2015年12月04日

1960年代サンフランシスコ再訪

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


下院非米活動委員会“Operation Abolition”1960


サンフランシスコに巣食う共産主義者を告発するという内容のアメリカの国策映画。
字幕で英語を表示すると多少わかりやすい。45分位ある。
映り込んでいるかわからないが、当時ジョン・サールはそこにいてフリースピーチムーブメントにのめり込むきっかけとなった。『発話行為』は1964年にはできていた。

サンフランシスコじゃないけど:
ケネディ演説 President Kennedy 1961 Inaugural Address
「And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you
-- ask what you can do for your country.」

まあ翌年キューバ危機が起こって、さらに翌年暗殺されるんだけどね。

サンフランシスコじゃないけど:
Bob Dylan and Joan Baez 1963 March on Washington

黒人公民権運動のワシントンの大行進の際のディランとジョン・バエズ

Free Speech Movement in 1964

教授陣でFSMを支持したのはサールだけだったが、学問の自由が革命の拠点を含意しないとして、正常化のリーダーシップを取ったのもサールだった。

Report from the Haight-Ashbury district of San Francisco, the centre of the new hippie movement

おそらく1967年頃のヒッピーの聖地サンフランシスコ、ヘイトアシュベリーのニュース映像

同時期のグレートフルデッドのテレビ映像


サンフランシスコじゃないけど:
1969 Jimi Hendrix Star Spangled Banner at Woodstock, N.Y.

サールが『発話行為』を出版した年だ。FSMのせいで出版が偶然1969年にずれ込んだ(5年)。それを読んだアホなデリダの手先が1971年に偽雑誌にコメントをのせるからといってデリダのアホな論文をサールに渡したが、そいつとデリダがアホなインチキ本を作って(1975年ころのはずだ)、アホな日本の自称哲学者がそれが哲学の本だと未だ勘違いしている。永井均とか中島義道とかね。

ちょっと読んでいてOperationn Abolitionを調べたついでにベタベタ貼ってみた。
posted by Kose at 11:04| ジョン・サール

2015年08月25日

John Searle“Making the Social World”着手

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
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格安スマホで戯れるのをやめたので、すぐにジョン・サール『社会的世界を作る』2010に着手する。下記で分かる通り『社会的現実の構成』出版後15年に渡る討議を踏まえて書かれた本である。すでにサールの貢献によって社会的存在論 Social Ontology というジャンルすら明確にできている。

日本の国公立大学の文系学部が必要のないことは、謝辞で触れられているとおり、サールが15年間討議を続けた学者や機関に、日本の大学も日本人の学者もひとりも含まれていないことから明らかである。

目次、序文、謝辞だけである。本文はこれからやる。大変涼しいし。真夏にムーアの論文を訳せたのだから、できないことはほとんどないような錯覚に陥る。『社会的現実の構造』についての記憶が鮮明なので、それも有利だろう。

もっと、論理学や言語哲学マスターしてからやれよというのはわかるが、マスターした結果何もしない哲学者のほうが多いのは、特に日本では、間違いがない。それは今後の課題にするが、それよりブルデューに着手する前段階のである。あくまでもサール先生は。

人名・地名はほとんど原綴りのままとした。面白いことにマイケル・トマセロ(動物行動学・人類学・認知言語学)とジェラルド・エーデルマン(ノーベル賞受賞・生物学)がサールと直接面識があることが謝辞だけでわかる。
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社会的世界を作る

人間の文明の構造

ジョン・R・サール

2010


目次

序文
謝辞
1 この本の目的
  付録:この本の一般理論と社会的現実の構成の特殊理論の比較
2 志向性
3 集合的志向性と機能の割り当て
4 生物学的かつ社会的なものとしての言語
5 制度と制度的事実の一般理論:言語と社会的現実
6 自由意志、合理性、制度的事実
7 権力:義務論的、バックグラウンド、政治的、その他
8 人間の諸権利
 付録
 結論的見解:社会科学の存在論敵基礎
主題索引
人名索引

序文

この本は人間の社会的制度的現実の基本的性質と存在の様式 ― 哲学者が本質と存在論と呼ぶもの ― を説明することを試みている。ほんのわずか名前をあげれば、国民国家、お金、企業、スキークラブ、夏休み、カクテル・パーティー、フットボールなどの存在様式とは何か?私は社会的現実の創出、構成、維持における言語の正確な役割を説明することを試みる。
 この本は私の以前の著作、『社会的現実の構成』(1) で始めた一連の議論を続けるものである。1 社会的存在論の謎めいた性格に焦点を当てるひとつの方法は私たちの社会的現実の理解における明らかなパラドクスを指摘することである。私たちは完全に客観的である社会的事実 ― たとえば、バラク・オバマはアメリカ合衆国大統領である、私の手にある紙片は20ドル紙幣である、私はイギリスのロンドンで結婚したなど ― について陳述する。だが、これらは客観的陳述であるものの、それに対応する事実は人間の主観的態度によってすべて創出される。パラドクスの最小の形式はこう問うことである。どのよう主観的意見によって創出される現実(reality)についての事実に基づく客観的知識を持つことができるということはどのように可能か?その問いがたいへん魅力的であるのを見出すひとつの理由は、それがもっと大きな問いの一部であることである。私たちは、心のない、無意味な、物理的粒子からなると独立して知っている世界において、 ― 心のある、合理的な、発話行為をする、自由意志をもつ、社会的で、政治的的な人間として ― 私たちの特異な人間的特性をもつ私たち自身の説明をどのようにえることができるのか?どのようにナマの物理的事実の領域に私たちの社会的精神的存在をどのように説明できるのか?その問いに答える際、私たちは精神的と物理的、さらにに悪いことに、精神的、物理的、社会的のような異なる存在論的領域を前提することを避けなければならない。私たちは、ひとつの実在について語るのであり、私たちはどのように人間の実在がそのひとつの実在に適合するかを説明しなければならい。
 私が社会的存在論の一般理論を示した後、政治権力の本質、普遍的人権の地位、社会における合理性のような特別な問いにその理論を適用しようと思う。

謝辞

私はこれまで出版したどの本よりこの本で支援を受けた。これにはふたつの理由がある。第一に、この本は『The Construction of Social Reality』(社会的現実の構成)(2)で始めた一連の議論の続きである、その議論は哲学者ばかりでなく、経済学者、社会学者、心理学者、そして社会科学一般から大量のコメントを受けた。第二に、私はバークレー社会的存在論グループのメンバーのひとりである。そこでこれらの議論や関連する問題が毎週議論されている。私はおそらく私を支援してきてくれたすべての人々に謝意を述べることはできないが、少なくともその幾人かの名前をあげなければならない。
 私には素晴らしい助手がいた。彼らを「研究助手」と言うのは、私の知的生活への彼らの貢献について適切な概念を示さない。彼らはみな、すべての意味で私の協力者であった。特にJennfer Hudin、Asya Passinsky、Romelia Drager、Beatrice Kobow、Matt Wolf、Anders Hedman、Vida Yao、Danielle Vasak、Biskin Lee、Francesca Lattanziに感謝する。
 彼らのほとんどはバークリー社会的存在論グループのメンバーである。私の助けになった他のグループの人々には、Cyrus Siavoshy、Andrew Moisey、Marga Vega、Klaus Strelau、Maya Kronfeld、Ásta Sveinsdóttir、Dina Gusejnova、Raffaeia Giovagnoli、Andy Wandがいる。
 『社会的現実の構成』の諸問題には、多くの何冊もの雑誌や論文集が捧げられた。特にDavid KoepsellとLaurence S. Mossが編集したAmerican Journal of Economics and Sociologyの「John Searle's Ideas about Social Reality: Extention, Criticism,
and Reconstruction」(ジョン・サールの社会的現実についての観念:拡張、批判、再構築)というタイトルの特集号があった。それにはAlex Viskovatoff、Dan Fitzpatrick、Hans Bernhard Schmid、Mariam Thalos、Raimo Tuomelo、W. M. Meijers、Frank A. Hindriks、Leo Zaibert、Ingvar Johnsson、Nenad Miscevic、Phillp Brey、Barry Smithが寄稿した。これはその後本として出版された。
 Roy D'Andreは「Searle on Institution」(制度についてのサール)というタイトルのAnthropological Theory(4)の特集号を編集し、D'Andre、Steven Lukes、Richard A. Schweder、Neil Grossが寄稿した。Savas Tsohatzidisは「Intentional Act and Institutional Facts: Essays on John Searle's Social Ontology」(志向的行為と制度的事実:ジョン・サールの社会的存在論についての論文集)(5)を編集し、Tsohatzidis、Margaret Gilbert、Krik Ludwig、Seumas Miller、Anthonie Meijers、Hannes RakoczyとMichael Tomasello、Robert A. Wilson、Leo ZaibertとBarry Smith、Ignacio Sánchez-Cuenca、Steven Lukesが寄稿した。
 The Journal of Economic Methodologyは「Ramifications of John Searle's Social Philosophy of Economics」(ジョン・サールの経済の社会哲学の派生問題)というタイトルのシンポジウムを公刊した。これにはStephan Boehm、Jochen Runde、Philip Faulkner、Peter J. BoettkeとJ. Robert Subrick、Alex Viskovatoff、Steven Horwizの記事が含まれる。(6)
 ZIFの支援のもとBielefeldで私の著作について開かれた国際会議は、Günter GrewendorfとGeorg によって編集された「Speech Acts, Mind, and Social Reality: Discussions with John Searle」(発話行為、心、社会的現実:ジョン・サールとの議論」(7)という本にまとめられた。会議の様々なセクションの中のひとつはStaley B. Barns、Georg Meggle、Josef Moural、David Sosa、Raimo Tuomelaによる論文とともに社会的現実に捧げられた。
 Barry Smithは『On John Searle』(ジョン・サール)(8)という本を編集した。それは私の著作の他の側面についての多くの記事とともに、Smith、Nick Fotion、Leo Zaibert、
Gerge P. Fetcherによるこの本の問題の議論を含んでいる。Smithはまた社会的存在論についての3つの会議を催した、2003年のそのひとつは私の著作とHernando de Sotoの著作についてのものだった。これはBarry Smith、Isaac EhrichmDavid Markによって編集された『The Mystery of Capital and the Construction of Social Reality』(資本のミステリと社会的現実の構成)となって実を結んだ。Hernando de Soto、Barry Smith、Jeremy Shearmur、Ingvar Jonansson、Josef Moural、Errol Meiger、Erik Stubkjaer、Daniel R, Montello、Dan Fitzpatrick、Eric Palmerの私の著作に対関係する記事が寄稿された。
 私の考えを議論する本の公刊に加え、私は文字通り世界中の講義や連続講義で自分の考えを披露する機会から有益な成果を得た。私にとって私の考えを検証し、評価され、攻撃されたことは本質的に哲学をすることの一部である。私の教訓にはこういうものがある。はっきり言えないなら、理解していないのであり、航海の討論で擁護に成功しないなら出版してはならない。私はこれのプレゼンテーションの全てないし大半をすらリストするつもりはないが、一部は特別に取り上げる価値があるだろう。
 私にとってもっとも重要なもののひとつはJennifer HudinとBeartice Kobowが組織し、2008年7年バークレーで開かれた会議「Collective Intentionality VI」(集合的志向性VI)だった、この本の考えの一部は、基調講演で提起された。そして私は他の会議で有益な成果を得た。私は2006年ロッテルダムの「Collective Intentionality V」(集合的志向性V)でも講義をした。2007年、私はTsinghua大学での第13回科学の論理、方法論、哲学国際会議での満員の聴衆に北京での講義でこの内容の一部を提起した。私はまた上海の華東師範大学でも講義をした。私は中国のホスト特に、Shushan CaiとHe Gangに大変お世話になった。私は2005年スエーデンのLund大学でPuffendorf講義を行った。ホストはÅsa AnderssonとVictoria Höögだった。ふたりはバークレー社会的存在論グループの創設メンバーだった。2007年Cornell大学のメッセンジャー講義を行った。そのホストはTrevor Pinchだった。
 私はイタリア、特にトリノとパルメオの友人であり同僚に支援を受けてきた。私はそれぞれ二度そこの客員教授となった。私はFrancesca di Lorenzo Ajello、Guiseppe Vicari、Ugo Perone、Bruno Bara、Oaolo du Luccia、Giuseppe Lorniに感謝する。
 プラハの仲間もまた特に私に重要である。私はthe Center for Theoretical Studiesで何度か講演をする機会を持った。Ivan Hval, Josef Moural, Pavla TrácŎváに感謝する。
 2008年私はBernhard Geisenが組織したドイツのKonstanz大学で例年のMeisterklassseとして一連の講義を行った。これらの考えの一部を厳しい精査にさらした他の機関にはVienna大学、ハワイ大学、ブリティッシュコロンビア大学、コロラド州DurangoのMountain State Pholosophy Conference、Albanyのニューヨーク州立大学、フライブルク大学(ドイツ)、Friboug大学(スイス)、ライプツィッヒのマックス・プランク研究所、シカゴ大学、Lubinカトリック大学、スタンフォード大学のTARK conference、ベニス大学、サンディエゴの神経科学研究所、InterUniversity Centre Dubrovnik、Herdecke大学がある。
 これらの出会いの貢献について、私は特に、Nikolaus Ritt、Jeannie Lum、Richard Sikora、Margaret Schabas、Dugald Owen、Istvan Kecskes、Michaek Kober、Michael Tomasello、Martine Nida-Rümelin、Les Beldo、Gerald Edelman、Zdravko Radman、Chris Mantzavinos、Markus Witteに感謝する。
 支援しサポートしてくれた他の友人、仲間、学生には、Brian Berkey、Ben Boudreaux、Michael Bratman、Gustavo Faienbaum、Mahdi Gad、Mattia Gallotti、Anne Hénault、Geoffrey Hodgson、Danièle Moyal-Sharrock、Ralph Pred、Axel Seeman、Avrum Stroll、Jim Swindlerがいる。
 この本の編集段階での特筆すべき努力についてRomelia Dragerに、索引の準備についてJennifer Hudinに特に感謝する。
 謝意を述べることができなかった人々がいることは間違いないが、これは少なくとも始まりでありる。何よりもまして、52年以上続く、その継続的な支援とサポートについて私の妻、Dagmar Searleに感謝する。そしてこの本を彼女に捧げる。

posted by Kose at 11:49| ジョン・サール

2015年08月16日

デイヴィドソン 補遺「スリングショット議論」原文

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


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図書館でデイヴィドソンの本は全然手にはいらないので、スリングショット議論はやはり無視する。
その本文は、巻末注に全文掲載されているが、その翻訳が入手できないので、翻訳しないで原文を乗せるのにとどめた。
基本的にふたつの誤りが侵されている可能性がある。
「論理的に等価」の意味が不明である。サールの解釈では真理値が同じである。これは真と偽の二種類しかない。そこで真は真だというトートロジーにどんな真なる陳述、つまり事実を代入可能になる。
(真理値に関して)「今コップにコーヒーが入っているは、3+4=7である」
これはデイヴィドソンの結論に非常に似ている。単に勘だけで言っているのだが。
これはとりあえず訳注で書いたことだ。

もうひとつはサール先生自身が「志向性」で大きく取り上げた、代入による内包性=外延の失敗も含んでいる感じがすることである。
これはXもYもZを指示する場合、XにYを代入可能だとはいえないということだ。そこにZが真理値であれば、やはりさらに代入は不可能である。「今コップにコーヒーが入っている」に「3+4=7」を代入することはできない以上に、4+5=9に3+4=7を代入することはできない。

はっきりと文を分析して批判する能力は、俺は別に哲学技術者じゃないからできないし、どうでもいいんだが、このように言語と事実の区別を曖昧にすることによって、相対論から、言語内在的自然主義のような立場に移行しても何も世界にひとつも付け加えない。
めんどくさいから、なんにもないことにしちゃおうという意志しかデイヴィドソンには感じられない割に非常に難しいのである。スリングショット議論の手法はもっと有名な「枠組みという概念について」の手法とおそらく同じである。問題はない。なぜなら問題を生む区別があるから問題ができるのでその区別をしなければ問題はないのだというスタイルである。
スリングショット議論についてのデイヴィドソンの議論は割愛されていなければデイヴィドソン『真理と解釈』に入っているはずだからそれを読んで頂戴。
なんでこんなマヌケな議論を一生懸命翻訳しなくていけないのかわからないし、サール先生も本気でデイヴィドソンを批判するなら、その手品を徹底して批判すべきであったと思う。

あなたは哲学的問題があるという。だがその問題を生む区別をしなければ問題はなくなる。

ニーチェの善悪の彼岸より安直なニヒリズムである。

これが哲学的方法であってもいい。それくらい20世紀哲学はひどいからである。だが学問とは絶対に言えないだろう。まあカリフ制の復活を唱えるイスラム法学者もかつては学者だったという意味でそれもまた学者の仕事ではあるかもしれないが。しかし「だから何だと言うんだ」!

*デイヴィドソン=サール論争をやる気はない。その場合タルスキをマスターしなくちゃいけないが、もう本筋から外れすぎでしょ。いかにも数学っぽいから分析哲学やっているような俗物こそそういう退屈な仕事をすべきだと思うよ。

Miles Davis - So What



ああ、一応索引を除いてファイルを一体化した。いろいろスタイルについて検討する。

デイヴィドソンのスリングショット理論の原文(俺は訳さないからな)
The principles are these: if a statement corresponds to the fact described by an expression of the form 'the fact that p', then it corresponds to the fact described by 'the fact that q' provided either (1) the sentences that replace 'p' and 'q' are logically equivalent, or (2) 'p' differs from 'q' only in that a singular term has been replaced by a coextensive singular term. Th confirming argument is This Let V abbreviate some true sentence. Then surely the statement that s corresponds to the fact that s. But we may substitute for for the second V the logically equivalent '(the x such that x is identical with Diogenes and s) is identical with (the x such that x identical with Diogenes).' Applying the principle that we may substitute coextensive singular terms, we can substitute 't' for 's' in the last quoted sentence, provided 't' is true. Finally reversing the first step we conclude that the statement that s corresponds to the fact that t, where 's' and 't' are any true sentences
.
posted by Kose at 14:18| ジョン・サール

2015年06月11日

勁草書房版トマセロ『なぜヒトは協力するか』大誤訳

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


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AFPのニュースで京大霊長類研究所とイギリスのチームがチンパンジーが酒を飲む研究を発表したというニュースを配信していて、これも何かの縁かと思った。

ところで動物行動学系のマイケル・トマセロ『Why We Cooperate』の勁草書房版の訳がひどいのはわかっていたが、さっきサールの引用部分を探すために、原書Kindle版に目を通したら、一般に「共同注意」(通常母子間で極めて初期の段階で同じ物に注意を向け、それから他人の意図を獲得して、コミュニケーションの基礎をつくる。自閉症などはこの段階での障害とも言われる)とされる「joint attention」を確か訳者は「Jointed attention」だと主張して「接続された注意」だと言っていたと思う。

だが原著で、jointは形容詞として使われており、その場合

Weblio
【形容詞】【限定用法の形容詞】
共同の; 合同の,合弁の,共有の; 連帯の.
用例
joint authors 共著者.

であって、それを「接続」とする根拠は全くない。jointは極めてありふれた形容詞としてトマセロはその本で使っており、ほぼサールのcollectiveと同義である。
用例としては
joint intention
joint commitment
joint attention
joint goal
joint activity
joint attentional activity
jointly pay attention
joint topic
joint task
joint rational action
jointly assigned status function *サールか!!!
joint agreement
joint interest
joint endevour
focus jointly on object
などである。

サール先生を引用した部分は
the philosopher John Searle refers to this process as the creation of new "status function"(3)

3. Searle, J.R. 1995. The Construction of Social Reality. New York: Free Press

つまり今日アップした『社会的現実の構成』である。

トマセロの本は元は講演で、それに議論部分が付けられたいびつな本だし、短い本なので、勁草書房の訳はポンコツだから、ぜひKindle本で読むことを薦める。
posted by Kose at 20:33| ジョン・サール

2015年05月30日

“The Construction of Social Reality"について

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


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約10%進んだ。
今"function"の定義について極めて地味な議論をしているのを訳しているところ。
「機能」が観察者相対的である(価値依存的である)ことを分析中。

『行為と合理性』の訳者とはことごとくサールのテクニカルタームに関して意見が合わない。
彼は「地位機能」を「身分機能」とする。地位でも身分でもいい気はするかもしれないが、身分というのは法的に親族関係に言及する用語である(国家公務員にはなんと身分保障があるんだが)。たとえば不当解雇された場合は民間人は「地位保全請求」を裁判所に出すと言う。仕事とステータスの関連で言えば、ある身分にある仕事が対応しているなんて言うのは、インドのカースト制度を思わせる。士農工商でもいいか。アメリカでそういう意味の身分があったとすれば、それは奴隷とか黒人とか先住民とか忌まわしい過去においてのみだろう。
だから、非常に常識的に、サールとカリフォルニア(自由州であった)の温厚さから言って「身分機能」なんていう日本語は、どうやっても考えられないのである。身分に仕事が必然的に結びつくという考えは、だいたいサールの立論自体に反するのではないか?まったく心のカケラもない力の場の粒子の塊に、あたかも自然の現実のような人間にとってのみ意味がある性格を与えるという構成だからである。
なおコンピュータの一般化でステータスは、サービスやプロセスの「状態」の意味に使われるが、その場合にはWindowsを除けばステータスと呼ぶのが普通である。しかしだいたいそのステータスは、起動中/停止中のたったふたつの「地位」(就業中/失業中か?)しかない。
ステータスと言うと、日本語の場合反対に身分のニュアンスが出る。なのであくまで絶対「地位機能」でなければならないと思うのである。

さて他にも重要な用語で認識の相違がある。忘れちゃうほどである。本当に忘れた。

問題は“The Construction of Social Reality”の“Reality”の訳である。
まったく哲学的には「実在」である。だが社会的実在というのは、社会学から見て極めて危なっかしい。社会が実在するのか、なんていうのは個人主義ないし原子論的立場から言われるであろうし、機能主義者や社会システム論者は、意識的個人的行為者なんか幻想であって社会的実在は社会であると信じている。グランドセオリーの終焉で、後者は勢力を失っていると思うが、単なる便法としてのメタファーで考えを整理する程度にはだれだって、社会が、アバウトに機能的部分からなる全体、したがってシステムと考えることはかならずある。ママとパパの機能主義なんてよくテレビでやっている話だ。それくらいのレベルだと社会的実在はパパとママと子どもたちだけだから混んがらないけれど。

したがって「社会的実在」と言っちゃうと話がそれるのである。

ピーター・L・バーガー、トーマス・ルックマン『現実の社会的構成』、1966年刊

と言う本がある。これは20世紀の社会学を代表する社会学の本の1冊に入るとされている。
アルフレッド・シュッツの初期フッサールから出発した現象学者から言わせると現象学とはいえないが、現象学の素人には現象学的社会学としられる流派に属する本である。

つまり、あまり方法論的に整備されていないのだが、乱暴にも現実はノエマとしてノエシスによって社会的に構成されているという形の考えを主張するし、社会学の本がこれが初めてという人にはものすごく人気がある。無前提に社会学的万能感を感じさせるからである。

この立場やエスノメソドロジーやシンボリック相互作用論とかカルチュラル・スタディーズなどによって、社会学の相対主義が起こり、社会学が客観的であることなど必要でなく、社会学者が自由に解釈した結果、社会のメンバー(俺たち)は、バカみたいな社会的に構成された嘘を信じ込んでいるとされる。

いまどきの若者は「草食男子」と「肉食女子」に分かれ、「ゆとり世代」か「さとり世代」であるみたいな言い方はまさにそういう勝手な解釈で、今度はそれが社会的に構成された現実になるという悪無限だ。多くのマーケティングの自己予言行為もこのタイプの社会学的悪循環である。

脳科学に次いで、またまた「意識が欺かれている」説の別バージョンがあったわけだ。「あった」というのは、1994年のいわゆるソーカル事件後書かれたソーカル&プリクモン『知の欺瞞』の半分は、科学の社会的構成主義批判に割かれたからである。量子力学における素粒子の運動も社会的に構成された現実である。やれやれ・・・。GPSとカーナビの間に生じる特殊相対性理論的時間のズレも社会的に構成された現実である。リンゴが木から落ちるのも社会的に構成された現実である(これは違うか?ニュートンの話は社会的に構成された逸話に過ぎないからな)。
詳しく書き出すと書き終わらないので、一言だけ付け加えれば、科学者も真理は科学コミュニティの合意であるというある種の社会的構成説を主張して恥じない連中(日本分子生物学会とか日本学術会議とか日本建築家協会とか………まあ学者バカな連中のかなりの多くだ)がいるのでややこしいのだ。そのせいもあってサールは“The Construction of Social Reality”の最後の数章を、真理の対応説の擁護に割いているのである

さてバーガー&ルックマンの著書の原題をサールの本と比べる。
The Social Construction of Reality バーガー&ルックマン
The Construction of Social Reality サール

サールの本には、直接バーガー&ルックマンを標的にしているような部分はまだ出てこないが、まあほぼタイトルはパロディと思っていいだろう。

ここで問題になっているのは、現実、たとえばお金を稼ぐとか、結婚するとか、個人の人生にとってかなり重大な決断や対処をする必要があるような社会的現実、社会のメンバーにとって「現実」が問題になっているのであり、社会のメンバーが直面する「実在」が問題になっているのではない。というのも平均的な社会のメンバーは哲学的実在について何も知らないが、お金を稼ぐ現実、結婚生活をする現実については、生半可な哲学者より良く知っているケースがありうるのである。ロッキング・チェアで抽象的に金を稼ぐことや嫁の愚痴を聴くことについて考察するのではなく、毎日フィールドワークをしているわけだからである。

だから“Reality”は社会のメンバーにとっての、観察者相対的な、したがって存在論的に主観的なものであるから、哲学的実在ではないのである。なのでやっと結論を書くが

『社会的現実の構成』

があくまでも正しい。
posted by Kose at 18:21| ジョン・サール

2015年03月17日

ラテン語における他動詞の外的対格と内的対格の英語との比較

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
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サールが言及する「内的対格」は主にラテン語文法における他動詞の2つの目的語であると思われる。
英語における直接目的語、間接目的語、目的格補語だけでなく、英語における前置詞をともなう形容詞句、副詞句もラテン語では内的対格に含まれるようである。
外的対格と内的対格に別れ、外的対格は
I saw her standing there.
の「her」に相当する。外的対格はほぼ直接目的語と考えて差し支えないのじゃなかろうか。
She was seen standing there by Paul.
問題は内的対格で、上に書いたとおり、ラテン語から派生した西欧俗語では格変化でわかるかもしれないが、英語では人称代名詞や疑問詞でないと格変化しないので、その前置詞+単語の形に変化している可能性がある。
その事例としてサールは
S be conscious O1 of O2(S be aware O1 of O2)
という知覚の目的語の二重性を主張しているんだが、残念だが現状ではそれを完全に裏付けるラテン語文法と英語文法の関係についての知識を手に入れることはできなかった。
一番よく知られるふたつの対格に相当する事例は次であろう。
I seem the dress blue and black.
そのドレスは青黒に見える
サール先生の事例を考えると
I see the dress and I see blue and black.

I see the blue and black dress.
という合成命題になる場合に感覚と対象の混同が生じると考えるべきか?

すべての知覚動詞は目的格補語に動詞かその進行形をもつことができる。ポール・マッカートニーの歌詞の例がそうである。それはseemのケースと類似である。
S(O1)V(is)C(O2)
S(O1) V(O2)
となる。
面白い事例はルイ・アームストロングのWhat a Wonderful Worldの冒頭の歌詞である
1) I see trees of green, and roses too
2) I see them bloom for me and you
2は目的格補語の例だが、1はseemに準じる事例だが異例である。前置詞を伴って内的対格になるというラテン語の事例が生じている。ちなみにネット上の翻訳の多く例では「I see」を省略される。
サールの主張にぴったりの事例を見出すには至らなかったが、参考にしたい。

日本語のラテン語文法のネットのサイトにはこの件についての解説は見つけられなかった。
英語でも多いわけではない。次のはGoogle Booksの検索でヒットした部分を手打ちでテキストにしたものである。あなたはこの仕事がかなり地味に感じるであろう。←日本語でふたつの対格を使おうとするとなんと「〜は〜が」文になる事例。

A New Latin Syntax by E. C. Woodcock
The Internal Accusative with transitive verbs
https://books.google.co.jp/books?id=WmT6mS5v4dAC&pg=PA10&lpg=PA10&dq=internal+accusative&source=bl&ots=W2n_OO7qqH&sig=xUo1bLSRJiWcAwpoV58DMILHKaA&hl=ja&sa=X&ei=mXgGVfiqBaW1mAWc74HYCg&ved=0CC0Q6AEwAg#v=onepage&q=internal%20accusative&f=false
A transitive verb may have two accusative objects, one external, the othre internal. The external object is usually a person, e.g. docet me musicam. 'He teaches me music.' The internal object is more often a nueter pronoun or adjective than a noun, e.g. multum te amo, and is often indstinguishable from an adverb. The construction, at least when the second accusative is clearly an internal object and not adverbial, is much less common in Latin than in Greek. @The only transitive verbs which commonly govern a second noun in the accusative are certain verbs of asking, teaching, and concealing(see Section 16). In the passive it is always the external object which becomes the subject, while the internal accusative is retained, as rogatus sententiam'being asked his opinion'.
Examples of neuter pronoun or adjective: Ter. Hec. 766 Hoc te moneo unum. 'I give you this one piece of advice'. Id. Heaut. 982 neque me quicquam consilio adiuvas. 'You give me no help with your counsel'. Cic. Att. 13, 22, 4 Illud accuso non te, sed illum. 'I make that accusation not against you, but him. Ib. 1,1,5 multum te amamus. 'We have much love for your.' (But in the last example multum is best regarded as a fully-fledged adverb, so also plus, plurimum, tantum, quantu, etc.)


他動詞の内的対格 私訳

他動詞はふたつの対格目的語をもつことができる。ひとつは外的、もうひとつは内的である。外的目的語は通常人である。例えば;docet me musicam. 「彼はわたしに音楽を教える」(He teaches me music.)。内的目的語は名詞であるよりしばしば中性の代名詞または形容詞である。すなわち;multum te amo. 「本当にあなたを愛しています」。そしてしばしばく副詞と区別できない。第二対格が少なくとも明確に内的目的語であり、副詞的でない場合構文は、多かれ少なかれギリシア語よりラテン語で一般的である。対格の第二名詞を支配する唯一の他動詞は「尋ねる」(asking)「教える」(teaching)「秘密にする」(concealing)である(第16節を見よ)。受動形では、主語になるのはつねに外的目的語である。その一方内的対格は保持される。rogatus sententiam, 「彼の意見を尋ねられる」(being asked his opinion)。
中性の前置詞や形容詞の例;Ter.Hec. 766 te nebei unum. 「わたしはあなたにひとつ忠告を与える」(I give you this one piece of advice)。id. Heaut. 982 neque me quicquam consilio adiuvas. 「あなたはわたしに弁護士との援助をしてくれない」。Cic. Att. 13, 22,4 Illud accuso non te, sed illum. 「わたしはあなたに対してではなく、彼にその非難をする」。Ib. 1,1,5 multum te amamus. 「私たちはあなたにたくさんの愛をもっている」。(しかし最後の例において、multum(much)は完全な副詞とみなされる。plurimum(most), tantum(only), quantum(regards) などがある)
posted by Kose at 09:58| ジョン・サール

2014年10月26日

サール「心、言語、社会」半分終わる

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
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81p/161pまで達した。

今神経生物学のバインディング・プロブレムの問題と意識についての、ほかの頭の悪い学者が書いたら、専門用語で不見当識に陥りそうになる問題(用語を調べるため、ネット検索したらそうだった)をさらっと書いていて面白い。何も人間の意識とかヒュージュ・プロブレムとか議論する前にもっと下等な生物におけるリトル・プロブレムとして、したがってあくまで第三者的視点から、事態を単純化して議論すべきだと思うね。ハード・プロブレムはなまじっか人間が一人称的に意識にアクセスできることから発生する擬似問題を部分に含む可能性が高いと思う。こういう頭の悪い連中のことを脳科学者と呼んでいいのである。
小保方氏のSTAP細胞の議論で、山中教授と共同受賞した生物学者は最初にカエルの細胞で研究の成果を出したんだよね。生物学の常識をひっくり返す研究を哺乳類でやったのは、バカンティ教授の既存の実績にならったんだろうけれど。
もっと脳神経が単純な生物でも超越論的統覚というのはあるだろうから、そういう研究をなぜしないんだろうね???要するに、たとえばゴキブリの意識がゴキブリ自身にどのように捉えられるか理解できないというのが脳神経生物学者全員のバカさの源泉だと思うよ。まあ俺はカフカの「変身」を読めばヒントがあるんじゃないかと思うがね。

計算上、11月20日以前に終わる予定。

阪神、ガンバレ!携帯はソフトバンクなんだが。29年ぶり優勝というのが見たい。バース、岡田、掛布いらいである。
posted by Kose at 19:04| ジョン・サール

2014年10月16日

予告したサールのKindle本3冊購入,DL

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
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1.Philosophy in a New Century: Selected Essays, John R. Searle (Kindle版), ¥ 1,887(¥200ほど値下がり)
2.Making the Social World: The Structure of Human Civilization, John Searle (Kindle版), ¥ 1,032
3.The Construction of Social Reality, John R. Searle (Kindle版), ¥ 1,183

この順番で古い。1が2013、3の初版は1996頃らしい。なので
Mind, Language and Society(1998)は3を踏まえたものであろう。3はハードカバーかったことがあるのだが人にやってしまって、再度購入。だいたいその頃から2007年くらいまで躁うつ病で絶不調だったのである。
まあ数年のうちに読むつもりだ。クラウドに本自体のコピーがあるし、最近PCのブラウザでも読めるようになったので、いい。だいたいデフレの最悪の影響はマンガ新書以外の買い取りを古本屋がやめてしまったことだ。なので頭にくるから人にやったのである。まあ洋書はそもそも買わんけれどね。

Kindleはなんせ部屋のいかなる空間も専有しないし、まして地震で落ちることもないのでいいと思う。
posted by Kose at 11:12| ジョン・サール

2014年10月15日

サールの本を買おうっかな?

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
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「心、言語、社会」の第一章は翻訳できた。25%に相当するから、11月中に終わると思う。まあ若干訳語に迷っているが

how things really are

a way that there really are things

これはキーとなるフレーズなのでいい感じの訳を考えないとね。

モノのあり方と表現のありかたはことなるということで、モノのあり方が実在であるということで、サールの実在論の中核である。困る


いかにものが現実にあるか
ものが現実にある仕方
現実的なもののあり方
・・・・

いずれにしても冗長だが、ドシロウト向けの言い回しだから専門用語っぽくするのも困る・・・・

まあ全部訳してから訳語を決めるしかない。その他できるだけドシロウト風に訳すようには心がけているんだが。俺、本当にドシロウトだしな。

この本は1998年刊行だから、おそらくソーカル&プリクモンの「知の欺瞞」(1994)をうけて、「知の欺瞞」では不十分だった、哲学的にポジティブな教養書を書こうと思ったんじゃあるまいか?

もっと専門的な本として次のようなものがあり、すべてKindle Bookで入手可能なので買おうかな?

Philosophy in a New Century: Selected Essays, John R. Searle (Kindle版), ¥ 1,887
The Construction of Social Reality, John R. Searle (Kindle版), ¥ 1,183
Making the Social World: The Structure of Human Civilization, John Searle (Kindle版), ¥ 1,032

まあ¥5000円にならない。パット・メセニー¥10800だったからな。Kindle Book安くていいわあ。
posted by Kose at 20:21| ジョン・サール

2011年01月08日

ジョン・R・サール「現象学的記述でも、合理的再構成でもなく」を訳す

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
*なお「現象学的記述でも、合理的再構成でもなく」は未掲載
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サール未公刊論文のうち「現象学的記述でも、合理的再構成でもなく」(約11p)を訳すことにした。もっとストレートな「現象学的幻想」と言う論文(約22p)でもいいんだけれど、「現象学的記述でも、合理的再構成でもなく」の方が、未邦訳の『現実の社会的構成』の内容が若干分かり、かつそれが現象学的方法とどう違うが、ハイデガー研究者であるヒューバート・ドレイファスへの反批判を通じてわかるので面白いと思う。どう考えても現象学的社会学あるいはその類似物が死んでいる点からも興味深いと思う。
以下はその冒頭の部分である。まあ専門用語を当然含むので、こんな感じ?と言う程度の訳でしかない。

次のサイトに本文はあります。
Professor John Searle | Slusser Professor of Philosophy
http://socrates.berkeley.edu/~jsearle/articles.html
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Neither Phenomenological Description Nor Rational Reconstruction:
Reply to Dreyfus

version of January 30, 1999
現象学的記述でも、合理的再構成でもなく:ドレイファスへの回答
1999年1月30日

私はヒューバート・ドレイファスが私の著書『社会的現実の構成』や他の幾つかの著作について書くのに時間と努力を費やしてくれたことに感謝する。しかし私はまず最初に彼はひどく私の仕事を誤解していると考えており、その誤解はたまたまのものではないと言わなければならない。彼は現象学(彼は「日常的活動のサールの現象学」とさえ言う)と呼ばれる企てに私が少なくとも部分的に関与していると考えている。彼の全般的戦略は、私の仕事の二つのスタンダード、論理的なそれと現象学的なそれを区別しようとせず、論理的なポイントはしぶしぶ妥当と認めながら、現象学的主張と言われたものを論破できると考える。私はこの回答の中で、実際私が『社会的現実の構成』の初め(p5)で現象学的アプローチは、私を悩ます問題を解決するには不適切だと言ったとおり、彼が私に帰した論争の的となる現象学的主張を私はしていないことを指摘するつもりだ。

彼が私を誤解した致命的欠陥は彼のタイトルにあると私は思う。私の企ては現象学でもなく、合理的再構築でもない。現象学に対して「公正に振舞う」よう心がける唯一の点は、事実に反することは言いたくないということだ。例えば、しばしば無意識になされるため、あなたは地位機能(status function)を生み出している意識でなければならないとは私は言いたくない。私がやろうとしていることは社会的、制度的現実の存在論の分析である。彼が私の見解を不適切に述べている別の印は、彼が私の用語を使わず私の見解を述べようとしているときに現れる。彼の論文には地位機能、義務の諸力(deontic powers)あるいは私が分析した主要なトピックのいずれもない。私はほとんど義務の諸力の構造について本を書いた。その本の中心となるテーゼは、制度的現実は地位機能からなり、ほとんど完全に肯定的否定的義務の諸力、すなわち権利、義務、資格、権威、罰、ヒエラルヒー、そして一般的な制度的権力、があるということである。ドレイファスはこの事実に気づいていないように思われる。彼は私の本がわれわれがいかに「無意味なものに意味を課す」かについて書かれていると思っている。このフレーズはこれからお目にかけるとおり、私の企てを説明するのに相応しくない。

すべてが誤解だというわけではないし、幾らかはわれわれの間で本物の意見の相違がある。これから述べることの中で、私は彼の3つの節を通じて、すべての批判に答えようと思う。最終的に私はこれらの問題を扱うには現象学的方法に限界―私はほとんど破産と言いたいくらいだが―についていくつかの見解をまとめるつもりだ。
posted by Kose at 13:51| ジョン・サール