http://youtu.be/_sxUljhkYkg
ヨルダン川に行くところ、オーイェー
ヨルダン川に行くところ あともう少し ハレルヤ
ヨルダン川に行くところ
ヨルダン川に行くところ あともう少し


これは全くのノベルティソング。保守的って、これかなりエッチだし、不道徳だと思うだが、気のせいか?
Chewing gum
http://youtu.be/4HGkyBomjIA

ぼくは思春期になったけど、ママは早く大人になれといった
僕はかわいい女子に恋をして、大人になる気はなくなった

チューインガムをかみかみ、チューインガムをかみかみ
チューインガムをかみかみ、チューインガムをかみかみ

最初彼女は桃をくれた、つぎに彼女は梨をくれた
次に50銭と暮れて、階段でキスしてくれた

ママはぼくに笛を吹かせてくれない パパは僕に歌を歌わせてくれない
二人は結婚なんか許してくれない 僕は二人みたいに結婚するんだ

僕には弁護士なんかいらない、なぜだか話そう
そいつが口を開くとき、大嘘ばかりつくからさ

僕には医者なんかいらない、なぜだか話そう
国中を回って、患者をみな殺すからさ

僕には百姓もいらない、なぜだか話そう
なんたって大食いで、パンプキンパイに目がないからさ

昨晩彼女を教会に連れて行った。彼女どうしたと思う?
彼女は牧師の目の前まで歩いていき、チューイン・ガムをかみかみしたのさ


次の歌はトラデショナルで、1894年死刑になった鉄道員ジョン・ハーディのことを歌った時事ネタの歌
John Hardy Was A Desperate Little Man


かくして、歌詞も含めてみると、フォークソング=カントリーを敵視する根拠のないリベラズムが、カーター・ファミリーの革新性をまったくゆがめて評価しているとしか言えない。基本的にカーターファミリーなしに白人女性ソロ弾き語りシンガーは「なかった」というべきだから(ジョーン・バエズも含め)、どれだけ革命的だったか、フォークソングやカントリー・ミュージックの屑のリスナーは、せいぜいワルター・ベンヤミンでも読んでから評価をし直せ。アホども。

次は、ジミー・ロジャースとの珍しい共演である。髪をリーゼント風に撫でつけているロジャースの写真は間違いである(1960年のポップ歌手の方)。
The Carter Family with Jimmie Rodgers - Why There's A Tear in My Eye


そんで坂本龍一は二次情報で音楽を評価しているということがよくわかった。パクリを容認するのは二次情報でなんでもやっているロッキング・チェア・ミュージシャンだからだな。
posted by Kose at 17:45| カントリー

カントリーで行きまっせ #5 カ−ター・ファミリー(3)成功

3人のカーター・ファミリーはブリストルセッション後、27年秋と、28年に代表作となり、カントリーミュージックの定番とも鳴る曲を含む次の曲をレコーディングした。
1927年秋録音の両面SP盤「Wandering Boy」(既出、セイラのソロ歌唱)、「Poor Orphan Child」を1928年リリース。

「Poor Orphan Child」は、セイラのリードとAPのコーラス(メロディーでなくコードトーンを歌う)で、コーラス部は当時のゴスペルに似ににたコーラスワークである。メイベルのギターは普通のストロークのように聞こえる。歌詞は母親を失ったことどもの救いをイエスが導くというゴスペル
Carter Family-The Poor Orphan Child 1927


セイラのリードに、APの低音のコーラスだけ。ギターはストローク、オートハープが演奏荒れている。旅に出て荒に遭ってもも帰ってくると言う、放浪する男のラブソング
The Storms Are on the Ocean 
http://youtu.be/v-iXemfEkFw

初めて、カーターファミリー・ピッキングが使われた記念碑的曲。インストルメンタルバートが加わる。歌はセイラのソロ。オートハープがバックビートを強調。日本の現代女性にも当てはまる、ラブソングでもない世俗的な歌詞
The Carter Family Single Girl, Married Girl
http://youtu.be/Lsmgy0dqzyw
(それぞれの行を繰り返す)
未婚の少女はすてきに着飾る
結婚した少女はどんなものでも着る

未婚の少女はショッピングをする
結婚した少女はゆりかごを揺らしながら涙する

未婚の少女は楽しみに行く
結婚した少女は赤ん坊を膝に抱く

それぞれヒットした。穏健ながらもかなり皮肉が入った歌詞で、これを保守的といって平然とする日本フォーク界はそんなに立派な歌詞を書いてきたのか逆に問いたいものだ。
はやく死ねよ吉田拓郎その他・・・くだらない奴ら。

1928年にヒット曲となる曲をニュージャージーでたくさん録音する

刑務所の歌。ワルツ。初めてコーラス部で3パートコーラスを歌う
Carter Family-Meet Me By The Moonlight Alone


代表曲で多数のカバーを生むカントリー・ミュージックの定番となる曲
出だしはセイラのソロ、2行目からAPのコーラス、コーラス部は3パートハーモニーという得意なスタイル。歌詞はなんてことはなく、最後にキリストの名が出てくるものの、この程度はゴスペルではなく、単なる楽しみを肯定できないプロテスタントの教訓好きの名残であろう。
The Carter Family - Keep on the sunny side
生きてれば悲しいこと、つらいことがある
けど楽しく、明るい時もあるんだ
憂鬱なもめ事に苦しんでも
いつか明るく楽しいときが来る
(コーラス)
明るく行こう
いつも楽しく行こう
人生は楽しまなくちゃ
そうすれば何とかやってける
どんなときにも明るくなれる
人生を楽しむなら

今日猛烈な嵐が来て
慈しんできた希望を粉々にする
雲と嵐が過ぎ去れば
再び太陽が明るく輝く

毎日希望の歌で挨拶しよう
晴れでも曇りでも
救い主をいつも信じよう
そのご加護にいだかれるため

次は、メイベルと家族の60年代のカーターファミリー
Mother Maybelle & The Carter Sisters - Keep On The Sunny Side


Johnny Cash & Cater Family Keep on the Sunny Side) June 28 '69


実に40年間ヒット曲であり続けた曲なのであった。
posted by Kose at 09:41| カントリー

2013年02月06日

カントリーで行きまっせ #4 カーター・ファミリー(2)伝記

カーター・ファミリーの誕生までの重要な記録がWikipedia日米に掲載されていないし、その他にもなかなかない。次のOldies.comのThe Cater Familyの「biography」の冒頭の部分を訳出した。
http://www.oldies.com/artist-biography/The-Carter-Family.html

これによって、なぜフィドルその他独立したメロディー楽器が入らず、メイベル・カーターのカーター・ファミリー・ピッキングがその代わりをし、コーラスが薄いのかがわかる。彼らの出発は、確かに地元の教会の集まりであったかもしれないが、父親の世代から音楽一家であり、多くを家族の中で演奏したことが、その他商業的ゴスペルグループと異なる点であり、ジミー・ロジャースで指摘するのを忘れたが、少なくともAPカーターがシンガー・ソングライターで、トラディショナルでもゴスペルでもない、オリジナル曲を歌うことができた点も多くのミュージシャンと異なり、ジミー・ロジャースと共通する点でもあった。APはフィドルを弾けたし、セイラとメイベリンはバンジョーも弾けたがあまり演奏していない(APの父母の宗教上の理由とされているが、記述が見つからないものの、母方がプロテスタントで、ダンス音楽の演奏がタブー視されたのかもしれない)。そのため皮肉にもレコーディング・ミュージシャンとして、まだ新しい楽器であるギターの魅力を初めて最大限引き出したミュージシャンと言えるのは確実である。
驚くべきは、APが黒人ミュージシャン、リドルズと共同で歌の収集の旅をし、メイベルのギターがその影響を受けた可能性があることである。当然、カントリーブルースも収集していたであろうし、カーターファミリーピッキングには、カントリーブルースの血が流れている可能性があると言うことである。ジミー・ロジャースにおいてもそうだったが、カントリーのルーツの半分はブルースであるといってよかろう。
またこれもWikipediaとかに当たり前のこととして書かれていないが、リードシンガーは妻セイラで、ぼくのもっているCDを聴く限り、APがバースでハモることは多いが、三人で3パートハーモニーをするのはコーラス・パートにしばしば限定される。したがって、カーター・ファミリーがコーラスで秀でているということはない。むしろ白人ゴスペル・グループの方が分厚いコーラスを歌っていたのであり、そのシンプルなコーラスに特徴があるのである。その影響はカントリー・ミュージックに決定的だと思う。

カーター・ファミリーの誕生(伝記)
カーター・ファミリーはカントリー・ミュージックの最初のファミリーとして、またカントリー・スタンダードとなった「ワイルド・フラワー」「キープ・オン・ザ・サニーサイド」のようないくつかの曲で有名である。カーター・ファミリーのオリジナル・メンバーは、A.P.カーター(Alvin Pleasant Delaney Carter:アルヴィン・プリーザント・カーター、1891年12月15日バージニア州スコット郡メイセス・スプリング誕生、1960年11月7日バージニア州スコット郡メイセス・スプリングで他界)、彼の妻セイラ・カーター(Sara Dougherty:セイラ・ドウアティ、1898年7月21日、バージニア州ワイズ郡コバーン、フラットウッド誕生、19791月8日カリフォルニア州ローダイで他界)、セイラの姪(Maybelle Addington:メイベル・アディントン、1909年5月10日バージニア州スコット郡ニッケルズビル、カッパー・クリークで誕生、テネシー州ナッシュビルで1978年10月23日他界)である。APはまた子供の頃フィドルを演奏し始め、母から多くのオールド・タイム・ソングを学んだため「ドク」カーターとしても知られる。彼の父はフィドラーだったが結婚するとき宗教の信仰のためやめた。若いときAPは地元の教会で二人の叔父と姉と4人で歌った。最初彼はインディアナの鉄道で働いたが、バージニアのクリンチ・マウンテンのホームシックとなり、1911年地元に帰った。彼は作曲に興味を持ち、旅する果物の苗木売りの仕事を見つけた。

旅の途中ある日、「エンジン143」を歌いながらオートハープを弾く(と伝説は言う)セイラと出会い、1915年6月18日結婚した。セイラはバンジョ−、ギター、オートハープを学ばなければならなかった。また子供の頃、地元でマッジ、メイベル、その他友人と定期的に歌った。二人はメイセス・スプリングに家を建て、APは農業や庭師を含むいろいろな仕事をした。そして地元の教会の社交場や他の機会に一緒に歌い演奏した。二人は「海のそばのログ・キャビン」のような歌を歌ってブランズウィック・レコードのオーディションを受けたものの、レコード会社はフィドリン・ドクとしてスクエア・ダンス・フィドル・ソング演奏したが、ドクは父や母の強い信仰心反すると感じたためレコーディングを素っ気なく断った。

1926年APの兄弟エズラ・J・カーターとの結婚後、メイベル(アディントン)が親戚のグループに入り地元でエンターテイメントトリオを始めた。新たな義理の姉と同じように、メイベルはギター、バンジョー、オートハープが同じように弾けた。そしてベース弦でメロディーを弾き、高音でバックビートをはじく独自のスタイルをすぐ作り上げて、トリオのメイン・ギタリストになった(メイベルは、APが歌探しの旅いに行ったとき同行した黒人ギタリスト、レスリー・リドルズの影響を受けたかもしれない)。セイラはオートハープをしばしば弾きながら、リードボーカルを担当し、APはベースを、メイベルはアルトのコーラスを加えた(セイラはまたおそらく彼女の好みと言うよりレコード会社のプロデューサーの指示だったがいくつかのレコーディングでヨーデルを入れた)。

カーター・ファミリーのサウンドは全体として斬新なものだった。初期のフォークやヒルビリー音楽のボーカルは普通楽器演奏の二の次だったが、シンプルなハーモニーを使うトリオは楽器をボーカルを優先する形でしか使わなかった。1927年7月地元の新聞がビクターレコードのらルフィ・ピアがテネシーのブリストルで地元ミュージシャンのオーディションを行うと報じた。セイラは3人の子供がおり(最年少はたった7ヶ月だった)、メイベルは初めての妊娠で7ヶ月だったが、彼らはブリストルに向け25マイルの旅をし、8月1日初めてのレコーディングをした。彼らは6トラック録音した。ピアは強い印象を受けレコードは彼らとレコーディング契約をビクターが結ぶのに十分なセールスを記録した。

1928年から1935年までの間に彼らは‘Keep On The Sunny Side’, ‘Wildwood Flower’, ‘I’m Thinking Tonight Of My Blue Eyes’, ‘Homestead On The Farm’ (別名‘I Wonder How The Old Folks Are At Home’), ‘Jimmie Brown The Newsboy’ and ‘Wabash Cannonball’などの彼らの多くの古典的名曲のオリジナル・バージョンを含む多数のトラックをビクターでレコーディングした。
posted by Kose at 17:08| カントリー

2013年02月05日

カントリーで行きまっせ #3 カーター・ファミリー(1)

カーター・ファミリーは、夫アルヴィン・プリーザント・デレーニー・カーター(A.P. Carter、1891-1960)、妻サラ・ダウアティー・カーター(Sara Carter、1898-1979)、娘メイベル・アディントン・カーター(Maybelle Carter、1909-1978)の3人からなる。
1927年7月31日ブリストル・セッションで演奏するまで、演奏活動はしていないヴァージニアであった。
一家の出身地ヴァージニア州メイセス・スプリング(Maces Spring)はヴァージニアの最南西部で、テネシー州ブリストルのわずか20〜30km北西の山間部である。現在メイセス・スプリングを走る州道614号線はA.P.カーター・ハイウェイと呼ばれている。それ以外ほとんど何もない。まったくブリストルでなければカーターファミリーが出かけることはなく、アメリカ・ポピュラー音楽はかなり異なったものになったのは、ブリストル・セッションの他のグループと比較して明らかである。
メイセス・スプリング−ブリストル地図
http://goo.gl/maps/f2GFm

他のコーラスグループは、おそらくキリスト教の集会でゴスペルと称して娯楽を提供したものが大変多い。あるいは世俗的なグループはフィドル・ダンスのバンドであった。例外はあったが、今日の水準でジミー・ロジャースとカーター・ファミリーだけが、ソロボーカルをフィーチャーした、ギター伴奏だけの音楽を聴かせることを目的とする(宗教やダンスと関係ない)ミュージシャンだったと言うことである。カーター・ファミリーはゴスペルもレパートリーにしたかもしれないが、Wikipediaの記述は他のグループの極端な保守性と比較して記述していないため的外れで間違ってさえいる。

この宗教や伝統的ダンスへの音楽の拘束があったため、エンターテイメント目的の音楽が、メデスン・ショウやミンストレル・ショウという、共同体外部の旅芸人にもっぱらゆだねられてきたということである。この点を見ずに、19世紀の音楽を語るのはばかげており、またブルースとカントリーが分化するのが、レコードとラジオの普及する20年代後半以降、本格的には30年代となると考えるべきである。そもそも南部では教会は人種別だったので、ゴスペルといってもまったく交わることはなかったと思われる。このためブリストル・セッションは、白人ゴスペル・グループが閉鎖的で、そのご発展を見なかったことも確認できる(黒人ゴスペルグループは50〜60年代R&Bを取り入れ世俗的になる)。逆に言えば現代カントリー・ミュージック・ファンのサイレントマジョリティが、白人ゴスペルグループの面影を追っている可能性があるということだ。

親指でベース音とメロディーの両方を弾き、人差し指で高音のコードを弾くいわゆるカーター・ファミリー・ピッキングのギターは娘のメイベルのテクニックである。

コーラスだが、明らかに多人数のこれまでおそらく人前で歌ってきたゴスペル・グループとは異なる。家族内でしか、演奏していないため、大きなしばしばうるさい声を出さないスタイルができていたのである。またリードが独立していていて、ハーモニーが副次的なのも異なる。

次のブリストル・セッションの曲はハーモニーがない。ギターもシンプルなものである。曲の由来が一切分からないので歌詞を訳す。
Carter Family - The Wandering Boy (1927)
THE CARTER FAMILY - The Wandering Boy

Out in the cold world and far away from home
Somebody's boy is wandering alone
No one to guide him and keep his footsteps right
Somebody's boy is homeless tonight
家から遠く、冷たい世界で
少年がひとりさまよう
誰も彼を導きはしないし、足取りを正しはしない
少年が今夜も家もなく

Out in the hallway there stands a vacant chair
Yonder's the shoes my darling used to wear
Empty the cradle, the one that's loved so well
How I miss him, there's no tongue can tell
玄関の椅子に座る人はいない
私の坊やはいた靴
あれほど愛したゆりかごは空っぽ
どれほど彼がいなくて寂しいか、語る言葉はない

Bring back my boy, my wandering boy
Far, far away, wherever he may be
Tell him his mother, with faded cheeks and hair
At their old home is waiting him there
我が息子よ帰れ、さまよう少年よ
遠く遠く、たとえどこにいようとも
やせこけた母のことを彼に語れ
昔の家が彼を待っていると

Oh, could I see him and fold him to my breast
Gladly I'd close my eyes and be at rest
There is no other that's left to give me joy
Bring back my boy, my wandering boy
ああ、彼に会えたら、彼を私の行きでくるめたら
嬉しくて目をつむり、じっとする
私を喜ばせる他のものはない
我が息子よ帰れ、さまよう少年よ

Well I remember the parting words he said
We'll meet again where no sad tears are shed
There'll be no goodbyes in that bright land so fair
When, done with life, I'll meet you up there
別れ際に彼が言った言葉を覚えている
悲しい涙を流すことのない場所でまた会えると
そんなすてきな場所ではサヨナラはいいらない
人生を終えたとき、天国であなたと会える

Bring back my boy, my wandering boy
Far, far away, wherever he may be
Tell him his mother, with faded cheeks and hair
At their old home is waiting him there
私の息子を帰して、私のさまよう少年
遠く、いくら遠く、たとえどこにいようとも
やせこけた母のことを彼に語れ
昔の家が彼を待っていると

これは確かに若干宗教的な部分がある。"up there"が「天国」だとわかる日本人は多くないだろうけど。それすら1920年代の南部のエクスキューズだとみることができる。
そして母と息子の話のように読むのが普通だが、sonという言葉は出てこず、my darlingという言葉が当てられていたりする。要するに、これは失恋ソングと意味をくむことが可能なのである。
つまり隠れブルースであって、ジミー・ロジャースと相通じるものがあるのである。

時代と土地に由来する保守性をカーターファミリーに帰するのは「間違いだ」。このように女性がソロで歌うことの方が「革命的」なのである。

いわゆる「フォーク・ソング」ファンはそろいもそろって今までバカだったのか???



posted by Kose at 18:56| カントリー

カントリーで行きまっせ #2 ジミー・ロジャース(カントリーの父)

3人のジミー・ロジャースがいる件で、すでにジミーロジャースを扱った。
1)カントリーの父、シンギング・ブレーキマン、ブルーヨーデルのジミー・ロジャース(Jimmie Rodgers:1897-1933)
2)マディ・ウォーターズ・バンドのギタリスト、シカゴブルースマン、ジミー・ロジャース(Jimmy Rodgers:1924-1997)
4)60年代ポップシンガー、ジミー・ロジャース(Jimmie Rodgers:1933)
似たような名前はさらにいくらでもいると思うが、米音楽界ではこの3人である。
1)と2)は同じくらい偉そうだが、3は格落ちである。

今回は1)カントリーの父、ジミー・ロジャースである。

Jimmie Rodgers.jpg

出身は、アパラチアやその周辺ではない。いわゆるミシシッピデルタの中心部といえるだろう。しかし彼は小作(シェアクロッパー)の息子でもなかった。
家庭の事情ではっきりしないが、ミシシッピ州東部のメリディアンか隣接するアラバマ州西部ゲイガーのいずれかである。父親が鉄道会社勤務で、ロジャースも鉄道への憧憬を持っていたが、早くも13歳で旅芸人のショウを始めた。彼の父親が鉄道の水係の仕事を彼に見つけ、ロジャースはそこで鉄道手やホーボーからギターピッキングを習ったりしたというロマンチックな話が伝えられている。そして彼の兄がつとめていたニューオリンズとメリディアンを走る「New Orleans and Northeastern Railroad」会社の制動手(ブレーキマン)の職に就く。鉄道の話が長かったのは、なぜ彼が「歌うブレーキマン」と名乗ったかで、このフレーズがその後「シンギング・カウボーイ」という用語の元ネタになるからである。
 その鉄道は現在は「Norfolk Southern Railway」に吸収されて残っている。
ロジャースは27歳で結果を患い、鉄道会社を一時辞めるが、そのとたん再び旅芸人ショウをを再開するが、サイクロンでテントをとばされ断念し、マイアミで再び鉄道の職を得るが1年経たずやめ、1927年メリディアンに帰る。

 すでに鉄道が整備されて、それで、旅芸人が巡回ショウやっていたことがうかがわれる。それがミンストレルと呼ばれるのか呼ばれないのか何にも分からない。しかし、ロジャースがさまざまな音楽に接する機会が豊富にあったことを示唆する。これは、通説のカントリーのアパラチアン起源説が、19世紀末以降の物理的交通や、社会的交流などの流動化を媒介にしてない、人的伝搬説であることを示唆する。ロジャースの存在は、鉄道とラジオが、後にカントリーと呼ばれるものに決定的役割を果たしたことを物語るものである。この移動や交流がない場合、音楽は宗教的装いを脱げないわけである。この点は白人も黒人も同じで、ゴスペルと、カントリーないしブルースにスタイル上の違いがないのはこのためである。それにすでに見たようにピアの移動レコーディングのテクノロジーが加わる。これらがすべて、沈黙していたかのような南部の音楽文化の一面を商業的で洗練されたものに変えるようになるのである。ミンストレルが起源であってもなくてもだ。

 そしてロジャースは、ノースカロライナ州アシュヴィルのラジオ局WWNCで4月18日午後9時30分オーティス・カイケンダルと演奏。数ヶ月後テバヴァ・ランブラーズというバンドを「ブリストルで」結成!ジミー・ロジャース・エンターテイナーズとしてラジオ番組を持つ。7月バンド仲間がピアのブリストルのレコーディングを知り、8月3日にブリストルに到着。翌日録音が決まったが夜の議論でバンドは解散。ロジャースだけの録音となった。「The Soldier's Sweetheart」「Sleep, Baby, Sleep」を約二時間で録音してロジャースは100ドルを受け取る。

 レコードは10月7日リリースされまあまあのヒットとなった。ロジャースは11月さらに娯楽性を高めようとニューヨークに行って、ピアとセッションを行い、「ブルーヨーデル」(Blue Yodel)と知られる「Tフォー・テキサス」(T for Texas)が生まれた。ビクターがリリースすると50万枚のヒットとなった。彼は一気にスターとなり、ショウはソールドアウトとなるようになった。

Jimmie Rodgers - T For Texas (1927)


コードはブルース進行を借用しているのは明白だし、次の歌詞の通り、美声とヨーデルにもかかわらず、ブルースである。
T For Texas(Blue Yodel No1.) *必ずしも同じではない。

TはテキサスのT、テネシーのT
TはテキサスのT、テネシーのT
TはテキサスのT、テネシーのT
TはテルマのT
俺を傷つけた女の名前さ
[Yodel]: O-De-Lay-Ee-A-Lay-Ee-O-Ly-Ee

女なんかいらないなら
もめ事とは関係ない
女なんかいらないなら
もめ事とは関係ない
女なんてお客よりたくさんいるから
汽車は汽笛を鳴らすのさ
Yodel

俺はピストルを買いたい
威勢をはるためにな
俺はピストルを買いたい
威勢をはるためにな
俺はかわいそうなテルマを撃つんだ
ただ彼女が驚いて飛び上がるのを見たいから
Yodel

俺はショットを買うんだ
長い縦断のベルトのついた奴
俺はショットを買うんだ
長い縦断のベルトのついた奴
俺の女を盗んだ
牧師を撃ちたいから
Yodel

泥水を飲むくらいなら
人のいないぼろ屋さがして眠るのさ
泥水を飲むくらいなら
人のいないぼろ屋さがして眠るのさ
アトランタに行って
野良犬みたいに扱われるくらいなら
Yodel


彼が、弾き語りで、それまでの主役のフィドルなどマウンテン・ミュージック楽器を使わなかったのは気がつかないが、きわめて新しい。これはレコーディング技術ででかい音の楽器に頼らなくてもよくなったことが大きいかもしれない。
またジミー・ロジャースが、ブルース詩をよく知っていたのは明らかである。自分を捨てた女への恨み節は、まあ多くのブルース歌詞の特徴であるから。ジミー・ロジャースがブルース詩に影響を与えた可能性も否定できない。ハウリン・ウルフは明確にインタビューで、ロジャースのヨーデルをコピーしようとしたできず、ハウルことになったと語った。
Howlin' Wolf - Smokestack Lightnin'


白黒つけたがる人には残念だし、黒人差別が厳然とあったのは本当だが、南部で相互に影響があった可能性はかなり高い。
初期のブルースマンも同時期レコーディング次々やっている。レイスレコードで黒人向けと思うかもしれないが、大半の黒人がプレーヤーを買えるほど恵まれていなかったのだから、録音の動機は曖昧で売れもしなかったらしい。

ジミー・ロジャースは、1928年からコロンビア映画のショートフィルム「シンギング・ブレーキマン」に出演し、その姿を後世に残した。というかビートルズに先駆けること30年余年、世界初のプロモーション動画。

Jimmie Rodgers, "The Singing Brakeman" (1930)



「Blue Yodel No.9」(1930)は、弾き語りではなく、ルイ・アームストロングとの共演である。
http://youtu.be/9BFbY9Vw8DM

人気のある曲のひとつ
'T.B. Blues' JIMMIE RODGERS (1931)
http://youtu.be/kgObKhTzHe4

結核の病気もちだったが、大恐慌後、ツアーを多数こなさなければならず、健康をむしばんだ。次の2曲が35歳1933年他界する直前に録音したものである。前者はマディー・ウォーターズに同名異曲のものがあるというか、「Tフォー・テキサス」同様、歌詞にマディ・ウォーターを読み込んでいる
'Mississippi Delta Blues' JIMMIE RODGERS (1933)


Jimmie Rodgers - Years Ago (The last recording of Jimmie Rodgers)


マール・ハガードがよくカバーし、「 Same Train, A Different Time: Merle Haggard Sings The Great Songs Of Jimmie Rodgers」というアルバムを出した。
Merle Haggard - My Old Pal
http://youtu.be/I0LlR9IJ1tI

Merle Haggard - Hard Times Blues("No Hard Times") Live
http://youtu.be/7FBVw6_kss4

ディランは、1997年多数のミュージシャンのトラックを含むトリビュートアルバムを制作した
The Songs of Jimmie Rodgers, A Tribute


1. Dreaming With Tears In My Eyes - Bono
2. Any Old Time - Alison Krauss And Union Station
3. Waiting For A Train - Dickey Betts
4. Somewhere Down Below The Mason Dixon Line - Mary Chapin Carpenter
5. Miss The Mississippi And You - David Ball
6. My Blue Eyed Jane - Bob Dylan
7. Peach Pickin' Time Down In Georgia - Willie Nelson
8. In The Jailhouse Now - Steve Earle & The V-Roys
9. Blue Yodel #9 - Jerry Garcia, David Grisman, & Jophn Kahn
10. Hobo Bill's Last Ride - Iris DeMent
11. Gambling Bar Room Blues - John Mellencamp
12. Mule Skinner Blues - Van Morrison
13. Why Should I Be Lonely - Aaron Neville
14. T For Texas - Dwight Yoakam

ブルースをナンバーをヒットさせた最初の人であり、ハウリン・ウルフだけでなく、当時の多くのブルースマンにも影響を与えた。イギリス人と違って白人が黒人をパクっていたばかりではないことを示す労働者階級のヒーローである。

Mississippi John Hurt - Let The Mermaids Flirt With Me
http://youtu.be/0Voii1RlWc0

残念だが、カントリーに偏見が多い日本人は、ジミー・ロジャースの功績をまったく評価できていない(僕も知らなかったが)。日本盤のCDはない。

Elton john and Leon russel - Jimmie rodgers dream (2010)
http://youtu.be/Iurh6-IQBxY
posted by Kose at 12:59| カントリー