2016年02月20日

集団ヒステリーの実証 余談 フジテレビ&とくだね!の役割:STAP限定

STAP限定にするが、集団ヒステリーのすそ野を広げる、あるいは傷口に塩を塗り込む、溺れた奴に石を投げ笑いものにするのがフジテレビの全メディアでの特殊な役割。

一流紙朝日新聞・科学医療部記者、鍛治信太郎からみたフジテレビ。

「STAP疑惑」会見で朝日科学医療部記者が「少し頭痛がした」理由
http://dot.asahi.com/wa/2014031900005.html
 前回1月末の記者会見は、ほぼ科学系の記者だけだったが、今回は、ワイドショー、週刊誌、ネットメディアなども殺到し、会見の始まる2時間前から席取りの列ができるような騒ぎ。だが、意外だったのは、追及はするが、つるし上げや糾弾という雰囲気があまりなかったことだ。
 一番最初の質問はフジテレビで、「小保方さんは、今どちらで何をしているんですか?」と相変わらずの人気ぶり。「不正よりそっちが先か」と少し頭痛がした。ちなみに、小保方さんは、調査委員会の聞き取りを3回受けたが、現在は精神状態がよくないことなどから出勤していないという。・・・


小保方晴子4月記者会見記録から。
もっとも使いまわしされた例のパート
記者  改めて、小保方さんの口から聞かせてください。STAP細胞は有るんでしょうか、ないんでしょうか。
小保方  STAP細胞はあります。
記者はトクダネ!に当時所属していた大村正樹(いま「グッディ」)

『あの本』で初めて三木弁護士と記者クラブの間の取材自粛の条件としてこの会見が開かれたことがわかる(入院すでにしていたのではないか?医師同伴だったそうだ)。報道陣はそれを明示しなかった。この発言はほとんど終わりのほうで、たまたま子供っぽい口調になったのをさんざん揚げ足を取られることになったことは本には書かれていない。

『あの本』で、小保方晴子氏が検証実験中、ほとんどメディアへの露出がなくなったころ、彼女が髪を短くするため美容室から出てきたところを撮影され、恐怖心を抱いた胸の文章があるが、それもフジテレビとくだね!の取材クルーで、とくだね!は何度もその後小保方話の際に使いまわし。

小保方晴子氏のパロディをめちゃイケで放送予告して、三木弁護士に怒られる・・・
 もう「めちゃイケ」何やっているのかも知らんけど、番組を改変できないフジテレビ症候群の一つだな。

げすだね!
posted by Kose at 19:54| 評論

2016年02月19日

集団ヒステリーの実証 2 須田桃子の場合 1

須田桃子は、当たり前だといえば当たり前だが、毎日新聞で震災時の記事をしばしば書いている。

つぎは震災直後の純粋に地震学の抑制の効いた取材記事である。まあ、後知恵では、三つのプレートが連続的に崩壊するという特異な現象が、一生涯で何度もあることは「ない」と考えるのが普通だと思うが、当時は、「不安」を相手に記事を書いているため、非科学的に「ありえる」としか新聞は書けなかった(富士山の噴火すら報道していた東京新聞のようなデタラメすら横行していたくらいだからね)。藤原淳登の場合は、原発の低レベルの敷地内の汚水を生み出しても危険性はないとおそらく主張した。
<東日本大震災>いつまで続く余震 半年は警戒
毎日新聞 4月14日(木)11時14分配信
 東日本大震災後もマグニチュード(M)7クラスの余震が相次ぎ、14日午前8時現在5回を観測している。大きな地震が起きると岩盤が不安定な状態となる。それを解消するために周辺で起きる、最初の地震より小さな地震を一般的に余震と呼ぶ。時間がたつほど回数は減るが、本震の規模が大きいほど期間は長くなる。M9級の巨大地震は日本では未知で、余震がいつまで続くのか、専門家でも明確な答えはない。
 政府の地震調査委員会の阿部勝征委員長は、11日の会見で「M9.0の超巨大地震が、今後どういう推移をたどって余震が減るか分からない。1、2カ月ではなくて半年程度は様子をみないといけない」と述べた。同委は、東日本沖の長さ500キロの余震域以外でも、房総沖などの海域でM7〜8級の地震が誘発される可能性があるとしている。
 過去に世界で起きたM9級の地震の余震活動はいつまで続いたのか。東京大地震研究所によると、東日本大震災の本震と同じプレート境界型のスマトラ沖大地震(04年12月、M9.1)の場合、これまでM7以上の余震が6回発生し、直近では本震の5年半後にM7.5の余震が起きた。余震域の外でも、本震の3カ月後には同じプレート境界沿いでM8.6の地震が発生した。地震研は「余震かどうかの見解は分かれるが、04年12月の影響を受けたことは否めない」とする。一方、1960年のチリ地震(M9.5)ではM7を超える余震は本震後1カ月に3回起きただけだった。
 いつ起きてもおかしくないとされる東海地震などへの影響はないのだろうか。名古屋大の田所敬一准教授(地震学)は「3月11日の地震が引き金となって東海、東南海地震が近付くという影響はほとんどない」と話す。
 田所准教授は東日本大震災の本震で、東海、東南海地震の発生が想定されるプレート境界で地震が起きる力が増したか試算した。その結果、今回の地震で加わった力は、東海地震が約100年に1度発生するまでにためるエネルギー量の0.1%程度だった。田所准教授は「今回の地震が引き金にならなくても、東海、東南海地震はいずれ起こる。さらに備えをしてほしい」と話す。
 島崎邦彦・東京大名誉教授(地震学)は終戦前後の1940年代に東南海地震(44年、M7.9)▽三河地震(45年、M6.8)▽南海地震(46年、M8.0)▽福井地震(48年、M7.1)など被害を伴う大きな地震が連続したことを例に、「大きな地震が連発することは過去に何度もあった。同様なことが今後あってもおかしくない」と注意を促す。【八田浩輔、須田桃子


まだ正義によって頭がおかしくなっている状態ではない。
翌年の福島の児童の甲状腺の問題をあつかった記事である。甲状腺の異常は、低レベルの被ばくをしていてもしなくても変わりがないということを「不安」を相手に説明しろという、科学的には正しいが、心理学的に無茶な正論を書いている。これは藤原淳登が、原発事故敷地内の低レベル汚染水の外洋への放出が、無害であることを「不安」に向けて説明しようとしたのと同じタイプの空しい記事である。

クローズアップ2012:福島・子供の甲状腺検査 説明不足、不安招く
毎日新聞 2012年08月26日 東京朝刊
 「子供の健康を見守り、安心してもらうため」として福島県が無料で実施している18歳以下の甲状腺検査に、保護者の不安が募っている。セカンドオピニオンを求めて県外の病院を受診する人も続出。背景には結果に関する県の説明不足がある。【須田桃子、鈴木泰広、坂井友子】
・・・(以下略)・・・


不安に対して科学的説明が無力かについて、藤原淳登も須田桃子もジレンマを感じたに違いない。
しかし精神医学的知識があれば、たとえば学校などでの自殺や殺人事件のとき、何をすべきか理解できたはずである。つまりケアが必要なのであって、時間的経過を見ながら、ショックに基づく不安が自然に減衰するのに合わせて、妥当な知識を現実の一部として受け入れてもらうほかないのである。

この二人はそれを理解していなかったと思われる。あくまで不安を科学的知識で取り除けるというスタンスである。

今は推測だが、二人は科学記事の無力を感じ、ネットなどでの「安全神話」のねつ造者側の人間として非難を浴びた可能性がある。

地震学はまあ適当なインチキ科学だが、放射線は極めて正確な科学のほうに属する。

その極めて正確だし、理解もそんな難しくない科学が「一般大衆」には通じないのだ。
一般大衆に向けて「非存在の証明」を行おうとしていたのだ。

須田桃子についてはもっと記事があるので、彼女が、阿呆な一般大衆と科学の板挟みになる状況は調べられると思う。

まだ結論なしなので「須田桃子の場合 1」である。
posted by Kose at 18:50| 評論

2016年02月17日

集団ヒステリーの実証 ネット条件分析 一部訂正

初期条件として、ツイッターの普及が、便所の落書きの集団ヒステリーへの変貌に直接反映していると思われる。
なぜツイッターなのかというと、震災時帰宅困難者の数少ないツールとして一躍注目された事実があるからである。

被災地での勘違いアマチュア・ボランティア野郎のツールもツイッターだった。
ぼくも被災地の人の相談に乗ったことがあるし、津田大輔が「ジャーナリズムは終わった、これからは芸術文化アート」だというツイートをしたのに、「芸術文化アート」では「間口広すぎだろう」というツイートをしたのを覚えている。津田大輔は今はフジテレビのジャーナリストだから、なおさら笑えるが。芸術=アートだし、ドイツ語のクルトゥールは、英語のハイカルチャーのことだ。だからほとんど同義語である。

そういうわけで、震災がツイッター人気の火付け役だが、その時点ではそれほど腹黒いツールではなかったが、2012年頃から西村博之の影響力が低下して、まとめサイトとの争いの末、2014年2chから西村博之が追放されたあと、ツイッターが便所の落書きの発表場所に変貌した。スマホの普及も強く関係しているかもしれない。

STAP細胞事件は、おそらく2chといくつかの個人ページが、告発の場所だったと思う。まだこの時点(2014年)ではツイッターは主要な舞台ではなかった。だが頭の悪い大隅典子が、最初の画像不正の告発サイトにツイッターからリンクをしていたのをこの目にしたときにはびっくりして、心が猿岩石になった。おばさんすぎてリテラシーがないのだ。

現状いわゆる捜査班が2chで、拡散はツイッターというのが現在の姿だろう。

都議会セクハラやじ事件あたりでツイッターの拡散力がはっきり認識できた。ちなみに津田大輔はバカだから、都議会のセクハラ問題の集会に参加している。アートはどこ行ったんだよ?

ツイッターがヒステリー力を見せつけたのが、エンブレム事件だ。あっという間に、パクリ元画像がツイッターで拡散された。それはたまたまGoogle画像検索がリリースされた時期と重なったというのもあったのだが。

シールズがどうやってできたのかは全然知らないし知りたくもないのだが、現場の集会に関してはミクシィやフェースブックのほうが有効なツールなんだろう。なので左翼系つまり、反原発とかカウンターとか国会デモとかについては何も情報がない。

ツイッターはどうも国際的に商売がうまくいっていないらしく、今後衰退が予想される。日本じゃ、表通りの便所の落書きといった感じだ。裏通りの便所は当然2chだ。

そういうわけで割と短期間にネットインフラは変わる可能性があることも分析条件に加えるべきだということになる。
posted by Kose at 20:35| 評論

集団ヒステリーの実証1

あまりに簡単で拍子抜けしたが、NHKの原発事故の本のライターとSTAP騒動の記者は同一人物であった。原発事故の本は次のとおりである。

緊急解説!
福島第一原発事故と放射線
水野倫之 山崎淑行 藤原淳登
「福島第一原発」で何が起きたのか?
それは収束するのか?
放射線の影響は大丈夫なのか?
そもそも、なぜ原発だったのか――。
原発事故発生直後から不眠不休の解説を続けた
NHKの解説委員と記者だからこそ書けた"事故"の真相と深層。

藤原淳登(ふじわら・あつと)
著者写真 1973年生まれ。NHK名古屋放送局記者。京都大学法学部卒業。医療問題や食の安全などの取材に取り組む。

「正しく恐れる」ための1冊
 大地震から早3か月。しかし、福島第一原発の事故は、いまだ収束する気配がありません。
 本書は、レベル7というチェルノブイリと同等の、史上最悪の原発事故となった「福島第一原発事故」を振り返りながら、どうして事故が起きたか、どうして日本は原発を進めてきたのか、そして、今後日本の原発はどうなっていくのかを、平易な文章でまとめた「原発」基本書です。
 著書は、NHKの原発事故解説でおなじみの、水野倫之解説委員と山崎淑行記者、それに放射線の健康への影響については藤原淳登記者。ネット上でも話題の彼らが、ニュースでは伝えきれない「思い」を、ときにじっくり、ときに舌鋒鋭く伝えた1冊になっています。
 彼らが今回の事故に際してキーワードとしたのが、「正しく恐れる」。原発を知り、放射線を知り、正しい情報を知った上で、自分なりの判断を下すことが大事だと、彼らは繰り返します。そのための正しい情報を、わかりやすく伝えるのが自分たちの仕事だとも。
 震災後、季刊誌『放送文化』2011年夏号で特集「東日本大震災 そのときメディアは」を担当し、引き続いてこの本を担当しました。震災関連の編集が続いたわけですが、メディアで働く自分は、はたしてどれほど「きちんと伝えられているのか」、そんなことを考えながらの編集作業となりました。
(NHK出版 滝沢浩史)


内容は読んでないのでともかく、「シーベルト」だの「ベクレル」だの混乱させた一連のNHKのニュースの直後に書かれたものらしい。

この原発事故の「法学部」的正義感を藤原記者は、STAP細胞に持ち込んだのだ。『あの日』に実名があげられている。小保方さんの携帯電話番号を手に入れて取材したストーカー野郎である。

たった一人のこの記者が、どれだけ日本の世論形成をゆがめたか想像もできない。

これは単なる事実。仮説は、震災後ある種の悪循環で世論が暴走するということだ。なかなかメディアの役割は特定しにくいが、こいつは珍しく特定できたということだ。

別に「ブラタモリ」以外NHK見ないから、俺は世論の歪曲にNHKがどう関与しようと知ったことではないんだが。

追加

ネット上で確かめられるのは、海洋生物へのセシウム放射性物質の影響に関する記事だけだった。
posted by Kose at 18:03| 評論

2016年02月16日

震災以降の集団ヒステリー

のようなものを研究するのが社会学である。試しにざあっと書いてみる。

1.震災以前はネット世論は、ネトウヨのヘイトスピーチ程度のまあ便所の落書き程度であった。要するに良識が少しでもあれば、公然と近づきたくはないものだった。

2.震災で明らかにビクター・ターナーによる「リミナリティ」が日本社会に生じた。もちろん大半の国民は、3か月程度で日常に戻ったのだが、NHKの東北運動というべき偽善派と(今でもまだやっているくらいゆるぎない正義感がある)、反原発の反体制派が生まれた。両方とも何かにコミットするのが正義だという彼らの実存的な感情が制度外に常に凝集解体を繰り返す「体制外社会制度」となったもので実は、東北の被災者がどうだろうと、原発がどうだろうと、関係がないことが次第に明らかになる。

3.特徴的なのは地震と原発事故で、科学者専門家がそのような体制外社会制度に果たしうる役割のモデルを作ったことである。

4.これに該当する運動体はイデオロギーと関係がない。危険や不正の「確率がゼロではない」ならそれをバッシングするのが正義だというのが特徴である。「確率はゼロではない」の音頭を取るのが専門家である。

5.どんな運動体があったのかよく思い出せないのだが、STAP細胞騒動は震災一年後に現れた顕著なバージョンである。この音頭は、日本分生物学会長大隅典子がとった。彼女が東北大学所属であるのは偶然でないと思われる。
東北は当時の雰囲気では「正義」だった。NHKは前年前半に「あまちゃん」、大河ドラマは主役が無名のシリーズの「八重の桜」を1年間流し続けたようにである。籾井会長の関与は不明だ。会長になった直後に騒動が起こったが、会長自身がまた騒動の種だったから。本当にNHKわかりにくすぎる。

6.それ以外は、たとえば都議会のセクハラなんかは現在の言葉で言うとゲスの極みだけでしかなかった。新国立競技場白紙撤回がよく似た現象だった。エンブレム騒動がネットだけの炎上だったのとは異なる(広告代理店政治によってデザイナー界は分断されていたのだと思う)。新国立競技場では日本建築家協会というわけのわからん団体がSTAPをまねて登場した。どうせどんなものができようとほとんどの国民は関心の持ちようがないものに正義や不正義があるようにみえるとは、実に専門的な生物学の基礎研究にほとんどの国民が関心の持ちようがないところまで似ている。
共通するのは、税金が投入されている点一点だけである。

7.これが左翼展開したのが安保法制騒動である。あれが何かまじめな正義に関するものと思った国谷裕子や古舘一郎は、いわゆる55年体制における護憲=正義が自明の世代だったため、お役御免となった。国谷裕子、1957生まれ、古舘一郎、1954生まれである。おそらく安保法制デモの主体は、団塊の世代である。リタイアしているから暇で、反原発のとき、60年安保の青春がよみがえったのである。今度は憲法学者のアンケートというのが5、6の専門家の役割を担った。誰もよくわからない「立憲主義」といえば正義になった。そして、このような震災後の集団ヒステリーによって、民主党のような野党を崩壊させるほど「体制外社会制度」の魔力は強い。

8.今年に入っての芸能ネタも集団ヒステリーだが、専門家集団が絡まないので無害である。もう民放の無節操さはひどいの極致である。文春のスクープの所為で2日間と続けて騒げない始末である。俺も今年何が起こったか全然思えていない。ゲスと清原と・・・・

さて『あの本』で問題にされたのはゲスなNHKと毎日だけだったが実はこのように震災後に集団ヒステリーをリストアップすると単独の騒動ではないことがわかってもらえるだろうか?

専門家集団は結局大隅典子や、槙文彦のようなボス政治が横行していることを証明するので、政府、メディアに加えて、それより弱いが、「可能性はゼロではない」を保証するもう一つの権力ところであるといえる。

という仮説だ。どう?

posted by Kose at 18:47| 評論

2016年01月15日

すまっぷ過剰評価の統計社会学

本当に過剰評価が多い。それは彼らが「団塊ジュニア」ど真ん中だからである。下の人口統計を見れば一目瞭然である。
テレビの視聴率は、この人口の世代比にもろに影響を受け、なおかつ若年層が圧倒的に少ないため、テレビ上では、スマップは過剰に高く評価される傾向があるのであるし、テレビ局もこの層を疎んじられないのである。
朝のバラエティ番組の場合は、この層を無視できるので、本物のアイドルを取り上げる。
だが夜夕食が終わった後は、この層に向けて作る。
フジテレビのあほみたいな恋愛ドラマが数字をとれないのは、テレビの前には40前後おじさんおばさんがたくさんいるからである。
いったい40歳前後のおじさんおばさんがきゅんきゅんする恋愛ドラマが何なのか俺には想像できないし、テレビも映画も、コミックやライトノベルを使うからそれをなんでテレビや映画でやる必要あんねんということになる。
ぼくは世代論は一切取らないが、団塊世代が作った循環(25年程度)がかなり目に見えない形で世論形成に影響を及ぼしていると考える。
団塊ジュニアは、要するにネトウヨである。なんでだか知らないが、彼らはネトウヨなのである。声が大きいのだ(数が多いのだ)。彼らは多数派だと信じているが、それは本当に数が多い、比率が多いことが、同調圧力で完全多数だと信じるという作用が働いていると思う。
すまっぷの過剰評価もネトウヨの多数派神話と同じであるといえるだろう。
木村、中居は団塊ジュニア、ど真ん中である。他はそれより若干年下である。平均年齢は41.5歳である。
すまっぷが40歳でアイドルかよ、と彼らを同情したが、彼らの人気を支える世代が同じなのである。
アラシの平均年齢は33歳である。33歳でも十分アイドルとしてはいい年していると思うが、先輩すまっぷがいるからまだ今のところ4〜5年問題は起きないだろう。
彼らの事務所もテレビ局も「失われた20年」の個人消費低迷によって、彼らのような、ふなっしー同様あまり価値のないものでも、ないよりはあったほうがいいから相対的に人気が高いだけに過ぎないことを見過ごし、彼らが年を取るという人気産業としてはかなり致命的な問題を見過ごしたのだ。
しかもその間にCDから配信へのシフトがあった。すまっぷが配信に対応できなかったのはおそらく確かだろう。AKB並みにNHKのお力添えがないと歌はもう難しい。
女性はアイドルでなくても実力のある歌手や俳優でも、年齢の問題はシビアであろう。
だから事務所やテレビ局は問題を処理したとしても、続々問題が起こるのであることを学ぶ機会とすべきであろうと忠告することができる。
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posted by Kose at 20:31| 評論

2016年01月13日

古市、先生に怒られる

古市「ハーフは劣化早い」発言を指導教員が痛烈批判 「明らかな差別発言」「『製造物責任』が問われかねない」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160108-00000004-jct-soci

なんだこのレベルの低さは。
コンビニの従業員のバカッターと同じ程度だろう。

『絶望の国』の論評で書いたが、彼は「問題」が客観的だという認識がなく、概念操作をすると問題がなくなるという論法を使う。デリダとは真逆だな。デリダも同程度だとも言っているのだが。何もないところに概念を操作して問題を作るのがデリダだから。デリダ学者が古市と同程度とされたら起こるだろうな。

真理の対応説が証明できるのか、俺にはわからないが、間主観的認識が収れんするのは、客観的事態がある場合に限る。

ハーフは劣化するのが早い

かどうかは知らん。ハーフの人にあったことがほとんどないかなら。古市がハーフと言っているとき、あからさまに白人系日本人のことを言っているは明らかだ。

ちまたにはたぶん中国朝鮮系日本人はたいへん多いと思うし、日本語が自然なら絶対にわからない。

なぜなら日本人は、縄文時代を別にすれば、中国朝鮮移民だからだ。これはDNA的に証明済みである。右翼がなんと考えようとそんなものは非科学的である。

オコエ瑠偉など、黒人系日本人は劣化が早いのか?あとどれだけバリエーションを分析の前にサンプリングすればいいんだ?

ちなみに俺の北カリフォルニアの甥ふたりは日系韓国系アメリカ人である。
アメリカのアメリカ人の劣化が早いのはたぶん本当である。白人も、黒人も、アジア系も、たぶんヒスパニックも関係ない。
20代初期を過ぎるとものすごく太ることが多い。甥も例外ではない。
そういうわけで、コカ・コーラゼロを甥を飲むのだが、今更おそいほど肥えている。
これらはアメリカのファストフード食文化の問題だから、アメリカ人は劣化が早いというのはさらに分析可能である。
日本のアメリカ系が太りやすいかどうかは調査がない。

古市に分析も調査もない。
思いつきをそのまま口に出す。

社会学ゼミだから指導教員が、社会学はどのディシプリンよりもジェンダーやエスニイシティをまさに扱う学問だから、看過できなかったのであろう。

ジェンダーやエスニシティ―についてのリベラルな主張にはもちろん反対である。アメリカがその手の政治的要求でディシプリンが混乱していることはサール先生書いていたな。そんなものに自由で合理的な解決はない。とつぜん歴史的構成が変わると思うが、予測は不能である。
ムスリムへの悪感情が高まっているが、ジェンダーやエスニシティ―をやっている社会学者はムスリムについてはどうなのか?
カリフォルニア大学バークレー校ムスリム研究センターあるいはアラブ研究センターを作るべきなのか?
東大はどうなのか?
同志社は、例の中田とかいう自称ムスリム法学者を輩出したがね。

だがセンシブルなのは確かである。センシブルなのが「現実」なのである。だからセンシブルな現実を調査分析するのが社会学の仕事である。

古市は社会学無理である。
posted by Kose at 06:06| 評論

2015年12月25日

古舘問題

古舘の番組はもう10年前から一切見ていない。
彼は政治音痴なんだよね。
彼は報道は反権力じゃなきゃいけないと言っているらしいけど、これがその60年安保時代の政治認識なんだよね。
しかし彼は61歳だから多少70年代の学生運動の末期は経験しているかもしれないが、彼が世に出たのは80年代日本経済絶好調の軽チヤーの時代なのさ。
このカルチヤーの時代に反権力なんて概念はなかったよ。たしかに浅田彰が反権力の無政府主義思想をアカデミックに流布した時代ではあるけれど。
当然もし古舘に政治意識が連綿とあったなら、昭和天皇崩御や旧ソビエト崩壊で、左右の軸が「本当は」変化したことに敏感であるべきだったんだ。だれもなんかポストモダンで、旧ソ連の崩壊は軽チヤーの勝利だと気分が1990年代にはあった。
古舘が例の番組のキャスターになったのは2000年代のことらしいから、彼は軽チヤー頭のまま、報道は反権力じゃなくちゃいけないという教条主義にとらわれたんだ。
「反権力」勢力は主に朝日ジャナーナル系のライターが使ったジャーゴンなんだ。
権力=悪。
これは水戸黄門もまっつぁおだよ。
権力の乱用や権力の腐敗はある。だから批判的、ないし懐疑的でなければならない。だが政府だけに限らず、実質的権力を行使する機関についてもやはり批判的ないし懐疑的でなければならない。その中に明らかにテレビや新聞があるんだよ。
でもそれは批判や懐疑で反権力という名の反政府活動じゃないからね。
そして批判や懐疑は事実に基づかなければ、準権力としてのマスメディアの恣意的利用とみられてしょうがない。
要するに、冷戦終結後の「アンチ」というスタンスは実は1990年代になくなっており、そして誰も発見していないんだ。

安倍政権は社会主義政権かと思うほど、市場介入するし、社会政策に予算を割くし、そういう面とアメリカからの安全保障の要請と、自民党主流派を抑えるための右派イデオロギーへのコミットメント(国際協調主義の名のもとにバランスをとってだが)と政権がやっていることは、多岐にわたる。
だからそれを「反権力」でひとくくりにするような古舘の頭では処理できなかったわけだ。
実際テレビ朝日や、TBSも、冷戦以降の自民党政治批判的な軸というものを更新できなかった。
もっとひどいのは悲惨な民主党だが。
グローバリゼーションの急速な進展とナショナリズムの動揺のなかで「批判的懐疑的」軸すら僕には疑わしい。それを朝日新聞や毎日新聞の惰性の反権力主義を背負ったテレビジャーナリストは厳しいよ。

安保法制は、1)アメリカ安全保障の中国リスクへの対応を政府が暗に迫られていた、2)自民党は、広範な保守勢力とのんびり改憲に手を付けたかった。3)9条墨守の55年体制以来の「反権力」の象徴である安保問題で確かに勇み足はあった。あったが、明日戦争になることはないが、しかし改憲への道程は非常に遅くなったと思われる。1が確実なのは日本の安保法制後、アメリカが直ちに航行の自由作戦に入ったことがあげられる。あのナマの武力の抑止力を見た後憲法9条派は何を思うや。

だからテレビは権力なんだということが古舘が分かっておらず、AKBをでっちあげることができるくらい、反安保運動をプロモーションする能力があるということだ。だが政府の権力は恒久的だが、テレビの権力は影響する時間が恐ろしく短いんだ。

あほな評論家やコメンテーターにそこら辺のおばちゃんと同レベルの意見を言わせるすべての情報ニュース番組は、世論調査による民意の操作でないと言えるのかね。

だったら古舘がやめるべきかどうかの世論調査に従って、彼は身の振り方を決めるべきだったな。
posted by Kose at 21:27| 評論

2015年11月15日

死んじまえば無限責任会社

中山元ひどい。

少し『真理とディスクール』見てみた。

p11.

ジョン・サールは「言語行為」という概念で、オースティンは「言語遂行的発言的発言」(パフォーマティブ・アタランス)という概念で、発話の語用論的な分析を提示しましたね。これに習って「発話行為」という概念で、パレーシア的な発言と語られたことに対する方ありての姿勢には、通常とは異なる関係が有ることを強調したいと思います。これからご説明しますが、パレーシアでは、語られたことに対する語り手の姿勢は、特定の社会的な状況に、語り手と聞き手の地位の違いに結びついているのです。パレーシアステースは、自分にとって危険なことを語るのであり。あるリスクを引き受けるのです。

訳注[5] サール(1932)〜とオースティン(1911〜1960)はどちらもイギリスの哲学者でオックスフォード日常言語学派の中心的人文。アリストテレス以来、フレーゲに至る言語哲学では、命題とその真に考察の重点を置いてきたが、日常言語学派は、言葉の用法について、言葉を語ることの外的な意味についての語用論的な考察に力を入れる。オースティンの言語遂行的発言は「ここに開会を宣言します」のように発言が事実を確認するものではなく、ひとつの行為を遂行する結果を生む発言である。


中山元、残念だが誤解も甚だしい。パリで死ねばよかったのに。
単純にサール先生は、アメリカ人でオックスフォードで学位をとった、現UCバークレー校哲学科教授である。
サール先生は日常言語学派を名乗ったことがない。たまたまチューターがストローソンで、オースティンの講義は退屈で関心があまりなかったということである。
サール先生が「言語行為」という言葉を使用したことはないはずである。それは単に邦訳の言葉であり、元は、そしてつねにSpeech Actである。つまり発話行為である。オースティンもサール先生も発話行為の研究をしたのであって、オースティンに帰されることは「発語内行為」(イロキューショナリー・アクト)を「発語媒介媒介行為(パーロキューショナリー・アクト)から峻別した点にすべてある。オースティンがあまりに辞書的な遂行動詞の列挙に流れている点を、サール先生が、that節を伴う5つのタイプの発話行為に整理したというくらいは整理しないとばかみたいである。デリダ並みの頭の悪さである。
「言葉の用法について、言葉を語ることの外的な意味についての語用論的な考察に力を入れる」なんてデタラメもいいところである。「語ることに内的な力を分析することに力を入れる」である。

フーコーの引用はわからない。おそらくSpeech Actとperformative utteranceをそれぞれに誤解して配分したのだろう。日本語で言うとSpeechとutteranceは、文脈によって同じ「発話」か、文脈によって後者が「発語」となる。よくわからないが、フーコーの言う発話行為のリスクが、発話行為のコミットメントと同じならサール先生と、フーコーに違いはない。

発語内的力についてはもっと先に、ユルゲン・ハーバーマスが「理想的発話状況」の提起でドイツ語でも使っているほぼ20世紀後半の常識のうちに入ると思うのだが。フーコーなんかかやっているとどれだけ視野が狭くなるかの例である。

それにしてもフーコーの衒学趣味は、単にフランス哲学の文学性による蒙昧主義にとどまらないね。やはりおもいっきり西欧中主義の二度目のルネサンスでもやりたかったとしか思えない。

やれやれ。


the beatles "all you need is love" 投稿者 miklo
posted by Kose at 20:25| 評論

サール先生おそらくUCバークレーにフーコーを招聘

ミシェル・フーコー『真理とディスクール ― パレーシア講義』筑摩書房、2002年

と言う本があるが、これはUCバークレー校、つまりサール先生の職場での、1983年6回行われた連続講義をまとめたものである。内容のほとんどは、ギリシア古典の解釈で、まあ、読めと言われても、哲学史家以外のマイナーな専門家には煮ても焼いても食えないしろものである。そういうやり方なら「子供っぽい」って思われないだろうからね。

パレーシアは英語で言えばフリー・スピーチと重なる部分が多い。もちろんサール先生が、学園紛争の時関わったフリー・スピーチ・ムーブメントのそれに引っ掛けているかもしれない。

役者の中山元の解説で、フーコーがウィトゲンシュタインの言語ゲームやオースチンの発話行為に関心をもった風のことを書いているが、ほぼその両者の遺産相続人の有力者のひとり、ジョン・サールがおそらくそこにいたであろうことに気づかないまま、中山元もフーコーも言及しないで他界してしまった。

本文はハイデガー級に煮ても焼いても食えない者だから結論部分の一部だけ引用する。

「真理を語ることができるものは誰か」「誰かが真理を語るものとして登場し、そして他者から真理を語るものとみなされるためには、どのような道徳的、倫理的、霊的な条件が必要か」「真理を語るために重要なテーマはなにか、世界についてか、自然についてか、霊的な条件についてか」「真理を語ることはどのような結果をもたらすか」「真理を語ることは、ポリスにとって、ポリスの支配者にとって、個人にとって、どのような好ましい効果がもたらされると期待できるか」。
 そして最後に「真理を語る活動と権力の行使の間にはどのような関係があるか」「真理を語る行為者、権力の行使と一致して行われるべきなのか、それとも全く独立した別の活動として行われる必要があるのか」「真理を語ることと権力の光子は分離できるのか、それとも互いに相手を必要とするのか」…


この中山元の安直な訳、あるいはフーコー自身のジャーゴンである「真理」を「真」と「権力」を単に[力」とする。少なくとも英語では同じである。

真理を語る活動と権力の行使の間にはどのような関係があるか」
を語る活動との行使の間にはどのような関係があるのか」

これがサール先生がさんざん行ってきたことと何の違いがあるのか理解不能である。あるいは中山元ら現象学者らの猛烈な不勉強のせいなのかわからないが。

また引用符の中で「何か」より、むしろ「どのように」と分析的に問う部分のほうが多いことはすぐ気づく。

したがって、最晩年フーコーは遅ればせながら、分析哲学に転向したし、おそらくサール先生に負うところは大であろう。甘ったるい大陸の観念論の夢のなかに未だいる哲学者には理解困難なのである。またフーコーも臆面もなく、いままで間違いでしたとはいえなかったので、遠回しにギリシア古典の話をしたということだろう。

フーコーが自分は現在の禿の王様だと言って、命題か比喩かは発話者によって変わるくらいの冗談を言ってくれれば少しは信用したかもしれないが、時既に遅しだ。おそらく翌年他界する。
posted by Kose at 15:08| 評論