2017年05月10日

【翻訳】ジョン・サール:ぼくの同時代人が書くナンセンスな物を読むと頭にくるんだ(2014年のインタビュー)

久しぶりに有意義な(つまり自分の関心にのみ応える)お仕事ができて嬉しい。
AIの派手な宣伝の中、それに対する有力な反論を展開した人物として再び脚光を浴びている人物としてジョン・サールのなを知ったような人、つまり2000年代になって初めて知ったような人には、おぼろげながらジョン・サールのいくつかのキャリアについて予備的知識を得ることができるだろう。
このインタビューは2014年1月25日公刊だが、翌年、2015年に"Seeing Things As They Are"(未邦訳だが、ぼくの海賊版では「アナと雪の女王」が流行っていたので『ありのままに見る』と訳した)を書いていることがインタビューの最後で言及されている。懐疑論の影響を受けたすべての西欧近代哲学は間違いであると本当に主張ている。次でPDFを読んでほしい。簡単な英語なんでKindle版で読むことを薦める。

『ありのままに見る』PDF

まあ、サールに同意する哲学者は多くないが、それは言葉、心、知覚の「志向性」を「因果関係」が充足するというケースを否定する懐疑論にとりつかれているためである。これは哲学が知識についての知識と知識でない世界との関係、今の場合は因果関係を扱う義務をなぜかどんな偉大な哲学者も感じなかったことによるとぼくは理解している。サールが現象学ではないかという誤解も同じ誤りである。知識は因果関係との関係で誤りえるが、因果関係を疑うのは知識の傲慢である。デカルトもカントもそういうことである。だからテキストの外部はまさにあるのである。サールと並んだ20世紀の哲学会のスーパースターもほぼ誤りである。また科学者が脳とか知能とかを特権的に論じる資格があるというのも傲慢である。
だがサール先生も結構ゴーマンなんだけどね。
ちなみに20世紀言語哲学がほぼ無力になったのは、言語の構文や音韻構造が、心と無関係に、20世紀的言葉を使えば「超越論的」に自律していると考える誤りによってである。チョムスキーはまさにそうだったが、AIによる自然言語処理も、言葉が心と関係なくパターンとして自律しているという点で誤りなのである。AIが繰り出すパターンは確かに有用なんだが、それは人が心を使わずパターンだけで言葉を使っていることが多いからであるかぎりにおいてである。結局AIが「愛している」と言っても心はこもっていないのである。「水が飲みたい」と言っても水を飲む動機も水を飲む装置も、下働きの科学者やエンジニアに作って貰わないとならないのである。
これは彼らが好きな知能が、生物の進化の産物で、神がデザインしたものではないことを真剣に科学者らが受け止めていないことによる。
サールはそれについて語らないが、アメリカで進化論について語ると日本と比べものにならないくらいややこしいことになるんだ。世界の先進国で進化論を否定するのはせいぜい10%くらいだが、アメリカとトルコでは50%が進化論を否定する。
『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスは、未だインテリジェント・デザインに対する攻撃的著作を何冊も書いている。『進化の存在証明』とか読んでみてほしい。
アメリカのAI科学者は、神のデザインのごとく「知能」を考えていてもおかしくはないが、日本の科学者にそのような強い動機は考えにくいのである。日本じゃ儲かるかどうかだけの話の気がする。
やれやれ・・・

Free Speech Actにも追加しました。

話がそれるが、今回、読み上げ校正のため新しく公開されていた次の読み上げフリーソフトを利用した。従来の同種のソフトより遙かに高性能で使いやすい。学校や仕事で、下書きを校正するときにものすごく役立つと思うので推薦する。
Balabolka



PDF版
サール:ぼくの同時代人が書くナンセンスな物を読むと頭にくるんだ(Searle Interview on NewPhilosopher.pdf)


サール:ぼくの同時代人が書くナンセンスな物を読むと頭にくるんだ
Searle: it upsets me when I read the nonsense written by my contemporaries
by Zan Boag on January 25, 2014
NewPhilosopher
http://www.newphilosopher.com/articles/john-searle-it-upsets-me-when-i-read-the-nonsense-written-by-my-contemporaries/

ザン・ボアグ:どんな目的に哲学は貢献するのですか?また哲学がまだ有意義であることを守るため哲学者たちは何をしていますか?

ジョン・サール:ぼくは哲学者が人々が考えているようなことについて大して心配すべきだとは思わない。ぼくに関するかぎり、他の主題がより大きな問題に以下に関係するかによって重要性を持つから、哲学はすべての中でもっとも重要な主題だ。そしてそれが哲学とは何についてかだ。より大きな問題ってことさ!

ザン・ボアグ:科学者や哲学者は密接に協力することについて知られていませんね。彼らはしばしば互いに競い合います。特に意識の問題となると。この数年以上、「ハード・プロブレム」の取り組みで科学者と哲学者の間の関係に改善は見られましたか?

ジョン・サール:ぼく自身はそんな経験はしていない。ぼくは多くの神経生物学者と認知科学者と協力している・・・ぼくはどんな専門的議論もみつけてはいない。彼らはぼくより実験室で研究しがちだが、ぼくらはともに共通の問題に取り組み、ぼくらが手にできるすべての知識を気にかけている。ぼくは哲学者と科学者の間にはっきりした区別があるとは思わない。ぼくは手にできるどんな素材も利用し、有効に思えるどんなことにも従うつもりだ。そしてしばしば経験的研究が、ぼくがやっている哲学的探求にたいへん役に立つことがわかるんだ。

ザン・ボアグ:ウィトゲンシュタインがあなたの仕事に影響をもったというのはフェアですか?

ジョン・サール:ウィトゲンシュタインは多くの面でぼくにとても大きな影響を与えたよ。否定的な影響をね。だって、ウィトゲンシュタインはぼくがやろうと試みている類いの哲学は不可能だと言ったからだ。君はすべての問題を解決する理論的哲学を試みるべきでも、すべきでもない、言語を検証することによって特殊な難問に取り組み、解決すべきだと言った。さて、誰かが哲学には一般理論はありえないと言うなら、ぼくは本能的に一般理論を構築することになるのさ。まさにそれこそぼくがやってきたことだ。だからぼくの企ては根本的に反ウィトゲンシュタイン主義なのさ。けどそう言ったからといって、ウィトゲンシュタインが20世紀最大の哲学者であり、ぼくに大きな影響とインパクトを与えたと考えていると言わなければならない。彼の哲学について全般的概念は、ぼくは共有していないというだけだ。

ザン・ボアグ:あなたの「中国語の部屋」の話のように哲学者が提案する思考実験の重要性について語りたいと思います。どのよに、このような思考実験は重要なのでしょうか?

ジョン・サール:思考実験はたいてい実際の実験ができないから重要だ。そしてそれは哲学だけでなく科学でも本当だ。だから、アインシュタインが「宇宙を進む光線に座っていると想像せよ」と言ったが、そうさ、それが思考実験なのさ。彼は「光線にまたがろう」とは言おうとはしなかった。もちろん君が「それじゃ僕らは落ちちゃいますよ」とか「宇宙は寒すぎますよ」とか言うなら的外れだ。だから思考実験はいつも役に立つ。そして君はもししかじかが真ならそれはどのようかを想像することによって君の概念を検証できる。さてこの場合、たとえ中国語をひとつも理解できないにもかかわらず、中国語の質問に答えるためのプログラムに従い、中国語で回答するなら、それはどのようなものかを想像した。そして、電子計算それ自体は思考ではないことを理解することを可能にするため、それはたいへん有効な思考実験となったのさ。

ザン・ボアグ:意識は、脳の物理的プロセスによって引き起こされる実在する主観的経験であり、意識に関するかぎり、見かけが実在であると言います。これについて詳しく述べていただけますか。

ジョン・サール:意識は人間や動物の主観によって経験される場合に限り存在する。OK。意識が本物の生物学的現象だと認めて欲しい。さて、結局それは経験されるかぎりにおいてのみ存在するため、他の生物学的現象と何ほどか違う。しかしそれは興味深い地位を与える。どのようにものが意識的にわれわれに見えるかとそれが実在的にどのようであるかの間の違いについて幻覚/実在の区別があるため、意識は幻覚に過ぎないことを示すことによって、意識の存在を反駁することはできない。だがまさに意識の存在に関する場合、ぼくが意識的であることがぼくに意識的にみえるならば、ぼくは意識的だ。君が夕陽や虹についてできる仕方で、まさに意識の存在について幻覚/実在の区別をすることはできない。なぜなら、その区別はものが意識的にどのように見えるかとそれが実在的にどのようにあるかの間の区別だからだ。

ザン・ボアグ:あなたはまた意識は、消化や火のように物理的特性だと言います。

ジョン・サール:意識は消化や光合成のような生物学的特性だ。さてなぜそれは教育を受けた誰にでもたまらなく明白なのではないのか?そしてその答えはこんな一対の伝統だと思う。一方で意識が物理的世界の実在的な部分ではないと言う神、魂、不死があり、そして意識が物理的世界の部分でないと言う科学的唯物論の悪い伝統がある。それらは、消化、光合成、有糸分裂、縮瞳、その他の生物学的現象と同じ、生物学的現象としてのそれ自体の条件の上で意識を理解することを拒否するのさ。

ザン・ボアグ:あなたは数十年間心の理論に関して仕事をしてきました。その間に考えが変わったことはありますか?

ジョン・サール:ぼくは以前決して取り組まなかったあらゆる主題に取り組んだ。ぼくは言語哲学の研究から始め、心の哲学に取り組んだのは本当に中年になってからだ。ぼくはいかに言語が働くかに答えようと努めているだけだと考えていた。だが言語は自然現象であり、雑多な質をもつんだ。ぼくの口から出るノイズはただの物理的雑音であり、音響的爆風であるが、意味をもつ。われわれはどのように物理学から意味論に至るのか?ノイズから意味へ至るのか?そしてそれは、人間的現実と物理学や化学が記述するものとしての基本的現実の間の関係の本性についての一般的問いの一部だ。そしてそれはぼくが継続的に没頭している問題だ。ぼくは現在理解してるほど明確に30〜40年前は多くのことは理解しておらず、長生きしたら今よりもっと明確に理解できるようにだろうと疑いなく思っていなかった。だがそれはぼくの研究で基本的に連続している。

ザン・ボアグ:あなたは普通の人と何が違うのですか?早起きをして、古代哲学者のテキストを読むのですか?

ジョン・サール:ぼくはあまりテレビは見ない・・・メディアがわれわれの感受性に莫大な影響をもってきたのは明らかだと思う。この長期的な影響が何かを知るのはたいへん難しいけれど、電子メディアに過剰にさらされる結果として感受性が貧困化していることに疑問の余地はないとぼくは思う。ぼくは大して哲学を読まない。ぼくの同時代人が書いたナンセンスな物を読むとぼくは頭に来るんだ。拡張された心の理論なんかゴミ箱に放り込みたくさせる・・・だからたいていぼくは小説や歴史の本を読むんだ。歴史の本を読むのは好きだね。小説を読むのも大好きだ。膨大な偉大な著作があるんだ。

フォークナーやアメリカの偉大なモダニストたちがぼくに及ぼした影響を語ることは無理だ。メミングウェイ、フォークナー、フィッツジェラルドほどぼくに影響した哲学者はいなかった。彼らはぼくの全感受性に莫大な影響をもった。それにすべてのアメリカのモダニストの伝統。詩や他の文学の形式には言うに及ばず、哲学に費やすよりもっと多くの時間を文学に費やした非常にたくさんの偉大な歴史書や偉大な小説がある。別に自慢しているんじゃなくて、不満を述べているんだ、ぼくはおそらくもっと哲学を読むべきだろうね。けど多くの哲学の本は膿んだ歯の手術みたいだと思う。君はそういうくだらないことを切り抜けなければならなかったって考えているんだろう?

ぼくがハマっているのはスキーで、ナッツみたいにスキーが好きなんだ。けど、正直に言わなきゃならないが、人は80年も生きると、昔みたいに急な斜面を上手く滑れなくなるんだ。さすがに次のオリンピックチームに入ろうとは思わないよ。

ザン・ボアグ:あなたの仕事とは別に、何か推薦できる心の哲学に関連する本はありますか?

ジョン・サール:どいつもこいつも本当にすこしもいいとは思えない。ウィトゲンシュタインはいつも読むと啓発的だ。ほとんどそれは会話だから、君は彼と議論をすることになるだろうね。けどぼくが言われる必要のあることを言う心の哲学者にお目にかかったことはない。それがぼくが心の哲学についてたくさん本を書く理由なんだ。君はぼくが充分な本を一冊書くことができると考えるんだろうけれど、ぼくは心について何冊も本を書いたし、疑いなく書き続けるだろう。なぜならまだ巷に誤った主張があふれているからだ。

けどなお、ぼくは君のウィット(理知)を鋭くする偉大な人としては、ウィトゲンシュタインを薦めることができる。ウィトゲンシュタインと議論をするのは偉大だ。なぜなら非常に頭切れ、何が重要な哲学的問題かについての本能をもっているからだ。彼は、ぼくが本質的だと思うことを、すなわちそれらの問いに体系的に答える体系的な理論を構築することを拒否するんだ。

さてぼくは哲学史にはあきれるほど感心するが、正しい理由はない。ぼくはライプニッツとかカントとかを読むことからぼくが多くの真理を学んだとは思っていない。ライプニッツはたぶんこの世でもっとも知的な人物だったと思うけど、彼の哲学的主張はおそらく間違いだらけだと思う。つまりモナドとかその他についてだ。カントはおそらくこの世で最も偉大な哲学者で、彼は強迫観念だが、全部、物自体は知りえないという、誤りに基づいているとぼくは思う。知りえる。ぼくは机を見ており、ぼくは物自体を見る。

ぼくは知覚についての本を書いている。ぼくはカント、デカルト、バークリー、ヒューム、ライプニッツ、スピノザその他のすべての連中に答えようとしている。なぜなら彼らはみな知覚についての同じ誤った主張をもっているからだ。だから哲学をを賞賛するため、誰かについて尋ねるなら、ぼくは間違った相手だと言うことだ。ぼくは過去の偉大な思想家について適切な敬意をもっているけれど、悲しいかな、全員間違ってばかりで、ぼくの仕事はその誤りを指摘することなんだ。
posted by Kose at 18:02| ジョン・サール

2017年01月04日

ニック・フォション『ジョン・サール』序文(私訳・PDF)

サールがどんな立場に対立化しているかということについてははっきりしている。ひとつは科学主義的な規則のプラトン主義的存在である。これは彼が育った、論理実証主義(日常言語学派に対立するところの)から、認知心理学や人工知能や生成文法などである。そのためついつい論理規則が心や言葉やものとは別の世界で独立して、たとえば数学式のように存在するというのはサールにはばかげたことであった。対照的に伝えられるところではクルト・ゲーデルはそういうプラトン主義者だったらしい。言語の自立性は生成文法にも構造主義言語学にも共通する20世紀の神話と言えるが、これはもっと専門的な認知言語学者によって厳しい批判にさらされている(だが、サールはあんまり認知言語学に賛同していないのだが)。もうひとつは反実在論である。哲学は、考えによって世界をとらえる営みだから、世界は考えに還元されるという莫大な先入観があるのは、今日では比較的自明である。テクノロジーが不可欠な現代、いったいジャック・デリダがアメリカで講演するために、お金も、パスポートも、ジェット機も使わず可能であったか指摘するだけで他に何も言う必要がないくらいである。現代の最終的なこのような考えへの還元論(観念論)は現象学で、ジャック・デリダはそもそも望みのない還元論の聴衆に対して、還元論によって還元論を否定しようとしたのかもしれないが、ほとんど理解しがたいものである。発話行為と中国語の部屋とサール=デリダ論争くらいしか一般に知られていないかもしれないが、本当に情けない。
 今後1章ごと、暇を見て掲載していくつもりである。サールが理解できなかったらバカである(全部を合理的に再構成して理解できるか知らないが)。デリダを理解できたと触れ回るのは単に小さな学者仲間以外に話し相手がいないだけである。
 日々科学技術は進歩し、その利便をますます受けるのはたいへん楽しいことで、お金があればなんでも楽しみたいものである。もうオヤジなので、バンド組むのが面倒くさく、録音は全部デジタルだ。発表場所もネットだ。
 だが巨大な資金を必要とする現代科学は大半が、科学に無知な投資家や政府を欺く過剰に理想化されたプロモーションを通してしか、普通一般人はアクセスできない。脳ブームも、人工知能もそのようなものである。科学者はこの点で金に心を売っていることが多いので、多く見積もっても話半分だと思うべきだろう。同じ理由のため心は存在しないとかぶち上げ、科学技術を売り込むことによって最低でもつまらない本を大量に売ることができるのである。
サールの読者なら、そういうなんちゃって万能科学をまじめに取り合うことはないのである。

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Nick Fotion "John Searle" Introduction (PDF)

John Searle

Nick Fotion

Philosophy Now
Routledge
2014 (First Published 2000 by Acumen)


目次

序文
第1部 言語哲学
1 サールの発話行為理論
2 サールの分類学理論
3 非標準的発話行為と発話活動
4 メタファーとフィクション
第2部 心の哲学
5 心の志向性と言語
6 心の状態と言語におけるネットワークとバックグラウンド
7 心の再発見
8 認知心理学と無意識
第3部 社会の哲学と他の問題
9 社会的現実
10 制度
11 存在論
12 真理、表象、認識論
13 総括
文献
索引


序文

ジョン・サールは分析哲学の伝統の中で育ったが、彼はその伝統を越えている。ひとつの理由はたとえば、分析哲学の伝統がひとつやふたつの主題の特定の側面に狭く焦点を当てるようフォロワーに奨励するが、彼はさまざまな主題について書くことである。長いキャリアの中でサールは言語哲学、心の哲学、社会制度の本性や構造、コンテキスト(彼はネットワークとバックグラウンドと呼ぶ)、科学、因果関係のような主題について幅広く書いてきた。
 だがそれを越えて、彼はこれらすべての主題をひとつにまとめてきた ― 彼は単一の「大きな絵」の哲学の立場を形成するようそれらを総合してきた。この本で後にわかるよう、彼の立場は大部分反論的である。それは視野にあるすべて ― とくに何が現実かについての私たちの感覚 ― について脱構築することに没頭する、事実喜々としているようにみえる強力で広範に根付いた現代のポストモダニズムの伝統に反論する。サールの立場はまた、意識を完全に無視したり、心の現象を説明するとき意識を軽んじる点で、意識の価値を毀損する心理学や心の哲学の支配的主張に対してもまた反論する。興味深いことに現実、意味、そして彼の大きな絵の立場を有意味にする彼の感覚を擁護するとき、サールは彼が反論する主張の多くと協力するのである。そう、彼は言う。私たちはある視点からのみ事物を見ることを知っているが、しかしなお私たちが有意味に現実世界と接する存在であると考えることができる。そう、彼はまた言う。科学は私たちの頭の中で無意識的に進行するものの言葉で意識を説明できる。だが、それは意識の重要性を無価値にする必要はないと付け加える。そしてそう。分析哲学の細部へのこだわりは重要だか、それは大きな絵、ないし「総合的」分析哲学に取り組むことをはばむものではない。サールの対立する主張のうわべの非全体的なまぜものは、すべての論的からの攻撃を招きやすくする。同時に、そのまぜものはその主張をおもしろくし、オリジナルなものにする。現代の哲学シーンで起きていることに興味をもつ誰もか遅かれ早かれ折り合いをつけなければならないものである。
 サールが分析哲学を超越する別の理由は、彼が言語について語ることは、哲学者だけでなく、言語学者の興味もまた惹く。彼が心について言うことは、哲学者だけでなく心理学者の興味も惹く。彼が社会的世界について言うことは、哲学者だけでなく、社会科学者の興味も惹く。そして彼が因果関係と科学的説明について言うことは哲学者だけでなく、科学者の興味も惹く。その場合、彼の著作は少数より、むしろ多くの人々にとって興味深いものなのである。
 さらに、別の理由は彼が書くスタイルに関係する。彼が育った欧米のジャーゴンで、サールはストレートシューター(謹厳実直)である。彼が何か言うとき、はっきりずけずけものを言う。彼は完全にジャーゴンを避けるわけではないが、控えめにしか使わない。彼の態度は直接的に明確に述べられないなら、それはかれが言おうとしていることを知らない印である。しかしときどきサールはあからさまにあけすけすぎる。自分に同意しない人と対峙する場合、彼の攻撃はしばしば真正面から、対立する。その結果、サールの読者、とくに彼に共感していない人は、彼が言っている内容についてよりも、彼の敵対的なスタイルに目を奪われがちになる。私はサールが論敵の多くの攻撃を指摘するが、彼らに対してわずかな議論しかしないというような哲学者と哲学者ではない人両方からの非難をどれだけ多く聞いたか思い出さずにはいられない。この問題のため、その非難は ― とくに主題が心の本性の場合 ― 彼自身の主張のためでさえどんな議論でも彼がわずかしか述べないとしばしばなされる。確かに、彼の論敵にとっては、サールが議論を欠いた人のようにみえるのである。つまり感情的で人身攻撃の訴えとみなされがちである。結果としてあちこちで乱闘が生じるがが、それは驚くことではなく、それで舞い上がるたくさんのほこりこそ、サールにかけられたすべての嫌疑のた原因に注意を引くことになるのである。
 その場合、サールについての、より少なくその論敵についてのひとつの最終地点は、ほこりが静まることである。いったんこうなれば、読者はたぶんサールのスタンスが様々な個々の哲学的問題についていかに適切か理解する立場にいることを知るだろう。第二の目標は、サールが書く様々な主題についての彼の主張がひとつの総合を形成するようにどの様に結びついているかを示すことである。彼自身1998年の著書、『心、言語、社会:現実世界における哲学』でそれをどの様に行っているかを示す。実際、彼はそれを哲学教授のために行うが、特に教養ある一般読者のためにそれを行う。彼は哲学者としての彼のつとめが幅広い読者が彼の主張に親しみやすくすることだと考えているようにみえ、彼は明らかにそのつとめを楽しんでいるのである。それでも、馬の口からだけでなく、馬からわずかに離れており、馬が客観的に言っていることを聞くことができる人にとって、良いニュースを知ることは時には役に立つ。
 サールの1998年の本は、彼の全体的哲学的立場の三つの主要な主題に対応する三部に分かれている。彼が取り上げる第一の主題は心である。論争のちりがもっとも分厚いのがここであり、おそらく彼がこの本の初めで心をなぜ取り上げるか、そして実際なぜ彼が他の主題よりこの主題により時間を割くかの理由である。だが、もっとありそうな理由は私たちが他の二つの主題について彼が言いたいことをよりよく評価できるということである。すなわち心がどのように働くかをいったん理解するなら、私たちは社会的現実を扱うのに、現実が心の構成物であるため、よりよい立場にいるのである。次いで、いったん社会的現実を理解するなら、私たちは、彼の著作の第三の主題である言語がいかに働くか理解することができるのである。サールは三つは互いに密接に結びついていると主張する。現実は多ではなく、一である。たとえそうであっても、社会的現実と言語はともに私たちの心の力の産物であるため、他を理解させる前に、心をもつ現実の彼のツアーを始めることによって彼の全体的な哲学的立場を説明することは、サールにとって意味がある。
 この本の仕事は異なる点からツアーを始める。それは言語哲学から、ついで心へ、そしてそこから社会的現実へと進む。これは彼がそのキャリアで実際にとって道筋である。彼は最初、言語についての著作でその名声を得た。そしてそれは彼が心の哲学についての問題にとりかかりはじめたのは、この分野の傑出した哲学者としての地位をすでに確立した後にすぎない。私たちの心的現象の理解にまつわる問題に彼は関心をもちながら、彼は社会的現実、より詳しくはその現実がいかに創出されるかについて書くため1990年代、その関心を拡大した。
 しかしサールの言語についての著作から始める主な理由は、彼の知的発展の後を追うためではなく、彼が言語について語ることを理解することを理解し、彼のアイディアが心に関するそれに、それから社会的現実になぜどのように発展したかを説明することをわかりやすくするためである。だから、この研究の第1章〜第4章(第一部)はサールの言語についての思想を探求する。これらの章で、私たちは発話行為(Speech Act)、彼のメンターであるジョン・オースティンから学んだ概念について彼が焦点を当てるのを見る。発話行為はサールにとって、言語コミュニケーションの最小単位、あるいはより適切には、実際の言語使用の最小単位である。私たちは単に指示したり(refer)、叙述したり(predicate)することによって言語を用いるのではない。すなわち、私たちは通常、「その絵画」と「赤」ないし「赤である」のような表現を発語して世界と関わるのではない。そうではなく、たとえば、当の絵画が掛けられているギャラリーにまだ行ったことがない友だちに話す時、私たちは「その絵は赤い」と言う。それゆえ、指示と叙述は発話行為の中でその役割を演じる。それは指示し、叙述し、その後そうすることで、発語する発話行為を組み立てる様なのではない。
 発話行為に焦点を当てることで、サールが自ら買って出た任務はそれらをよりよく理解できるようにすることである。彼はどのようにそれらが働くか、言い換えれば、それらがどのように分析すべきかを詳しく知ることを望む。今書いたように、この説明は彼が(発話行為内でなされる)指示すること叙述することに取り組むことを強いる。だが、赤い絵のような単純な例の場合でさえ、発話行為が発話者とギャラリーの状況に関するコンテキストを説明に入れることを含む。しかし多くの発は行為は、コンテキスト的により豊かである。たとえば、司令官が兵士に報告するよう言うとき、発話行為を理解することは、階級や軍隊の伝統について知っていることを前提とする。同様に牧師が若いカップルを結婚させるとき、教会の伝統やその伝統のコンテキストが役割を演じる。だから私たちは発話行為の分析が、すでにサールが将来社会的現実を理解することに関心を持つこと、そして直ちに私たちがあれこれの仕方で組織された単なる言葉の列として言語を見ることを越えさせることを理解する。これは私たちが言語それ自体を単に注目することによってでは言語とその働きを完全には理解できないことを意味する。言語だけに注目するなら、命令、約束、祝福、宣戦布告などのものはナンセンスになるだろう。発話行為はコンテキストに埋め込まれているのである。
 だが指示、叙述、コンテキスト以上のものが発話行為にはある。発話行為はある種の「行為」(act)である。そのようなものとして、サール(と彼以前にオースティン)は、発話行為は意図(intention)を説明に入れることなしに理解できないことを自覚していた。私たちが他の人とコミュニケートするとき、私たちは意図的に(intentionally)そうする。これが言語的形式で表現される感情的反応と発話行為が異なる仕方である。私が完全に真っ暗闇でむやみにドアの鍵穴に鍵を差し込もうと手探りするとき一連の文字化不能な表現を発語するなら、私は言語を意図的に用いているのではない。私が言うことは、出来事あるいはコントロールできない反応であって、行為とは見なされない。だが静かなとき、はっきり落ち着いた声で「ドアのところに変なやつがいる」「ドアを閉めてくれ」「君を雇う」「おめでとう」と言うなら、私は意図的に話している。そのようなものとしてこれらの発語はそれぞれ、発話行為なのである。
 意図や他の心の概念が他の仕方で、発話行為に関与する。「私は明日自分のオフィスにいると約束する」と言うとき、私は意図的に話しているだけでなく、その約束の中で、私はオフィスにいるだろうという「意図」を表明しているのである。他の発話行為は異なる心の状態を表明する。私がアトランタの今日の天気は晴れだと記述するとき、私は太陽が輝いているという「信念」(belief)を表明する。私が君にそのサンドイッチをとってくれと要求するとき、私は君がそうする「希望」(hope)を表明する。同様に、君がテニスの試合で勝った君を祝福するとき、私は君の成功の「幸せ」(happiness)を表明している。だから発話理論には心の概念が浸透しているのである。発話行為が何かを社会的、物理的コンテキストを説明に入れることなく完全に理解できなきないのとまったく同じように、この理論を様々な心の概念を説明に入れることなく理解することはできない。
 だがもっとある。発話行為の理論は意図、信念、希望や類似の概念だけでなく、また志向性(Intentionality、わざと大文字とする)の説明を与えなければならない。意図が私たちがする、あるいはしているつもりであることに関係しなければならないにもかかわらず、志向性は言語に見いだされる「アバウトネス」(aboutness、訳注;あえて訳せば「について性」)に関係する。アバウトネスに出会うひとつの仕方は私たちが世界を記述するとき、私たちが抱く信念にある。月が出ていると言う場合、私たちは信念を表明し、この信念は月の地位ないし状態「について」である。言語の中でアバウトネスが出る別の仕方はもっと直接的である。今夜は月が出ていると言う場合、私は月と呼ばれるモノ(object)「について」語っている。(訳注;aboutの訳語「について」の括弧は訳者が挿入)。
 そのためサールがそのキャリアの最初の部分で発話行為について広範に書いた後、社会的現実(発話行為のコンテキストの重要な部分)に注意を当てることで発話行為の彼の理解を拡張することに移ることができたのであり、心に焦点を当てることができたのだった。彼は実際まず後者を選んだ。おそらくなぜなら心の哲学や心理学の研究への関心が、1970年代と1980年代高まっていたからである。その頃、コンピュータとのアナロジーで、私たちはよりよく心を理解できると主張した認知心理学やより特殊な理論が大流行だった。サールはほとんどすぐ、この大流行にハマった多くの研究者や思想家が彼が言いたいことと対立することを心や心的現象について言っていることに気づいた。発話行為の著作を出すとすぐに、信念、意図、欲求、そして志向性のような概念が意味があり、彼にとって重要であるように思えた。だが心理学や神経心理学や関連する科学における「認知主義」的発見の権威を擁護する新たな概念を発展させることを望む人々に対して、サールの日常的概念は最低でも廃れつつあるもののようにみえた。
 その後、サールが『志向性』(”Intentionatlity”、1983年)と言うタイトルの本を書き、それを越えて彼が言語について言いたかった主なことを終わらせた後、すぐ心の哲学の他の本や記事を書くことになったのは理解できる。現在の研究で、心に関するこれらの著作は、第5章から第8章(第二部)で扱う。第5章は志向性の主題についてである。彼の議論はこの場合、心の彼の主要な特徴に関するフレームワークをなし、またどのように志向性が言語と心の両方に見いだされるかの問題を解決することでもある。第6章は言語の使用がコンテキストに埋め込まれているのとちょうど同じように、心もそうであることが直ちに明らかになるためバックグラウンド(あるいはコンテキスト)の概念を扱う。第7章と第8章は直接、心を扱う。それらは彼の心に関する主要な著作『心の再発見』(”The Rediscovery of Mind”、邦訳『ディスカバー・マインド』、1992a)に関係する。それらはまたサールと、すでに述べたようにあらゆる方面から彼に襲いかかる「敵たち」の間のほこりまみれの論争に関係する。
 心の哲学の土俵での闘いが続く中、サールは社会的現実に関連する問題に取り組むようになった。この場合、主要な著作は『社会的現実の構成』(”Construction of Social Reality”、1995a、未邦訳)である。この本とこの主題に関する他の著作は第9章と第10章(第三部、それは第11章〜第13章を含む)で議論される。この議論で発話行為の理論と彼の心の理論にさかのぼるつながりは明白である。事実、社会的現実のほとんどは、昔の概念、特に彼の言語哲学の著作によって構築されているようにみえる。この点で、なぜ最初の4つの章でサールの言語の理論を、その後社会的現実にもどる前に次の4つの章で心の哲学を論じることが意味あるのか評価できるだろう。
 第11章と第12章は後片付けの章である。主にそれらはサールの存在論に関するだけでなく、彼が認識論について語らなければならないことに関係する。サールはそれらについて独立した本を書くことはなかったが、彼のキャリアを通じてこれらの主題を論じてきた。存在論における彼の実在論(realist)の立場が彼の初期の著作の多くとぴったりはまることを書くのはおもしろい。あそこの自動車は青いと私たちに語る発話行為は、自動車についてであり、その実在する(real)青い自動車があそこにあることについてである。それは何かの印象とかセンス・データとかその他についてではなく自動車についてである。言語の志向的力(Intentional powers)は実在を指示する(point out)。だが心の志向的力は同じように指示する。私が自動車を見る場合、私は現実に自動車を見る。そして学生が私のオフィスに来るのを見る場合も同じである。なぜなら学生に支払う現実の授業料が入って来るからである。
 この本の最後の章はそれに先立つすべてをまとめる。そしてある程度、サールの哲学的立場全体について某か結論を書く。最後に、希望することは、読者がたとえ現代哲学で起こっていることの何らかの意味をもつべきなら、知らなければならない哲学者として、ジョン・サールを評価するようになることである。
 二つの最後の導入的な意見は次の通りである。第一に私はサールが書いてきたすべての主題を詳細に論じる試みをこの本では行っていない。たとえば、私は彼の論文「”べき”は”である”に由来する」(Deriving 'Ought' from 'Is'、Searle 1969; Ch.8)についてのテキストで何も語っていない。私はたとえこの論文がよく知られており、幅広く掲載されていたとしても、それはサールの倫理学や価値の理論へのサールによる孤立した乱入を表しているため、その主題を避けている。そのようなものとして、彼の「総合的分析的」立場より大きなキャンバスに入れるのは難しい。私はまた初期のサールの別の乱入 ― 大学政治の境域への ― についても何も語ることはない。カリフォルニア大学バークレー校の若き教授陣として、長い営みをしてきた社会が根本的外科手術を必要とした頃のはるか昔の学生運動に、彼は味方した。明らかにこの本のサイズでは、すべての話題をカバーできないし、それぞれ公正に振る舞うことはできない。
 第二に、この研究で、私は他の人たちのサールの立場への見解を最小限にとどめている。サールについての『哲学者索引』(The Philosophe's Index)にリストされたますます増える項目(すでに数百を超える)がある。これらの記事、議論、レビューのほとんどはサールを狙った練習のため使う試みである。これらのうち代表的な例を説明し、サールのそれに対する応答であるだろうものを構成しようとするのは、不必要に体裁を複雑にするだけだろう。結果として、読者は特定の問題についてのサールの立場も彼の全体的な哲学的立場も両方とも、見失うだろう。だから私はサールの立場を説明するのに助けになる目的に資する場合に限り、他の人の主張に言及し、見解を述べる。便宜ため、私はテキスト本文でこれらの見解を挿入する。別の場合、他の人の見解が妨害的に思えるなら、注で言及する。何にもまして、私は可能な限り率直かつ明快に説明を維持しようとする。そうすることはまさにサール主義者であるべきことである。
posted by Kose at 07:13| ジョン・サール

2017年01月03日

ニック・フォション ジョン・サール 序文 明日投稿

腕試しに、序文訳出した、校正したら、アップする。
三ヶ月くらいで、できるのじゃないか?
スマホより!

posted by Kose at 21:17| ジョン・サール

2016年09月29日

錯視などの哲学的意義、懐疑論を経験的に検証できること

脳神経科学が、意識とか心がわかるとかいい出すと眉唾ものである。その手の本がたくさん出ていて、吐き気がしそうである。

さてジョン・サールが2015年に出した新刊『Seeing As They Are』(当時ディズニーの映画が流行っていたので翻訳のタイトルは『ありのままに見る』にした)は、サール先生が80歳を超えて、もうちょっとでラッセルの域に達しそうな年齢で出した本で、主に知覚の志向性を扱ったものだ。とくに比較的新しい哲学的知覚理論で、「宣言主義」という理論を批判するものから発展して一冊の本になったんじゃないかと思う。
宣言主義は、真の知覚と偽の知覚が排他的だという立場として簡単に要約できる。
だが、「錯視」のような認知心理学の得意な例は、真の知覚でありかつ偽の知覚である領域があるということを示している。
認知心理学ないし脳神経生物学がしばしば含意する、「ヒトは脳によって騙されている」というのはある意味本当である。生きるに都合いいように外界の知覚を適当に脳神経レベルで編集しちゃっている体得る。「錯視」のような例は、その編集が自覚できるまれな例の集合である。
ここで重要なのは
1)「〜と見えると(ように)見る」というシステムの「〜と見える」部分は、知覚に本質的である。
 この「と見える」部分は、ニュートラルな意味で現象学的部分である。そのため錯覚が起きるためには現象学が必要であると言う哲学的含意がある。これを過小評価した言い方で「ヒトは脳によって騙される」部分の「ヒト」が現象学的質的知覚をもっている=(脳科学の用語で言うと)クオリアをもっているということである。
2)このような異常な知覚と正常な知覚は同じである。これが宣言主義の拒否の部分に当たる。
3)そして異常な知覚を、知覚対象の経験的に確実な知識と、現象学的報告の間の齟齬によって、「錯覚」であると科学的に明言できるということである。
4)デカルトはいろいろな種類の懐疑を提起したが、およそ経験的にある種の懐疑は、根拠あるものとして科学的に解明できるが、たとえば悪魔に欺かれているかもしれないというような、哲学者に任せるしかない問題として残る。「悪魔が欺く」というのは、たとえば「脳が心をもつ」と言うくらい漠然とした問いだからである。

かくして、心に関する脳神経科学の帝国主義は避けるけれど、人間の誤った知覚は人間の正常な知覚の一部であることを示すことによって、ほとんどの哲学的懐疑論と哲学的懐疑論の克服のために発生したすべての観念論哲学は「オワコン」である。

このため、唖然とするかもしれないが、日本で行われているほとんどの哲学論議は無駄である。

とかね。ちょっと復習してみた。
posted by Kose at 15:16| ジョン・サール

2016年08月27日

Free Speech Actへのリンク復活させました

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。



思いのほか、ぼくの論理の学習の成果が有効であることが分かったため、なぜ有効であるかの傍証として、私的なジョン・サール先生の研究サイトにするつもりの「フリー・スピーチ・アクト」サイトへのリンクを復活させた。

別にぼくが「哲学」がわかっていると主張するつもりは一切ない。むしろ、ほとんどの哲学は邪魔臭いとしか思ってないほどだ。サール先生の全部を理解しているとか、全部を受け入れているとかそういうこともないが。

腰痛や睡眠の乱調のため中断している間に、ちょうど小保方晴子さんの『あの日』が出版され、その後こちらがメインになった。たまたまだ。本来の私の意図はよくわからない。最も多いコンテンツはたぶん音楽とLinux関連だが、両方とも大したことはない。

大学の専攻は、社会学で、日本の農村の人類学的フィールドワーク、ぼくの担当は選挙違反について価値中立的に記述することだった(選挙違反は悪いという判断は留保するということ)。学部の3年くらいの報告書の僕の部分だけ井出孫六等「秩父―峠・村・家 」(岩波グラフィックス)1984/3、に取り上げてもらった。すごく大変だった。選挙違反の話をしゃべりだすまで酒飲みに飲んでべろべろに毎日なりながら聞いたんだから。

卒論は、専門職の社会学で、そのときすでに、ロースクールやメディカルスクールの成立史を調べていた。まさかSTAP細胞事件でその知識が生きるとは考えてもみなかった。引用システムなどはそのときすでに調べていた。しかしそのテーマは、タルコット・パーソンズの社会システム論の一番弱い部分で、現在ではコンフリクトセオリーと言われる一派が攻撃をかけている部分を死ぬほど洋書読んで紹介したのだ。こういう学歴システムは、国により全く異なるため、一般論がない。日本の法科大学院はあきらかにロースクールを誤ってまねした失敗の制度。俺に聞いてくれれば止めたのにねえ。

スーダン・ダルフール紛争のキャンペーンで(超有名な人権擁護団体とも連携した)、ニュースソースがあまりに日本にないものだから、スーダン・トリビューンを中心にナマのスーダン人発信の英語ニュースを4年翻訳し続けた。しかし南スーダン独立で、国際社会の関心が失われたためにやめた。その過程で国連総長潘基文のダルフール紛争は気候変動が原因というジェフリー・サックスの説を大批判したし、日本のアラブ学者のスーダンのアラブ人の説明が全く間違いであることを指摘した(19世紀作られた系図をそのまま事実と誤解した)など知的なこともやった。
密かに公開していた「ダルフール・トリビューン・アーカイブ」(seesaaでのコンテンツを移したもの)のリンクも加えました。


南スーダン情勢について、南スーダン諸部族は政治的統合が希薄で、ディンカとヌエル(あるいはロウ・ヌエル)が戦闘しているという民族紛争だとかジェノサイドだとかは全くの誤認だと指摘した。第一に南スーダン内戦軍内部の対立の表面化であり、その他地方の反政府勢力は、孤立した武将(内戦のため武器が蔓延しているため生じる)であり、一番重大なのはジョングレイ州および周辺での伝統的な牛泥棒の戦いが武器の蔓延と食糧危機で激化したことなど背景は多様なのである。最後の問題について最近国際的取り組みが行われるというニュースを読んだ。

というわけで、何の専門家でもないが、誰も専門としていないことについてアドホックに専門的にやることもあるというのが、私の性癖だと理解していただきたい。

母が私のこういう性癖に気づいているとは思えないし、話してもない。
posted by Kose at 12:56| ジョン・サール

2016年05月29日

Free Speech Actのフロントページ変更

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


ジョン・サール未邦訳文献のサイト"Free Speech Act"のフロントページ、掲載文献一覧をリストしてますが、いちいち各文献紹介ページにリンクしてあり、そこからPDFを開かないといけないどうにも面倒な仕様になってました。

本日より、フロントページから直接、翻訳PDFを開けるように変更しました。

今後もサイトの設計デザイン改良していきたいと思います。

こちら
https://freespeechact.wordpress.com/

サールの社会的実在理論は、大陸哲学や社会科学の社会実在論(あるいはヘーゲル=マルクス的観念論=唯物論)があふれかえっている日本では「大したことはない」感じがするのは確かでしょう。しかしもしサンデルの正義論をいまだに信じているなら、それは間違いです。そのような正義は存在しません。なぜなら正義は地位機能の集合的受け入れに先立たないからです。

以上。



posted by Kose at 09:25| ジョン・サール

2016年04月30日

Free Speech Act:ここではやりません

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


丸1年以上取り組んだが、睡眠の不調と腰痛で、集中してやる気力がなくなってしまった。

哲学の翻訳は、あくまでも母の在宅介護の暇つぶしである。

Linuxをやっていてもよかったのだが、Linuxで何かやるより、翻訳のほうが所用でとぎれとぎれになっても続けられるという利点があった。それでも、最終的に校閲するときなんか、長時間かかって、母の相手がめんどくさいと思うこともある。別に日記をつけていないので、いつから母の在宅介護しているのかわからないが、先の見えない話なので、負担に感じることはやめておくことにした。

一応とぎれとぎれに作業をしているし、やるつもりはあるがここは公開の場にしない。なんとなれば、WordPressのサイトができたからだ。意図せざる結果であった。慎重にやっていたらいつまでも日の目を見なかっただろう。
まあ、あっちのブログを改善して、哲学・社会科学の話はそこでやろうと思う。
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
へどうぞ。
なお、アクセス解析をみてもここにはその手のアクセスほとんどないので、全部削除しました。あっちでどうぞ。

あっちでなんか書いたらご報告はします。
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Free Speech Act:掲載文献

ジョン・R・サール
社会的現実の構成(1995) 私訳PDF
心、言語、社会(1998) 私訳PDF
ジョンサールとの会話(2000 インタビュー) 私訳PDF
社会的世界を作る(2010) 私訳PDF
ありのままに見る(2015) 私訳PDF
論文 「逆さまになった言葉」(1984) 私訳PDF
インタビュー「ジョン・サールとのインタビュー:ジュリアン・ムーア」(1999) 私訳PDF
論文 「現象学的幻想」(2004) 私訳PDF
講演「生物学的自然主義」(2004) 私訳PDF
論文「あなたのコンピューターは何を知ることができないか」(2014.9) 私訳PDF NEW 2016.4.7

G.E.ムーア
外的世界の証明(1936)

J.F.マクドナルド
「ラッセル、ウィトゲンシュタインとサイの問題」(1993)
posted by Kose at 16:35| ジョン・サール

2016年02月22日

「形而上学を社会化する」Kindle本

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
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体調が戻って、サール先生の2本の論文やったら、この本をやる。全訳など野暮なことはしない。全訳をしたのは、日本の哲学者が世間知らずのバカばっかりだから。
イントロダクションに目を通す限り、サール先生の社会の哲学が、なんだか孤立したものではないことがわかる。アメリカだから個人主義が前提で、経済学やゲーム理論、その副産物のロールズ、サンデルのような正義論が「主流」だ。だが形而上学が「社会的」であると、特にロールズやサンデルのインチキ政治哲学は、言葉遊びにすぎないことになるだろう。トランプ対サンダースという感じだ。あるいは動物の利他的行動のような主題とも関連するかもしれない。目次を見ると、共同行為論、間主観性論、ウィトゲンシュタイン、社会構成主義まで含まれているようだ。これはおいしいかもしれない。

まあ4月以降だろうな。本当に睡眠の具合が悪いから。

Socializing Metaphysics 形而上学を社会化する

目次
1. Socializing Metaphysics: An Introduction 形而上学を社会化する:序章
Frederic F. Achmit
2. The Structure of the Social Atom: Joint Commitment as the Foundation of Human Social Behavior 社会的原子の構造:人間の社会的行動の基礎としての共同コミットメント
Margret Gilbert
3. Practical Intersubjectivity 実践的間主観性
Abraham Sesshu Roth
4. The We-Mode And the I Mode われわれモードと私モード
Raimo Tuomela
5. Joint Action: From Individualism to Supraindividualism 共同行為:個人主義から超個人主義へ
Frederic F. Schmitt
6. Goups with Minds of Their Own 自己意識をもつ集団
Philip Pettit
7. Social Ontology and Political Power 社会的存在論と政治権力
John R. Searle
8. Conventions and Forms of Life 規約と生活形式
Edward Witherspoon
9. Denotation and Discovery 指示と発見
Gary Ebbs
10. Individual Aoutonomy and Sociality 個人の自律性と社会 
Seumas Miller
11. Social Construction: The "Debunking" Project 社会的構成:「暴露」プロジェクト
Sally Haslanger
12. Social Construction, Social Roles, and Stability 社会構成、社会的役割と安定
Ron Mallon
posted by Kose at 13:40| ジョン・サール

2016年01月13日

『逆さまになった言葉』とスマップ解散

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
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ジョナサン・カラー"On Deconstruction"(邦訳『ディコンストラクション』岩波書店(岩波現代文庫)で未だ入手可能)に対するジョン・サールによる批評である。

ディコンストラクションは因果的図式の階層的対立を逆転する。原因と結果の区別は論理的に原因を起源にし、時間的に先行させる。結果は二義的因果に由来し、依存する。この階層の理由ないし含意を探求することなく、対立内で働きつつ、ディコンストラクションが特性の交換を生み出すことによって、階層を逆転させることに注意しよう。結果が原因を引き起こす原因を引き起こす場合、原因でなく、結果が起源として扱われなければならない。原因を高める議論が結果を支持するため用いることができることを示すことによって、人は階層化の修辞的操作の責任を明らかにし、取り消し、重要な置き換えを生み出す[p. 88;私のイタリック]


2011年に岩波書店がさらに新しいジョナサン・カラーの『文学と文学理論』(原著2007)を出版したことにとにかく驚く。

上の文は、カラーがニーチェに倣って因果関係を逆転することを主張する部分である。
イタリックの部分に該当する文章をサール先生がこの後の行論で多数引用する。

「結果が原因を引き起こす原因を引き起こす場合、原因でなく、結果が起源として扱われなければならない」。

「引き起こす」も「原因」もおなじ「cause」である。「引き起こす」を「原因する」にかえるともっとばかばかしさが伝わる。

結果が原因を原因する原因を原因する場合、原因でなく、結果が起源として扱われなければならない。

これを出版した岩波書店が頭がおかしいのは確実だろう。

大意としては、「原因を発見するには、結果がきっかけとして先だってなければならない」から「原因の原因は結果だ」というすごい理屈である。

まだこれから読むけど、文学部の教授も学生も岩波書店編集部も「原因の原因は結果だだから、原因の結果が本当は原因だということを信じているのである。ディコンストラクションに聞こえるかもしれないが、まず原因についていろいろ考え方があるのがわかっていない。そして単純な話だが、存在論上の原因と結果と、認識論上の感覚・表象と実在の関係を取り違えていることまではサール先生は解説してくれない。

ニーチェは、たくさん混乱があり、その中には重力の魔というものと、存在物の永劫回帰がある。確かに両方とも因果関係を、観念論のパラダイム内部で否定しようとしたものと思う。だから正直に言って、ニーチェは間違っているのだ。そしてニーチェの解説者たとえば永井均とかジル・ドゥールーズのような合理的深読みは間違いである。自信をもって言える。それは時空が直観の形式だというカントが誤りで、物の場の即物的な性質だと20世紀の誰でも「例外なく」学ばなければならないのと同じである。またニーチェは「権力への意思」を完成することができなかったのである。なぜならまったくの誤りだからである。だがもっと初期の「道徳の系譜」で書かれた力の見解はある程度本当である。物事を対立させて自分ではないものを「悪い」というのは、水戸黄門的通俗的心理学的な普遍性のあるハビトゥスだからである。別名を勧善懲悪と言う。反原発とか反安倍とか反権力というのは典型的な勧善懲悪である。何も知る必要がなく、何も考える必要がないからな。

さすがソーカル、ブリクモンもあまりのばかばかしさにデリダを取り上げなかったのがわかる。デリダの文章はもっと持って回った言い方だから、デリダの後光を仰ぎ見つつ、その簡単な解説としてこういうとんでもない文を読むと、ジャグラーやクラウンのしかめっ面を見逃すのである。

さすがアメリカのあほ文学部で、このようなアホ文学理論が安易に流通するようになると、デリダ自身は「ディコンストラクション」を口にしなくなり、とんでもなく意味不明なことを「本」にし、バカな日本の出版社と学者はそれを訳すのである。原理的にデリダにテキストの編集権はあるはずはないから、商品の購入者が深読みすることに責任はすべてあるのである。

この責任を「コミットメント」と言う。

珍妙な理屈を岩波書店がどう訳しているかちゃんと検討する時間も作りたい。
もっと進んだら何か書くかもしれない。

さてスマップは解散することを前提として、すでに事務所もメンバーも納得済みだと思われる。
問題はテレビ局である。
つまりスマップ問題は、タモリ問題とほぼ同じである。
40歳でアイドルって異常事態だと思うのだが、企画力がない一部のテレビ局がさんまとかタモリとか所ジョージに依存しっぱなしであるのと同様に、大御所に頼らないと視聴率が取れず責任問題になるので、惰性で番組を続けている問題である。
あとはテレビが忙しすぎて、CD不況に対応できる楽曲をもうスマップは出せないのである。
キャリアとしてはメンバーは十分だから、グループである必要はないということも了解済みであろう。
そこでマネージャー退社で全員辞めちゃうと、別事務所でスマップを続ける余地ができてしまう。それは元の事務所の悪い例になるだろう。引き抜きともいわれるだろう。
だから、一人元の事務所に残って、他は独立することで、絶対に復活できない方法を考え出したわけだ。
問題はテレビ局がどのように対応するかまでは、詰まっていないだろうということだけである。
だから4月の番組改編に間に合わせるように今リークされたのである。

社会学的にみるとたぶんこうだろうと思われる。
posted by Kose at 19:54| ジョン・サール

2016年01月10日

ジョナサン・カラー『文学と文学理論』岩波書店、2011借りてきた

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
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原著は2007年で“The Literary in Theory”(理論における文学的なもの)。
まさに「逆さまになった言葉」だな。ソーカル後も、理論が文学だと言えるのは大した度胸だ。

まだポストモダンが生きているとは???

サール先生が83歳でご健在だというほうが、驚きであるけれど。『会話』のなかで、85歳のバートランド・ラッセルに「死んで天国に行って神様がいたらなんと言いますか」と聞いたサール先生である。きっと85歳になるのを心まちにしているだろう。学生に聞かれるんだ。「サール先生、死んで魂がナマの事実以上のものであると知ったらどうしますか?」「ぼくの犬ルートヴィヒと遊ぶさ」とか・・
ラッセルは98歳まで生きた。
レヴィ=ストロースはなんと101歳まで生きた。

さて、サール先生への回答はない。デリダの言い分を「第6章 行為遂行的なもの」p211〜257で繰り返しているだけである。

注においてのみサール先生に触れている。pp254−256。
(21)モントリオールの鉄学会でのデリダの講演は、Marge de la Plosopie(Paris. Minuit, 1972)に収録され、英語ではGiraph 1(1977)に、発話行為の理論家ジョン・サールの熱気のこもった応答ともに掲載された。デリダの長大な反論は、以下。“Limited Inc. a, b, c”(Giraph 2)。デリダの二テクスト。Jackes Derrida, Limited Inc(Evanstonm II:Northwetern University Press, 1988)として出版された。このやり取りで取り上げられた問題を10年後に考察するかなり長い“Afterword: Toward: Toward an Ethics of Discussion”が付加されている。「署名、出来事、コンテキスト」におけるデリダの議論を、分析哲学の語彙にみごとに移しかえたものに以下がある。Good Bean, “Derida Dry. Iterating Interability Analytically.”Diacritics 25. no.3(fall 1995):3-25.デリダとサールの悪名高いやり取りを論じたものとしては以下を参照。Cullar, On Deconstruction, 110-28; Stanly Fish, “How to Do Things with the Austin and Searle”in Is There a Text in This Class?(Cambride, MA. Hervard Press, 1980), 197-245, Miller, Speech Acts In Literature, 69-111.

*デリダのつづりを間違えてみた。

最低限『有限責任会社』が悪名高いことはデリダ教信者ジョナサン・カラーもみとめたわけだが、彼の“Deconstruction”(『ディコンストラクション』岩波書店)に対するジョン・サールのレビューは無視しているということだ。そしてそれにしても自分へのサール先生の批評を隠ぺいするため、ずいぶんまじめな長い注を書いた物だ。それだけ列挙すれば、すべて列挙しているじゃないかと思うからな。また刊行年から見て、ジョナサン・カラーが、『会話』を読んでいるのは確実だ。「書き落とす」という見事なジョン・ケージ的ディコンストラクションを反復しているわけだな。

本文は、どこでも聞ける話の蒸し返しでしかないと思う。パフォーマティブとパフォーマンスを並べて論じるのはいかがなものか。パフォーマティブ、典型は「約束する」あるいは「離婚届に判を押す」とパフォーマンス、ベッキーの「謝罪」にはかなり大きな違いがると思うんだが?
*謝罪は、表現的で、充足方向は空で、何も変えない。

彼らは“How to Do With Word”をオースティンが未完成と考え、生前に公刊しなかった事実すら把握していない。そしてどの程度かわからないが(読んでないから)、サール先生は、たぶんオースティンについてのデリダの論評を論評しただけだと思う。だから最初から身のない話だったわけだ。

ジョナサン・カラーのようなクソ野郎に、デリダらの受け売りではなく、遂行動詞というタイプの言葉を見つけ、そこそこまとめるだけの「研究」をする能力があるかどうかということである。

サール先生の射程はどんどん広がっていき、単なる記述文のようにみえても無責任な発話はないということになる。まあそもそも無責任な人間は、正気である限りたぶんいないだろう。そしてこれはごく日常的常識で、その日常的常識を超えた価値をもつ文学芸術がどれほど多いかは怪しいということだ。

そういうわけで、特にジョナサン・カラーのこのクソ論文は参照しないで、サール先生のものだけ検討する。
posted by Kose at 11:01| ジョン・サール