2015年11月13日

サール先生のフーコー

『ジョン・サールとの会話』でサール先生は、コレージュ・ド・フランスに、ピエール・ブルデューのホストによって滞在したことが書かれている。フーコーのくだりは、デリダの曖昧テロリズムの文脈で出てきて、フランスの哲学の文学的曖昧さは、幼稚に見られないためだとフーコーが言ったと言っている。サール先生はフーコーを高く評価しているのだが、サール先生の哲学的主張はフーコーと相容れないところが大変多いとぼくは思っていた。フーコーはどちらかと言うと中世実念論的な論理なのである。もちろん分析哲学はどちらかと言うとしいて言えば「唯名論」(概念は名前で実在しない)的である。実念論というとわかりにくいが個物が存在するのではなく、概念が実在するといういみのREALISMである。『物と言葉』を短く言うと、実念論のタイプが近代変わったと言うだけの話である。

ぼくは以前、実験的に、デュルケムの「社会学的方法の基準」の「道徳」をすべて「微視的権力」に置き換えるとどうなるか試してみた。そうするとそれはまさにフーコーの主張なのである。簡単な作業だから暇だったら試してほしい。こんなことをするのは俺くらいかと思ったら、サール先生の共同研究者も同じことをしたみたいだ。

ぼくに言わせれば、どんな社会的規律も権力なら、ISの規律も、フランスの規律も、その他すべての規律も「同じ」だから、仮に西欧近代理性に批判的なら「ISの規律のほうがいい規律」ということしか帰結しない。微視的権力のようなみえない暴力(とフーコーらが考えるもの)よりナマの暴力がおこのみということだ。

サール先生は力の行使は、「誰が誰に何を」を正確に述べることができなくてはならない厳密性制約と、志向内容がなければならないという志向性制約を理論的に導いており、それに関連してフーコーの権力論に言及する。というよりサール先生はフーコーを知的に尊敬しており、社会学的に容赦のない批判は、自分の手では下したくないらしい。

ざあっと訳したもので、構成すらしていないが、フーコーとかデリダを引き合いに出せば、サール先生だけより人気だろうと言うことで単にAKBやらSMAPと同じ意味でフーコーをお引き合いに出す。まさしく「第7章 力:義務論的、バックグラウンド、政治的その他 第二節フーコーと生権力」というタイトルだ。章全体はかなり長いので当面先になるからとにかくお楽しみに掲載する。人気のパノプチコンの分析哲学的ちゃぶ台返し的議論もあるよ!!!

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II.フーコーと生権力

フーコーの生権力(bio-power)の議論は大変影響力があったため私は少なくともそれについて何か言いたい。彼の主張は完全に明確とは言えない。そして彼がある理論を構成するとは考えられないと彼は主張する。それにもかかわらず、私たちの研究に関連する彼の説明にあるテーマがある。彼は「生権力」の概念を導入する。彼の主張では、生権力は社会全体に偏在している。彼は歴史的、あるいは彼が好むニーチェのスタイルで言うなら、「系譜学的」(genealogical)な生権力の発展の説明を示す。それは人間を社会の「規律化する」(normalizing)実践に服従させることによってその身体に対するコントロールの達成の問題である。教育制度、親、監獄、病院、医療技術、宗教的告白の実践、精神分析は ― 多くの他の実践や制度とともに ― すべて管理しえる人間の主体を創出するある種の規律化の生産の効果をもつ。
 フーコーの説明において、解放するようにみえる何らかのものは実際さらに生権力の表現であるということが重要である。たとえば、20世紀中葉の性的解放運動は、多くのその参加者によって、抑圧から解放することであると考えられた。だが、フーコーによれば、これらの参加者はあるコントロールを別のコントロールに換えていたのである。大衆は「抑圧によるコントロール」から「刺激」によるコントロールに移動した。(7) 私たちは見かけがよく性的にアクティブであるべきだという観念に規律化されている。そしてこれはそれに先んずる抑圧としての権力関係と同じである。
 生権力の操作のフーコーのお気に入りの例は、ベンサムのパノプチコンである。パノプチコンにおいて、監獄の看守はタワーの中心に座り、看守が囚人を見張ることを可能にする窓を通して、タワーのまわりの監房にいるすべての囚人を監視する。だが囚人は看守を監視することができず、その時そこで監視されているかどうか決して知ることができない。パノプチコンのひとつの特徴は、囚人が自分自身の看守になるということであり、どんな場合も当局に監視されているかどうか知ることができないため、自らを監視するということである。彼の行動は彼の置かれた認識論的状況によって完全に規律化される。フーコーはこれを知識と権力の結合のモデルと解釈する。看守の完全な知識は彼に完全な権力を与える。パノプチコンのように、生権力は偏在しており、匿名で、経常的である。フーコーは、過去二世紀にわたって発展した通常の官僚的、学問的、教育的治療的技術の多くをこの権力/知識結合の例とみなす。すぐに思いあたるひとつの反対は、パノプチコンは、単に看守が認識論的地位から独立した権力を既にもっているため権力の乗り物として働くということである。彼は単なる出歯亀ではない。彼はその監視にかかわらず囚人に権力をもっている。そのようなケースで知識は力を創出せず、単に既に存在する力をより効率的かつ効果的な使用を可能にするだけである。これを理解するひとつの方法は認識論的役割を逆転することである。すべての囚人が看守を見ることができ、看守は囚人を見ることができないと考えてほしい。囚人が牢獄に入れられている限り、これは権力関係を逆転はしない。フーコーは社会を、服従者とその服従を構成する、これら不可視の、匿名の規律化する実践によって偏在された物と考える。
 私たちは生権力の外をどう理解すべきなのか?その表面についてフーコーの例はすべて私たちの厳密性や志向性の強制を充足するようにはみえない。私たちは正確に誰が、正確に誰に力を行使しているのか、また正確に何が行使の志向内容であるか言うことができない。医療専門職、教師、ソーシャルワーカー、政府職員は彼らが健康で標準的な人間と考えるものを創出するため奮闘するだろう。だが正確に誰が、正確に誰に政客にどんな行為に関して権力を行使しているのか?最終結果が官僚制の当局によってより管理しやすい人間を創出することだったなら、それが権力の行使の形式であるということは帰結しない。フーコーは人々は彼らが何をするかは知っているが、彼らは何が、なぜ彼らがするのか、行うかを知らないと言う。だがそれが正しいなら、そしておそらく妥当に思えるが、その場合その結果を生むこと(何が、なぜ彼がすることを行うか)は権力の行使でない。なぜならそれは厳密性の制約も施工内容も充足しないからである。たいへん奇妙なことにフーコーはこれらの制約を承認しているようにみえる。「権力は他の誰かによって、たとえ、もちろん、常設の構造によって支えられた希薄な利用可能性の領域に刻まれているとしても、行為に挿入される場合にのみ、行使されるものとしてだけ存在する」。
 Lukesによればフーコーはあたかも新たなラジカルな理論を構成したかのように「社会学的な決まり文句」を提示しているたと、フーコーを批判する。すなわち「個人は社会化されている」。それは文化的社会的に与えられた役割や実践を指向している。それはこれらを内面化し自由な選択とし経験されるかもしれない。実際デュルケムが好んでいったように彼らの自由は規制の成果 ― 訓練とコントロールの結果 ― であるかもしれない。(9)
 私はフーコーがオリジナルかラジカルかどうかにはあまり関心がないが、私はそのような「社会学的決まり文句が権力関係のケースを述べることができるかを探求したい。今後の私の目的は、注釈や詳細な説明や批判によってフーコーの著作を議論するものでは断固としてないが、引き続く頁は、彼のような概念が厳密性制約や志向性制約に一致できるかの程度に知的に尊敬されるうるかどうかに反省によって刺激を受けたものである。
posted by Kose at 11:10| 評論

1969年よりスピリッツは切らしております

お固く言うと、アメリカの白人禁欲的文化が、大衆社会を迎えて享楽の時期を経て、商業化社会をそれ自体生み出し、やがて若者の様式化された反抗と、大人のビジネスへの没頭へと組織化される事態があった。

つまり一方でエルビス・プレスリーが登場し、ビートルズやディランの「文化的価値」が大人によって認められ、音楽はビッグビジネスとなり、ハリウッドビジネスに飲み込まれた自由のアイコンをイーグルスが郷愁を込めて『ホテルカリフォルニア』でシニカルに非難し、そしてすぐさまエスタブリッシュになったクラシック・ロックにパンクロックやヘビメタやヒップホップが「若者の様式化された反抗」のビジネスモデルを作った。そのサイクルにぼくらはいる。

アメリカの場合知的には、哲学者はプラグマチズムのことを考えるかもしれないが、フランス現代思想で起こったことは、ほぼすべてロックの生成で起こった。

思想的なものもある。初めはヘンリー・デイビッド・ソローの『ウォールデン』の脱文明的な自然観である。そしてフランス現代思想に代わるものは、ドラッグであった。ドゥールーズ=ガダリが、思想的な装置の変容にうつつを抜かしている時、最初は精神の拡張としてのマリファナやLSDやペイヨテが知覚そのものを変容させた。これには聖典もありオルダス・ハックスリーの『知覚の扉』である。

このドラッグ文化は「サイケ」文化として歴史的に見ることができると同時に、ドラッグ自体のアメリカでの今日的蔓延を生むか、その一部であるか見ることができる。

カウンターカルチャーのアメリカの先駆け、あるいはサール先生が毛嫌いしたフランク・シナトラ的エンターテイメント的軽さの拒否は、ビートニクの著作で知ることができる。ジャック・ケラワク、アレン・ギンズバーグなどである。文学的にケラワック信者は多い。村上春樹もそうだ。ギンズバーグは、ヘビーなドラッグ体験を詩にした。

ハックスリーやギンズバーグのドラッグ讃歌の他に、性的解放の思想家としておそらくナチスドイツから逃れて、アメリカに来たと思われる(よく調べてない)ウィルヘルム・ライヒ、ヘルベルト・マルクーゼのようなフロイト主義的批判理論家の思想影響を与えた。

このライヒやマルクーゼの抑圧からの解放の哲学は、フランス現代思想の生成と完全に一致する。

サール先生はそのような、アメリカの大学における文化革命に1960年代若い教授として、また赤狩り的戦後アメリカへの反抗から、フリースピーチムーブメントの主導者の一人となった。バークレーで。

だが、大学が、文化革命の拠点と化す様相を見るや、サール先生は大学の秩序の回復のため全勢力を傾けた。

日本では、学園紛争を解決したのは機動隊だったが。

あれやこれやでサール先生はほぼ書き終えた発話行為の本についての仕事を数年間全くできなかった。やっと著作を出版できたのは1969年、ウッドストック・ミュージック・フェスティバルでジミヘンがアメリカ国歌をフィードバックギターで演奏した年だった。

間の悪いことに、フランスのジャック・デリダと言う慇懃無礼なエスタブリッシュメント内部のガキの様式化された反抗モデルの実践家がサール先生に「論争」を挑んだことが、無知な日本の哲学界、思想界で、大変な評判になる本を生み出す最初のチャレンジが1971年に行われた。

イーグルスがリンダ・ロンシュタットのバックバンドから、独立しようとしていた頃で、1972年デビューする。
そのヒット曲はこんな感じだ

重苦しい気分を晴らそうと車を走らせる
ぼくは7人の女のことを思った
4人は金を貸してくれ、2人はぼくを恍惚させ
1人はただのお友達よと言った
気楽に行こうよ、気楽に
車のタイヤをきしませずにね
できるかぎり手を抜こうぜ
わかろうとなんかせずにね
ただ落ち着き先をみつけるだけさ、気楽に行こうぜ

さて、アリゾナ州のウィンスロウの街角に立っている
なんていい眺め
お、女の子、マイロード、乗っているのはフラットベッドフォード
スピード落としてぼくの方に来るじゃないか
カモン・ベイビー、メイビーなんて言わないで
君が愛しくれたらぼくは救われるとわかったのさ
ぼくらか勝つかもしれないし負けるかもしれない、二度と会うことはなくても
だからドアを開けて、乗り込むのさ、気楽に行こうぜ

さて、重苦しい気分を晴らそうと車を走らせる
心のなかはトラブルだらけ
ぼくのウソをバラさない恋人を探すが、それは難しいね
気楽に行こうぜ、お気楽に
車のタイヤのきしむ音に夢中になるなよ
カモン・ベイビー、メイビーなんて言わないで
君の愛がぼくを救ってくれると信じているよ


だからデリダ=サール論争の話は聞きたくないんだ。サールの発話行為は、オースチンの動詞フェティシズムにフレーゲ的に通言語的な形式化と分類を行ったものだ。コミュニケーションについての話じゃないんだよ。

こんな気分になる。堂々巡りという意味で。

真っ暗な砂漠のハイウェイ、風がぼくの長い髪をなびかす
甘い匂いのコリタスに、ぼくは酔いしれる
はるか向こうに、チカチカする明かりが見える
ぼくはアタマが痛くなり、目がかすむ
どっかで一晩泊まらなきゃ

ホテルの回廊に彼女は立っていた
教会の鐘が聞こえた気がする
ぼくは自問自答した
「ここは天国か地獄に違いない」
彼女はろうそくをつけ、部屋まで案内してくれる
回廊には声が響くのさ
こんなふうに聞こえたと思う

ホテル・カリフォルニアへようこそ
素敵な部屋、素敵なお客様
ホテル・カリフォルニアにはたくさんおお部屋をご用意
年中いつでも お部屋をご用意できます

彼女の心はティファニー的にひねくれていて、彼女はメルセデス的セクシーボディー
ハンサムな男たちを集めて、お友達なのと言う
どんなふうに彼らは中庭で踊るのか、甘い夏の汗
あるダンスは覚えてるけど、別のダンスは思い出せない

ぼくはキャプテンを呼びつけて
「ワインを持ってきてくれ」と言う
「私どもは1969年よりスピリッツを切らしております」と彼は言う
そしてまたあの声が遠くから聞こえる
真夜中に目を覚ますと
こう聞こえるんだ

ホテル・カリフォルニアへようこそ
素敵な部屋 素敵な人たち
みなさんずっとホテル・カリフォルニアに滞在してます
なんて素敵なサプライズ
アリバイもご提供いたします

天井の鏡
氷の中のピンクのシャンペン
「私たちはみな自分の罠の囚人なの」と彼女は言う
そして主人の部屋の饗宴に
みんなが集まる
奴らは鋭いナイフを突き立てるが
獣を殺すことすらできない

最後に覚えているのは、
出口に向かって走っていたこと
道を後戻りしなくてならない
前通った場所を見つけるため
「落ちつけよ」と警備員が言う
「私どもはお客様を受け付けるようプログラムされおります
お好きなときにチェックアウトはできますが
ここを出ることはおできになりません」


今、サール先生が、フーコーの生権力についてわざわざ一節割いて、論じているのだが、上のような話だ。
posted by Kose at 05:18| 評論

2015年11月12日

どのように脳科学はダメかについて

さて女性の性的サインの話の確からしさが高いと仮定する。
それでもあるサインは
1)低い確からしさで、そのサインではない他の文脈でのサインであり得る
2)そのサインであることを意図して行為をしている
3)おそらく文化的にそういうサインはある程度コード化されている。それは解釈が必要である。
女性が女性らしい化粧やファッションを「しなくてはならない」理由はこのような脳のサインを一般化して、サインであることの意味を失効させると解釈できる。これは前近代や公的場で性的サインを禁じていることの対偶である。
文化を超えて、そういうサインが普遍的に蓋然性が高いとしても、2)の場合、単に売春のお誘いかもしれない。もっとひどい場合は美人局かもしれない。個別にサインを誤解した場合、明らかにセクハラである。

「だって脳科学で話その身振りやしぐさは性的誘いのサインだって書いてあったんだぜ」

などと弁解しようものなら

「マニュアル男か、おまえ〜」

と言われるのが落ちである。まあそれでも、哀れな男の運命を決めるのにこれらの事情は十分条件ではない。
実はその女がマニュアル男萌えかもしれないからである。

だから、女たらし以外の男性は、脳科学の占い話を信じてはいけない。メディアは本当に批判的になるべきである。心理学者と脳科学者は、科学的権威主義者で、批判を知らない。あれだけ小保方晴子ボコボコにしたのなら、かなりの脳科学者がボコボコにされると思う。だがお仲間の与太話だからせいぜい批判されたのは川島隆太だけということだ。

「脳科学で女の幸せはセックスの後ってわかっているんだせ」

と職場で係長が言う。

「スカッとジャパン」で論破してほしい。

本当に脳科学の本はひどすぎるので、時が過ぎて、馬鹿げた脳科学が自然淘汰されるのを待ったほうが懸命である。

脳のことを知らなくても病的でない場合、脳はちゃんと働くように自然淘汰されているからである。脳科学はそのように淘汰されていない。
posted by Kose at 10:24| 評論

2015年11月11日

無責任な話 脳科学、認知心理学、数学基礎論やめだ

脳科学は、人工知能を否定していると思われる。人工知能は数学基礎論に基づく。認知科学―脳科学―人工知能=志向性+バックグラウンドである。志向性に対するバックグラウンドとして心理学を記述しないと無限後退が生じる。バックグラウンドには社会的なものもあるので、そのため心理学は後述の「女」のように占いみたいな話しにしかならない

脳の原理は、速度のために正確さを犠牲にするであって、これによって「アキレスは亀に追いつける」のである。

以上。


女性は気のある男にかならずサインを送ることによって性的に誘惑するのだそうだ。女性にとって一番の幸福はセックスをした後だそうだ。

男は気のない女にとらわれて、サインを見過ごし、セックスの射精でものすごく虚しくなる。くたびれるし。しかもすべての責任はことに及んだ男の方に押し付るときた。

日本の女子中高生の13%が援助交際しているというのは国連側が事実上撤回したらしい。
日本の女子中高生の13%が、性的搾取のリスクに晒されている可能性はなくはない。

というわけで、集めた本を図書館に返却して、明日からお仕事に集中する。
posted by Kose at 20:40| 評論

無責任な話:心理学=脳科学における無限後退

いや内観法否定は、不十分だね。
というのも、学者の記述も内観法だから。無限後退だよ。

脳科学は、心理学的解釈が必要だよね。見えているというのが、ただのニューロンの電流の生起でしかないというのなら。心理学的解釈が必要なら、デネットのゾンビ人間の思考実験は、学者にも適用できるよね。学者の解釈もニューロンの電流の生起でしかなく、学者の本を読んでいることもニューロンの電流で、デネットもニューロンの電流だということだ。
だから、内観法の否定とエビデンス主義は無限後退だということだ。
つまり公共的観察や再現性や一般化ができるとしたら、訓練された内観法、つまり学者の意識が必要だとおもえるんだよね。
そうでないなら再帰的なカテゴリーとしてのニューロンの電流が心理学だといかもしれない。学者にも必ずそのようなフィードバックがかかってないといけないわけだ。そのフィードバックを何らかの条件付け、現象学的条件付けでもいいけど、そういうニューロンのフィードバック装置になることについて心理学の本も脳科学本も一言も書いてないわけ。

ここでいきなりサール先生の大反論が起こるわけだ。
心理学=脳科学の研究でたいへん興味深い研究は多くて、面白いと思うよ。
でも心理学者=脳科学者の意識、少なくとも訓練された意識が肯定されていないと無限後退だよ。訓練された意識ができるなら、そもそも訓練されない意識はあるわけだよね。

そこでブントの内観法は、心理学者=脳科学者自身に適用されると結論される。そしてそれは素朴な意識から訓練されるので、少なくとも病的でない意識がなければならない。さらにごくありふれた意識は、病的でないなら誰でも報告可能である。この病的でない報告可能性が訓練された学者の内観法の報告の前提である。

はい、論破!

それは、たとえば磁気共鳴装置の画像の模様が見えているというようなことである。ラットの行動が見えているということである。これらも内観法の報告を前提にしている。

だから心理学=脳科学は、デネットがものすごく理想化した学問的像に反している。

だいたい顔のようなものが顔のように見えているのはおそらく、相貌失認の患者以外ではありふれた意識無いようである。このような重大なエビデンスをもたらす事例が、しばしば非常に特殊な脳の損傷の事例からの一般化なのは、素朴でありふれた意識内容とはっきりと病的に違うからだよね。そのような病的事例は、必ずしも高い再現性があるわけでなくても、重要なのはそういうことだ。これは人間の脳について再現的な実験が倫理的に不可能だから(だったら学者の脳も再現的に観察されなければならぬ無限後退に入る)。

さて要するにこのような馬鹿馬鹿しい科学論、哲学論争がすぐ生まれてしまうのは、素朴な意識を前提しないで科学があるというエセ科学主義のためだよね。物理学の場合は、存在論的に次元が異なるから、コペンハーゲン学派の議論以外で、意識が干渉することはないはずだ。もちろんよこしまか未熟な学者による誤った研究はあるだろうけれど、それは病的ではないよね。人間、そこそこよこしまか未熟である部分はなくし得ないからさ。

でもそれと心理学=脳研究における意識の科学的権力への意志による否定は、本当は無意味だよ。その方法論は、何ら興味深い研究に関与していない。おそらく有能な研究者が一例研究をすれば、基本的に、科学研究の必要条件は満たす。そして経験科学である以上十分条件には至らない。そして意識について意識抜きに解釈する見込みはそもそもない。もちろん何らかの無限後退に陥らない学者のニューロン制御装置が発明されるなら別だが。

う〜ん、3日間母がご機嫌斜めで、睡眠が浅くて、お仕事捗らない。今もどうしようもなくてお昼寝せざるをえなかった。そして目が覚めたら上の見解に達していた。これは睡眠で海馬がお仕事して記憶を整理整頓してくれたからだと思うよ。あくまでも思うのだ。
posted by Kose at 16:20| 評論

2015年11月07日

NHK報道首都圏―過剰反応社会???

ネットで炎上して、公のイベント(たいがい大したことはない)が苦境に陥ることを、過剰反応社会だと呼ぶのだそうだ、NHKの良識では。
*ちなみに番組がひどいので過剰反応したくなったくらいであるが、単にチャンネルを変えた。

ぼくが思うに、「小さなことに、大騒ぎする(炎上する)」というのは、もはやなれた話である。
それよりアリもしない出来事を報道する皆様のNHKとどっちがたちが悪いのだ?

一般的に言えば、役所仕事の広報が、無知で平均的コンプライアンスにかけているような発注を代理店などにしているケースでこの種の「小さなことに大騒ぎする」事例が集中しているようにみえる。

その典型が佐野研二郎五輪ロゴ事件である。

もしあれが平均以上にアピールするものだったら、そもそも議論にならなかったと思う。デキが悪いか、あくまで国民的行事にマッチすることを全面に出したデザインでないから、「誰もほとんど擁護しなかった」だけである。本質は。

過剰反応といえば五郎丸歩選手がトンカツ大好きを報道しまくるマスコミとどちらが過剰反応社会なのだろうか?その「小さなことで大騒ぎする」という点である。

だいたい報道首都圏はまあまあ、クローズアップ現代の首都圏版なのだが、その心理学者とか社会学者とか正体不明な学者、つまり専門分野が広すぎて一般人の恣意的解釈と区別できないことしか言えない学者の権威を借りる場合、酷いと思う。

たとえば心理学は今は認知心理学全盛で、脳研究と実証実験がメインの分野が中心である。過剰反応社会の背後に(社会)心理があるだろうから、心理学者のコメントを頂戴するというのは、明らかに時代遅れである。

エビデンスはどうなのよ。もし心理学社会学なら現状それがすべてである。

とにかく広告代理店の質の悪いコンテンツが悪いのである。もちろん大変良いコンテンツもある。たとえばフランス語に聞こえる方言のやつとか。

そのコンテンツの質相関的に過剰反応があるという論点なら受け入れられる。

たとえば志摩の萌えキャラが話題になった。作者が撤回したそうだが、あれは性的とかそういうことではない。

すでに「萌えキャラ」「ゆるキャラ」が陳腐化しつつあるのに未だにそれが、イケているかのような広告代理店のオファーのコンテンツとして違和感があるのである。つまりぼくの説だとあれは「痛キャラ」と呼ぶべきものなのである。

「萌えキャラ」か「痛キャラ」かの意見はまだ拮抗していると思うが、いずれにしても「陳腐」に過ぎないのである。

それは過剰反応社会の問題ではなく、コンテンツのクオリティとネットユーザーたちの意識のズレの問題にすぎないのだ。

心理学者にはわるいが「過剰反応社会」はありもしない現象を言葉だけで創出する、悪意に満ちた無能な学者のレッテル貼りである。

出家詐欺みたいなものである。

posted by Kose at 04:59| 評論

2015年11月04日

自動運転車はある種の路面鉄道になる

なんかテレビで公道での自動運転車の話をやっているのを見たが、最大限安全性を尊重しなくてはいけないとすれば、自動運転車はある種の路面電車と最終的に同じことにならざるをえないと判断した。
まあサール主義者だから最大限批判的だからそうなのだが、コスト面でもそうである。
たとえば自動車専用道路でなら、今自動車メーカーなどが想定している運転法もなくはない。
だがそれでももっともコストを抑えて安全性を担保するなら、路面に何か自動運転車の軌道を印刷してしまうのがもっとも合理的である。
メーカー、ディーラーはすべての事故の免責を行うだろう。
それでも故障の責任は製造物責任である。
だが自動運転軌道を道路に印刷する方式でも不測の事態はいくらでもあるので、スマホ歩き同様、自己の責任は搭乗者に帰せられるだろう。
搭乗者の注意を払わせないような自動運転車の場合、その事態は結局裁判でメーカー側にある程度帰責されることを最終的に免れないだろう。
したがって、自動運転自動車を認可した政府にも責任があるとみなされるだろう。
だから最大限その「機能」を活用したとしても、ある種の路面電車の域を出ない。
日産失敗だね。グーグルグラスみたいなもんだよ。
posted by Kose at 21:20| 評論

2015年11月03日

無責任な話 #7 哲学のフレームワーク

哲学のフレームワークというのはハイデガーやデリダが(ろくに読んでないが)、「形而上学」と言ったものだ。
形而上学というと、古臭いので哲学のフレームワークという呼ぶとかっこいいというだけである。

哲学のフレームワークは

1)A=〜A
*〜は論理における否定の記号である



2)+A=−A
*+と―はおれが導入した。+は能動、―は受動を意味する記号である。

正しくは+A(O)=―A(O)
かも知れない。Oは物ないし自体である。

A)デリダ的
1)は矛盾である。
この矛盾が西欧近代哲学のパワーの源泉である。
男=女
意味は無い。これは人のクラスで対立する項がひとしくなるという、運動を意味するようなメタファーである。あるは流行りの性的マイノリティを抽象化するメタファーかもしれない。デリダの多くはこう言うフレームワークに近い。
お金=贋金
でもよろしい。
これは矛盾でメタファーだから頭のぼんやりした文学部の世界では人気である。特定の意味はない。

B)懐疑論・観念論的
1)のもっとわかりにくい合理的に見えるメタファーである
主体=客体
理性=感覚
心=肉体
確かにA項と否定A項が一致する場合「哲学的問題の解決」に見える。
だがこれには解決がない。誤ってAと〜Aが対立しているというメタファーに訴えかけているからである。

C)+A=―A
能動受動のメタファーである。
Bと違って、同じ
主体=客体
としても
する=される
が一致するだけである。
分析哲学や現象学はこのレベルまで洗練されたと思う。ただ瑣末だというのが問題である。

D)対案
+A
 ―
−A

さて分数式にすると、そもそもAは不要になる
(+)
 ―
(−)

これがサール先生やウィトゲンシュタイン先生の命題と事態の対応の図式である。
相対主義的に
能動
――
受動

というメタファーで見られるかもしれないが

表象
↑↓
事態

である。ウィトゲンシュタインは↓だけである。サール=オースチンの発語内行為が↑だ。
サール先生の理論を静態的に書くと

志向性=心|脳
(表象) |
 ↓ ↑ |生物学 
(事態) |
物理的世界|身体

となっているように思われる。
A=〜Aのようなコケオドシはない。ほぼ生物学で解明尽くされているが、被験者の意識を実験者が意識するというような最終的なB)ないしC)の問題が残っている。
だが、意識を意識できるのはたとえば赤いものをやはり赤いものと被験者と実験者が見ているようにおもえるばあいである。

現象学のおそらく間違いは、意識に関する被験者と実験者(観察者件理論化)が個人の意識内部で分業できるというようなB)タイプを含意しているところにあると思われる

だがこれらは全部メタファーであり、研究に役立つ限りでフレームワークである。

フレームワークは意味は無い。なのでハイデがー、デリダのような形而上学批判は内容がない。

本当に無責任な思いつきで申し訳ない。
忘れないようにメモしただけである。
posted by Kose at 05:35| 評論

2015年11月01日

無責任な話#5 懐疑論の論駁完結編

さて

すべての真は偽である

がクレタ島のパラドクスの正体で、単に定義上のミスである。これを脚色するといろいろバージョンが作れるであろう。デカルトもその例である。

・すべての懐疑の思考は真である

だと単なるパラドクスになるため、

・すべての思考の否定の思考は真である

とする。思考の否定は誤りうる感覚であるという公理を入れる

・すべての誤りうる感覚の思考は真である

こうして思考が誤りうるとパラドクスになるため、思考から感覚を分離するために、感覚の否定が要請されるだけであるという結論になる。

これはデカルト、バークリー、ヒューム、カントにいたるまで同一の原理である。
なぜか?
人は神の似姿だからである。
よって、懐疑論は神を必要とする。神のない時代の懐疑論は空虚な内容のない(感覚のない)思考だけになる。後は神頼みである。
感覚は否定的何かではない。そして感覚について、観念、印象、直感、現象のような準実体は「必要ない」。

Q.E.D.

なんちって。

テレビの再視聴サイトいいね。
新垣結衣の「掟上今日子の備忘録」だけガッキーが可愛いので見たいのだけど、しばしば睡眠薬で寝落ちするが、視聴できる。
http://tver.jp/index.php
*ただし「掟上今日子」は日テレサイト上で配信なんだが。いい時代になったものだ。
http://cu.ntv.co.jp/

posted by Kose at 09:27| 評論

無責任な話#4

17世紀、デカルトはちょうど30年戦争、プロテスタントが結果的にローマ教会から政治的に自立して、たとえば彼が滞在した北ヨーロッパの中の商業資本主義ネーデルランドの初期ブルジョアジーが独立を勝ち取り、初期の国民国家が誕生した時期とみなせる。フェルナン・ブローデルやウォーランスティンは、マックス・ウェーバーに反対し、ネーデルランドが、合理的な投資資本主義の最初のヘゲモニーを握ったとみなす。有名な逸話では、ネーデルランドではなぜかトルコのチューリップの球根が投資対象になっていわゆるバブルを起こしたというのが知られている。なので英雄デカルトは彼の努力で「われ思うゆえにわれ有り」を樹立したかもしれないが。オランダは他の国とともに国民国家と初期資本主義を樹立していたのである。
国民国家というのは、西欧の国家が、属人的国家から法人格をもつ国家に変わったということである。
そういうわけで、「私たちが考えるなら私たちを包摂した国家が存在する」というような事態がデカルトは別に実在したという解釈ができないことはない。

さて、

すべての懐疑論的哲学を考えている限り、それは考えることを否定出来ない

というのは

「すべてのクレタ人はウソを言う」とあるクレタ人は言う

と似ている

この形式のパラドクスの一種である。
発話行為の形式で書くと

「すべての主張は偽である」と私は主張する

となる。まあそれが意味ないがのは、一般には陳述は真か偽であるため、すべての陳述が偽であるというのは定義に反しているだけである。まあだからパラドクスなんだが、記述の中のパラドクスと違って、他愛のないものとみていいだろう。

したがって、デカルトの主張は「考えが存在する」という部分は、さらに「考えるは真か偽である」と変形できる。
「「すべての陳述は偽である」と考える」のは真である

というのがデカルトの主張であるとみなせるとする。

さてクレタ人のパラドクスより、もう一段階手の込んだ、パラドクスのような見かけをもつ。
だが割と簡単に「すべての陳述は偽である」という懐疑論がそもそもパラドクスで無意味である・
そこでそれ「無意味である」を代入する

「無意味であると考えるの真である」

これでだいぶスッキリした。

「無意味なことを考えるのが真である」なら、「その考えは無意味である」が帰結するのが正しいと考えることができる。つまりデカルト反対に、

偽考えるわれ思うは偽である(無意味という意味で)

とも帰結できるようにおもえるのである。
前回「すべての思考実験」としたのはこの結論を回避するためであった。

したがって、たとえば感覚が欺くとのような思考実験は、仮に考えるに参照しないとするという限定を付けられるというようなことである。

だが、そもそも感覚から思考が自律しているという前提でのみこれは成り立つ。

ここから議論を短くするため飛躍するが

無内容な「考える」つねに真である

ということしか成り立たない。

そうではない。

考える内容により「考える」は真か偽である、つまり存在したり存在しなかったりする。
 *このような操作が微妙なのを認めるのに吝かではない。

詳しくは知らないのだが、これは伝統的論理学で、過程と所産の混同と呼ばれる偽の推論に該当するのじゃないかという疑念がある。

本来はデカルトが離脱する背景となる17世紀のだいぶ後期のスコラ哲学から拝借しているパラダイムを無視しているので、そこまで単純ではないとおもうが、「デカルトのコギト」のプラカードよりは真であると願いたいのである。

posted by Kose at 02:46| 評論