2011年02月08日

国民国家の誕生:南スーダン

南スーダンと北スーダンの分裂は、世紀をさかのぼること約200年。
1821年エジプトのムハンマド・アリー朝のイスマーイール・パシャにより後のスーダン北部が征服された。その後エジプトがイギリスの植民地になったため、実質イギリス植民地である。西部ダルフールは含まれていなかった。

ポイントは、それ以前に歴史的スーダン(サブサハラの黒人地域全部だがまあサヘル=サバンナ地帯を一般に言う)にはサルタン国や王国はあったが、近代的な国境を有する国民的政治統合がなかったということである。

それ以前はおそらくハルツームより南部のセンナール・サルタン国が支配的であったのかもしれないが、センナールよりおそらくダルフール・サルタン国の方が盛んであった可能性が高い。

もちろんナイル河に対する治水技術が乏しいというのもあったのかもしれない。

エジプトとスーダンの国境は遅くともヌビア人とエジプト人の間で確固としてあったため、エジプトと現スーダンの国境は非常に古いものである。

またダルフールをアングロエジプト植民地が征服できなかったことにより、ダルフール国境が同時に近代的になったということも言えるのである。

しかしダルフール地方内は、ダルフール王国内と南北遊牧民支配地域とに分かれていたので、ダルフールが民族的に統一性があるとは言えないのである。

さて、1883年マフディ国が植民地に対する反乱で建設された時も、スーダン北部の減少であったのである。この時ダルフールの独立が反乱軍により脅かされ、それと近代化の開始でダルフール王国は衰退に向かう。

そして1898年マフディ国が破れ、1899年エジプト・トルコの植民地下に置かれ、新植民地は南部も統治下に置く。

南部スーダンが政治的統合内に入ったのはこの時点である。北スーダン独立国がスーダン南部を併合したのではないのである。
南北スーダンを統一化したのはイギリスの植民地政策だった。

アメリカの奴隷解放宣言(1863)19世紀末までに国際的(西欧的)に奴隷禁止が一般化した。これがスーダンでは皮肉な結果を招くことを明示する必要があるであろう。スーダンでも奴隷は禁じられたが、北アフリカとの奴隷交易は、この地域の伝統産業だったのことを指摘すべきである。この奴隷は、アメリカのプランテーション労働の担い手としての完全に非人間的なものでなく(まあ不本意ではあったであろうが)、兵士や家政婦として売られたということである。場合によっては奴隷出身で高い地位に就く例もあったようである。この形態の奴隷は、それこそギリシア、ヘブライ、イスラム帝国、オスマントルコと非常に長い年月続いた奴隷制の一部であると考えられる(しばしば敗北した国の住民が奴隷になることの方が多かったと思われる)。ギリシアの浮世離れした哲学が、完全に奴隷制を経済システムとした国家のものであることを普通哲学者はまったく問題にしない。

これは漱石の不倫愛が姦通罪にあたるかもしれないのを全く教えないで、円熟期の漱石を読ませる国文学者と同じようなものである。

さて、この奴隷制問題の最終解決が、1924年の南北の通行分断である。

これによって南北境界が、伝統的なものから、近代的な境界に性格を変え、そして北部の奴隷商人の反感を買い、独部独立運動に最初の火がついたのである。

同じころ、ダルフール王国もエジプト植民地に併合され、現代のスーダンの地図と支配機構が成立したものと考えられる。

スーダンのヌエル、ディンカ、アザンデに関する社会人類学的調査が行われたのは、この南北分離後、1930年代である。

第二次大戦後の民族自決の広がりと大英帝国の撤退という国際的文脈のなか、1954年自治政府ができ、1956年独立を果たすが、それは植民地政府に北部イスラム教エリート(現地書記官や商人(コンプラドール))が、支配層に横すべりしただけである可能性が高い(インドやアルジェリアのような旧植民地では確認されている。戦後ビルマ政権も旧日本軍が養成した階層であるのは有名だ)。

この結果、南部のイスラム化というのは、旧植民地支配システムに入ったアラブ人のエスノセントリズムからみれば避けがたいことだった。

明らかに、伝統的種子と、植民地政府による近代的種子が、最悪の結果を招いたのがスーダン南北内戦なのである。

イギリスに現地の全般的近代化への意思がなかったのは明らかである(エリートは養成した。ハルツーム大学は1902年設立)。

しかし近代的に統合しておきながら、1930年代に人類学調査をしているように、近代化を他方で否定するという矛盾したイギリス人の態度は今後の歴史的検証の課題であると思う。

とにかく戦後の民族自決の時代(国連決議は1960年)に南部スーダンは内戦を行っていたため、その文脈で語るのが適切なのは理解していただけたと思う。

南スーダンは国際的支援を裏切らず、独裁に陥らず、腐敗に陥らず、せっかく開いた花を美しく割かせてほしいと思う。
posted by Kose at 14:25| ダルフール&スーダン

2011年01月09日

今日のヌエル族

この記事は本家ダルフール・トリビューンに掲載したものと同じである。
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SPLMがディンカ主体のため、なかなかヌエルの立場が表立って表明されることがないので、地味な記事だが訳した。イギリスの社会人類学者エヴァンス・プリチャードの研究『ヌアー族』『ヌアー族の宗教』(現在絶版単行本岩波書店、文庫本平凡社ライブラリー)は、人類学の古典中の古典とみなされたもので、そのヌアー族がヌエルである。「ヌアー族には時間の観念がない」とはEP(エヴァンス・プリチャードの通称)の迷言中の迷言である。
アザンデ族もEPの南スーダンの部族でこちらは入手可能である。
アザンデ人の世界―妖術・託宣・呪術

SPLM主体のディンカ族はやはりイギリスの社会人類学者リーンハートの調査対象となって有名になった。
要するに、スーダン独立前まで、彼らは西欧人から迷信深い未開民族と強く信じられていたのである。
以下の記事で、トルコ・イギリス植民地と闘争したことに言及があるが、これはヌエルがおめおめオメデタイEPの好奇心の対象になったのではないことを明言していると思ってよろしい。その後EPが、植民地行政官の言う事を鵜呑みにして、ヌエルが単一部族であるように「誤って」書いたことが明らかにされた。記事にあるとおりヌエルはあまりに広い土地に別れて相互に交渉なく生活していたのが事実らしい。ヌエルやディンカは、イギリス行政官がつけた名称で、今でも俗称として使われているというのが正確なところである。多くのサブグループにディンカもヌエルも分かれているのであって、その複雑な構成はオメデタイ人類学者を混乱に陥れ、しかもちなみにそのEP誤りを指定した研究など翻訳がないので、少なくとも日本人は一切南スーダンの人類学者の言うことをあてにすべきではない。
さて、しかし反植民地闘争や、スーダン内戦こそが、南部人として、そしてヌエルとしての一体感を生み出したのであり、これがベネディクト・アンダーソンが指摘する想像の共同体としてのネーションそのものなのである。
そして、南スーダン独立が圧倒的なのは、そのネーションの感情がすでに支配的で、ディンカやヌエルと言った部族主義を上回っており、「ヌエルがレファレンダムを勝ち取るのに貢献した」という記事の言葉のその意味するところなのである。
毎日新聞が全く間違って使ったセルフ・デタミネイションが、この記事で正しくそのネーションの感情に基づいて「民族自決」の意味で用いられているところも勉強していただきたい。
アントニオ・ネグリとかいう学者が国民国家は過去のものだと言ったとか言わないとか(『帝国』)。しかし、この記事に認められるのは、狭いエスニシティを超えてネーションを構築する古臭い時代遅れのしかし今日のプロセスなのである。


Sudan’s Nuer community celebrates legacy, advocates independent South
スーダンのヌエル・コミュニティ伝統を祝い、南部独立を訴える

Sudan Tribune - January 7, 2011
http://www.sudantribune.com/Sudan-s-Nuer-community-celebrates,37528
January 7, 2011 (JUBA) --
南スーダンでディンカ族についで、第二の大きさのヌエル・エスニック・グループ(The Nuer ethnic group)は、南スーダンの独立に関するレファレンダム前夜その伝統のための祝賀行事を木曜開いた。
コミュニティは上ナイル州の極東部の長いエチオピア国境地帯からジョングレイ州を通じて、ナイル川超えて大バール・エル・ガゼル地域のワラプ州に隣接するユニティ州の西岸まで広がっている。
祝賀行事はユニティ、上ナイル、ジョングレイの3つの州のヌエル・ヤング・ユニオン(NYU)が開いた。数千人以上の若者が南スーダン首都ジュバのニャクロン文化センターに集まった。そこで主催者はスーダンのトルコ・イギリス植民地時代での抵抗まで遡る南部の解放闘争に貢献したヌエル・コミュニティの偉大な伝統を祝った。
彼らはまた離脱への投票によるその正義と平等と個人と個人の自由に基づく大志と原則を達成するためヌエル・コミュニティを動員するための機会としてその場を利用した。
祝賀行事には大上ナイル3州の何人かのヌエルの長老が出席し、100年間以上の解放闘争の間コミュニティ出身の息子や娘たちによる歴史的偉業を講演した。過去開催されてきた同様の集会を通じて、今週のイベントは南スーダン人が彼らの未来の運命を決定する投票する2日間行われた。
長老たちはヌエル・コミュニティに感謝を表明した。彼らはヌエル・コミュニティは日曜予定の独立に関するレファレンダムで最終的に最高潮に達する南スーダン人の民族自決(self-determination)への権利へ向け勝ちとり、推進したことに偉大な貢献をしたと言った。
その間数千人以上のヌエルの若者が集ったホールで、人道問題災害管理大臣ジェイムズ・コク・ルエアはコミュニティの偉大な貢献が現在いるところに南部人をもたらしたと演説した。
「ヌエル・コミュニティの息子たちと娘たちは闘争の時代誤解されることもあったかもしれない。しかし現在民族自決を求め勝ち取るための貢献の成果が、今われわれがいるところにわれわれをもたらした。われわれは二日後独立のため投票を始める。それはそれを勝ち取るため息子たちや娘たちが貢献した民族自決の権利のため行われる」と彼は言った。
ジェイムズ・コクは若者に特に若者たちにそしてヌエル・コミュニティーの有権者全体に離脱に投票するよう求めた。その要求はまた南スーダン政府(GoSS)青年スポーツ大臣マクアチ・テニーも繰り返された。彼はウェアか者たちに地域の独立のため投票するようリードするよう求めた。
スーダンの9人の憲法裁判所の3人の南部人のひとり裁判官ジョン・ガトウェチ・ルルは、スーダン独立1年前の1955年8月トリト・ムティニに参加した者たちと始めた反政府運動アニャニャ・ワンでの闘争に貢献したコミュニティの軍幹部に関して講演した。
彼はまた後に1983年SPLM/Aがビルパムで結成されるまで、エチオピア国境の東ヌエル領域でビルパムに軍事基地を設立した第一将校ヴィンセント・クアニ・ラトジョルがその後率いた1975年のアコボの二度目の反乱を仄めかした。
様々なハルツーム政府とのSPLMの戦争は2005年終わった。そこでレファレンダムを通じた離脱の権利を南部に与えることに両者は合意した。南スーダンは独立に投票されると広く予想されている。投票は日曜始まり、1月15日まで行われる。
(ST)
posted by Kose at 15:20| ダルフール&スーダン

2010年10月27日

中国武器禁輸決議侵害国連専門家委員会レポートのロイター独占記事掲載

Exclusive: U.N. panel catalogues Sudan arms breaches in Darfur
独占:国連委員会、ダルフールにおけるスーダン武器禁輸侵害を列挙
http://darfur-tribune.seesaa.net/article/167373685.html

ロイターが、国連専門委員会の問題の中国が公表を妨害しようとしたレポートの内容を確認したと言う記事である。これまではリークしかなかった。

中国製銃弾がUNAMID攻撃で使われたことが確認されているそうである。

またベラルーシ(これまたひどい独裁国家だが)が売却したロシア製スーホイSu-25の配備も確認されたようである。ロシア製ヘリコプターも確認されているようである。

少なくともべラルーシと中国は、スーダンがダルフールに武器を移送しないと言う保証を単に「信じた」だけで、武器が移送されないことを検証する積極的措置を取らなかったと言う形で、安保理スーダン制裁委員会に報告されるものとみられる。

外交的にどのように発展するのかは、まだよく理解できていない。今後フォローする。

次がスーホイSu-25

posted by Kose at 18:23| ダルフール&スーダン

2010年10月25日

ダルフール・トリビューン更新再開

ここは、ダルフール・トリビューンでは書けないことを書く場に過ぎなかったのである。しかし、JEMのハリル・イブラヒムのリビア追放と、ハルツームの国内解決政策で、どうしうもない停滞に入った上、国際的関心が全くなくなっていたので、体調面も考慮して、本家を休止した。こっちばかり更新する奇妙な状態になってしまった。

その停滞状況のまま、バシル独裁政権の思うがままになるのであれば、それは北朝鮮やビルマと全く同じである。

先週、国連安保理代表団がダルフール入りした。何も期待していなかったが、急きょJEMがドーハ協議への復帰の意思を示唆したため、その記事をダルフール・トリビューンに掲載した。大して期待はしないが、ドーハ協議に関連する限りで、ダルフール・トリビューンに記事翻訳を掲載するつもりである。

ダルフール・トリビューン
http://darfur-tribune.seesaa.net/
posted by Kose at 12:58| ダルフール&スーダン

2010年10月07日

ハリマ・バシル、人権賞を受賞

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悲しみのダルフール

悲しみのダルフール

  • 作者:ハリマ・バシール、ダミアン・ルイス
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2010/04/08
  • メディア: 単行本

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4月に日本語訳が出版された上の本の著者、ハリマ・バシールが、人権に関する賞を受賞したと言うニュース。本家ダルフール・トリビューンも久々更新しました。

Doctor, gang-raped in Sudan's Darfur, wins rights award
スーダン・ダルフールでレイプされた医師ハリマ・バシル、人権賞を受賞

Reuters - 2010年10月6日水曜日
http://af.reuters.com/article/worldNews/idAFTRE69550J20101006
By Adrian Croft
ロンドン(ロイター)- ダルフールにおける残虐行為について証言した後スーダン軍兵士によりレイプされたと言う医師、ハリマ・バシルは、水曜、女性人権擁護者のためのアンナ・ポリトコフスカヤ賞を受賞した。
4年前モスクワで殺害されたロシア人活動家のジャーナリストを記念する賞は、人権擁護団体、リーチ・オール・ウィミン・イン・ウォー(Reach All Women in War)によって毎年与えられる。
「私と、そして、多くのダルフール女性に起こったことは、私たちが忘れることができない何ものかである・・・
それを忘れさせるかもしないことがあるとすればそれは、正義をこの目にするときだけである」と現在イギリス在住の30歳のバシルは、授賞式の直前、電話取材でロイターに言った。
犯罪者が罰せられ、「私たちの故郷に実際に平和が訪れ、世界中のすべての難民やすべての避難民が帰郷し、平和に暮らすとき」、正義は実現する、と彼女は言った。
国連は、30万人がスーダンの乾燥地域の西部地方でダルフールにおける暴動鎮圧軍事作戦で勃発した人道危機で死亡したと推定している。
国際刑事裁判所はダルフールにおける戦争犯罪、人道に対する罪、およびジェノサイドの容疑でスーダン大統領のオマル・八ッサン・バシルに対して逮捕状を発付した。
彼は容疑を否定する。
ハリマ・バシルは、2004年ダルフールの辺鄙な村の診療所で医師として働いていた時、スーダン兵が監視する中、8歳前後の少女たちが暴行さ、レイプされたと言う学校への軍事攻撃を目撃した。
彼女はジャンジャウィード民兵による攻撃に関して国連スタッフに話した。
軍は彼女を探した。
彼女は、ナイフで切られ、タバコでやけどをさせられ、繰り返し輪姦された。
彼らは彼女を殺さなかったが、次の言葉で彼女をののしった。
「さあこれから、お前はレイプを公言しに行くことができる」。
彼女は、彼女の伝記「悲しみのダルフール」でその体験を書いたに関して「砂漠の涙」と書いた。
彼女は、他の国々が「顔をそむけている」間、ダルフールの状況が「ますます悪化している」と言う。
ICCでスーダン大統領について不利な証言をしたバシルは、いつか大統領がハーグの法廷に出廷させられるのを見たいと望んでいると言った。
ハリマ・バシルはしばしば衝突と殺害があるキャンプに避難した200万人以上のダルフール避難民の不安定な状況に注意を促した。
彼女は、ダルフール国連アフリカ連合合同平和維持軍(UNAMID)は、より多くの部隊と設備がなければならないと言った。
(Editing by Janet Lawrence)
posted by Kose at 16:29| ダルフール&スーダン

2010年09月03日

クルーニー、ダルフール失敗を認める

この記事は本家と同時に掲載した。
もちろん、ぼくの休止を正当化するためである。

ジョージ・クルーニー、ダルフールへの取り組みは「人生最大の失敗」と言う
FoxNews.com - 2 Sep. 2010
http://www.foxnews.com/entertainment/2010/09/02/george-clooney-says-darfur-involvement-greatest-failure-life/
ジョージ・クルーニーは、彼の最近の仕事の準備をしながら、イタリアに隠れる殺し屋の新しい映画「アメリカ人」のプロモーションをしている。
クルーニーが小さな町ラグリオの豪華な別荘で休息の時間の多くをイタリアのガールフレンド、エリザベス・カナリスと過ごしているため「イタリアでは、隠れる」の部分は彼の私生活を反映している。
しかし、49歳のクルーニーは、彼の魅力的な生活は別として、彼が密接に取り組むことになった一つの世界的事件、スーダン・ダルフール地方の進行中のジェノサイドが、個人的な未解決の重荷のままだとサン紙に言った。
「私は、特に国連を代表して、私ができるどんなことでも援助するため私の名声を利用することができることを光栄に思ってきた」と、彼は多岐にわたるインタビューで言った。「しかし、ダルフールの場合、それは私の人生で、最大の失敗である」。
クルーニーと彼の父ジャーナリストのニックは、4年前に30万人以上が死亡したと推定される内戦の衝撃を伝えるため、ダルフール難民キャンプにカメラを持ち込んだ。
クルーニーは、その後ほとんど変化がないと言った。
「他の人たちと共に、私たちはそこの恐るべき状況を多くの注意をもたらしすことができたが、何も変わっていない。まったくいらだたしい」。
クルーニーは先週の日曜、ハイチの地震の被災者と湾岸のハリケーン・カトリーナ犠牲者のためのその活動のため、エミー賞で人道主義の賞を受けた。
「それは恥ずかしい」と、は舞台裏でFOX411.comに言った。「すべきことをしたことに賞を与えられたくはない」。
posted by Kose at 12:00| ダルフール&スーダン

2010年07月13日

ICC、スーダン大統領容疑にジェノサイド加える

本家と同じ!(間違えたんだけど)
【コメント】
ジェノサイドの容疑の今回の成立要件で問題になったのは「意図」「民族集団」であった。
専門家委員会は「意図」が弱まっていると、ジェノサイド認定を回避した。また予備審判部は特に「民族集団」の認定を退けた。判決はこの点でジェイのサイド容疑が成立する点を明確に言及している。特に大規模強制避難民の生活条件をジェノサイドの要件と認めている点は、ルイス・モレノ=オカンポが強調していた点だが、個人的には最大限評価する点である。
次はジェノサイド条約の該当部分
Article II: In the present Convention, genocide means any of the following acts committed with intent to destroy, in whole or in part, a national, ethnical, racial or religious group, as such:
(a) Killing members of the group;
(b) Causing serious bodily or mental harm to members of the group;
(c) Deliberately inflicting on the group conditions of life calculated to bring about its physical destruction in whole or in part;
(d) Imposing measures intended to prevent births within the group;
(e) Forcibly transferring children of the group to another group.

全文は:
Convention on the Prevention and Punishment of the Crime of Genocide
Prevent Genocide International Web Site
http://www.preventgenocide.org/law/convention/text.htm
日本語全文公式訳なるものは存在しない(批准していないため)。
拙訳は:
集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約) 日本語版・英語版
http://darfurtribunediary.seesaa.net/article/135437322.html?1278982212

ICC adds genocide to charges against Sudan's president
ICC、スーダン大統領容疑にジェノサイド加える

(AFP) – Jul.12, 2010
http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5jC3xuo9_11TJkusHpn1Mlt3kWsVg
By Mariette le Roux
THE HAGUE ― 国際刑事裁判所はスーダン大統領オマル・バシルに対する容疑に月曜3つのジェノサイドの訴因を加え、反政府勢力は「勝利」とその措置を称賛した。
ダルフールの「フール、マサリト、ザガワ民族集団(ethnic group)の一部を破壊する特定の意図を持って(オマル・バシルが)行動したと考える合理的な理由がある」と月曜出した新たな逮捕状で行った。ICCに取って始めてのジェノサイドのものである。
ハルツーム政府はその措置を裁判所による「政治的」決定と退け、正義と平等運動(JEM)は自体の展開をダルフールの人々と全人類の勝利だと呼んだ」。
「それは正義は実現すると言う希望をダルフールの人々に与えるだろう」と報道官アフメド・フセインはAFPに語った。
ハルツームでは、スーダン広報大臣兼政府報道官カマル・オベイドは「ジェノサイドの容疑を加えることで、ICCが政治的裁判所であることが確認された」と言った。
「ICCの決定は我々、我々スーダン政府には関心はない。我々は事態の展開を注視する」とAFPに提供された国営通信社SUNAへの声明でオベイドは言った。
昨年3月、ICCは戦争犯罪と人道に対する罪の容疑でバシルの逮捕状を発布した。それは現職国家元首に対する初のものであった。
しかし損逮捕状は検察官ルイス・モレノ=オカンポが請求した3つのジェノサイドの容疑を含めず、彼は裁判所の決定を上訴した。
2月、ICC上訴審はジェノサイドを落とした決定を再審するよう命じ、証拠の閾値を高く設定しすぎたことにより「法において誤り」を犯したと言った。
国連事務総長パン日ムンは「バシル大統領に対する容疑の性格に深い懸念をもつ」とニューヨークの記者報告でファルハン・ハク報道官は語った。
藩基文はハルツーム政府が「ICCの活動を完全な支援を提供し、正義と和解の問題を解決する」よう求めたと彼は言った。
月曜の決定で、裁判所は村や町がスーダン政府軍の攻撃のため「民族的構成に基づいて選別された」と間ゲル合理的根拠があると言った。
「他の部族の町や村は反政府拠点と共に、フール、マサリト、ザガワ民族集団の民間人が住むと知られた町や村を攻撃するため、迂回された」。
また「レイプ、拷問、強制移住の行為はターゲットとした民族集団のメンバーに対し行われたように思われると」と裁判所は言った。
検察官は、政府軍が、これらの集団が住む村の井戸やポンプを破壊する証拠を提出した。それにより彼らはまた「ジェノサイド政策を促進させるため「強制移転」をさせられた。
「引き出しうる合理的結論のひとつは・・・フール、マサリト、ザガワ集団に科された生活条件はそれら民族集団の一部の身体的破壊をもたらすよう計画された」と声明は続けた。
大統領兼最高司令官バシルは、この目的のための共通の計画を「計画するのに本質的役割を演じた」ようであると裁判官は言った。
裁判所はスーダン政府、裁判所を設立するローマ規程のすべての締約国、すべての締約していない国連安全保障理事国に対し協力要請を送る登録を命じた。
検察官ルイス・モレノ・オカンポはバシル個人的に彼の軍をフール、マサリト、ザガワを全滅させるため指導したと告発した。
国連はより大きな資源と健保力の分配のためアラブ支配体制に対し、少数民族反政府勢力が武装蜂起をした2003年ダルフール紛争が勃発して以来、最大30万人が死亡したと言う。
スーダン政府は1万人が死亡したと言う。
バシルはジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪を裁く権限を持つ世界で唯一の独立した情勢裁判所ICCの管轄権を拒否し、ダルフールの犯罪で指名手配された二人の重要な共犯者の引き渡しを拒否してきた。
モレノ・オカンポは水曜パリの記者会見で最新の決定に対し答えるつもりだと、彼の事務所は言った。
posted by Kose at 09:53| ダルフール&スーダン

2010年03月31日

やっぱりザガワは一夫多妻

「悲しみのダルフール」の冒頭の記述からすると一夫一妻のように読めたが一夫多妻は珍しいことではないといきなり言われてしまった。
それだけ。
posted by Kose at 18:09| ダルフール&スーダン

予告:ハリマ・バシール「悲しみのダルフール

ハリマ・バシール&ダミアン・ルイス(真喜志順子訳)「悲しみのダルフール」PHP研究所¥2200.の4月8日発売が確実になった模様である。
4月11日がスーダンの選挙日(なんか延期の声が高まっているが)なので微妙な情勢である。
ぼくは知る限りの情報をPHPの編集の方に伝えた。帯で、HRW土井香苗氏が推薦しているのだが、土井香苗氏を推薦したのはぼくだ。ぼくじゃ何の力にもなれないので、土井氏に即パスしちゃったのである。
まだ冒頭しか知らないので具体的には後ほど。
「トランスレーター」は若干怪しい情報に基づいていたので決して推薦しなかったが、こちらは情報の点でも人類学的に面白い記述が冒頭からある。
たとえばザガワ族が牧畜民で牛でかなりの収入があること。額に傷を付ける風習があり、それでザガワの何クラン(著書では部族となっているし、他でも部族扱いされていたが、部族とクランのいい加減さについてはヌエルで論じたところだ)か、あるいは親族まで区別できる点、男尊女卑がないことなど、アラブ=イスラムとの大きな違いがわかる。
著者はジェノサイドの残虐行為にあっており、イギリスに亡命してイージスとラストの支援を受けているものと思われる。
たぶん土井さんのテレビの枠でも紹介していただけるらしい。

アマゾンで予約もできる。

悲しみのダルフール

悲しみのダルフール

  • 作者: ダミアン・ルイス
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2010/04/08
  • メディア: 単行本



表紙はこんな感じ(変更があるかも知れない)。

kanasiminodarfur.jpg
posted by Kose at 16:40| ダルフール&スーダン

2010年03月07日

ダルフール紛争の血も涙も怒りもない話

ダルフール紛争の社会科学的スキームはほとんど出来上がったが、それをまとめる意味も気力もなくなった。
もちろん、民主党の朝鮮人差別が、この手の問題に集中する気力をなくさせたのである。
あれもこれも口出す気はないのである。朝鮮人の同時代的差別に口を出せなければ、アフリカの辺境の差別について口を出す資格はないと考えるのである。
しかし、そのどろどろの民族主義的ディコースに介入する気はないので、本家でクリプキ論を書いた。それがダルフール紛争の人類学的問題のすべてで、人類学的にダルフールは面白いものではない。

当初の目標から変わったのは、1998〜2000年のスーダン政治運動のラジカル化という誰も論じていない点が「ダルフール紛争」の直接的起源だと言うことである点に気づいてからである。
A)SPLMのニュースーダン綱領発表:地方の自決運動の活性化
B)南部石油開発の成功:Aに伴いNIF支配の危機と南北内戦終結への志向の発生
C)NIFからのツラビの追放
D)ブラックブック出版、SPLM綱領の北スーダンへの翻訳
である。これらを一体的に捉えないと、南北和平交渉とダルフール紛争が平行して起こっている事情が、理解困難である。
そして、最悪の役割を演じたのが「アメリカ政府」であるというのが結論である。CPAの仲介で南北内戦停止を最重要課題としたアメリカが、ダルフールの長い紛争とその激化が「ジェノサイド」にいたるまで、隠蔽するのに大きな役割を担ったと言うことである。
ジェノサイドまでエスカレートしなければ、アメリカはダルフール紛争を無視し続けたであろうし、現在の和平交渉でもその態度をアメリカは実質変えていない。
 20世紀末のスーダンのラジカル化に注目すると、そういう結論になるのである。

さてここをはじめてだいぶなるがその間、本家に時間を割き筒は認識したことは、従来のダルフール紛争認識とあまりにかけ離れている
1.もちろん非常に大きなコンテキストとしてスーダンの従属的低開発によるコンパルドールとしてアラブ優越主義貿易資本支配という形の認識だって、日本ではだれも明示していない論点である。
2.また、軍事的背景としてのリビア・アラブ覇権主義が引き起こしたリビア=チャド戦争におけるスーダンのダルフール主権放棄状態という論点も誰も明示していないことである。これは現在のチャド=スーダン正常化まで、ダルフールの根本的秩序問題に影響してきた。
3.1970〜2000年の1985年を頂点とするサヘル〜東アフリカの大干ばつが、ダルフール地方では、しばしばアラブのラクダ遊牧民と他の部族と資源をめぐる衝突、長いダルフール紛争の大きな背景をなした、と言う論点も誰も明示していない。
4.低開発にもかかわらず戦後ダルフールの人口が5〜6倍になっており、過放牧過耕作や、出稼ぎ労働など、近代化の余波が土着社会を次第にゆがめていたこと、あるいはおそらく植民地時代からだと思うが、ナイル川やチャドの人口がダルフールに流入し続けて(当然アラブ系を自認する人々の方が流動性が高い)、土着行政で吸収に困難が生じていたことなど、基礎的人口経済学的問題が発せしていただろうことについては、研究自体がない。
4.低開発の一端として、植民地以前の土着行政が優勢で、紛争の地方政府による解決機構が欠落しており、そのため初期のスーダン軍介入後、長いダルフール紛争への民兵動員が、ジェノサイドの素地を作ったことも少なくとも日本では論じられていない。
5.その他

これくらいは、整理しないととても社会科学的だといえないというのが主張である。人類学的記述は、もっととも良心的でも、これらのフレームワークすら捉えることができないのである。

はあ、それでこんな話誰が面白くて読むんですか?
涙も怒りもなく。
まあお涙頂戴の話の方がよいと思います。そういう本は近々出ますので。
posted by Kose at 18:55| ダルフール&スーダン