2015年05月26日

クリストフ・コッホを読むぜ

とりあえず最新の『意識をめぐる冒険』岩波書店、2011から読む。

序を読んでびっくり!

以下に紹介する言葉は、あるインタビューでの村上春樹の発言だが、非常に印象的であり、私自身が現実に経験したことにとても近い。「私たちの中には、空っぽの部屋がいくつかある。そのほとんどは一度も足を踏み入れたことのない部屋だ。忘れられた部屋ともいえる。・・・・(略)・・・・」。

村上春樹にやられちゃう脳神経生物学者は見込みがないような気がするが、まあそれはとにかく、日本語のタイトルは「羊をめぐる冒険」から借用されたものだということだ。あざとい。
原題は「意識:ロマンティックな還元主義者の告白」("Consciousness: Confessions of a romatic reductionist")である。

なんか一気に興ざめだが読む。2004年に他界したクリックに免じて読む。

もし精神が透明でつるつるしたものでないなら、その場合はロマンチックな本など読まずに、精神科を受診することを薦める。
posted by Kose at 13:28| 哲学社会科学エッセー

2015年05月25日

エーデルマン『脳は空より広いか』読んだが

急に読んで説明できる内容ではない。
視床のコアと皮質が、再入力的に(無限に)ネットワークを更新する能力を意識の下部構造とするような話しである。統一理論的な仮説であるが、最先端の実証研究やコンピュータシミュレーションでは、多の一般的な見方では生じる矛盾や限界を取り除ける。つまりコアは脳の心身部分である。意識は必ずその可感的部分である。コア自体は可感的ではないが、可感的能力を与えるものである。意識のないコアと言うのはあり得る。まあ意識を失っている場合である。だがコアのない意識はない。つまりコアの機能停止は脳死である。生物学的に言ってゾンビ人間がありえないのは脳死を扱えないからだ。当たり前だが。疑問として随伴説や二元論の変種ではないのかという感じは途中まで残るが、おそらく科学的仮説としては大変良く出来ているみたいだ。

さてエーデルマンの議論は主に、志向性や注意や言語のような特に高次の意識はほとんど扱っていない。原意識ベースの話である。なので議論の発展の余地は大いにあるが、昨年他界した。なんか論集があるのか調べるのもいいかもしれない。

さてその原意識と言うのは漸次(最大0.5秒)で行使される複雑な分散ネットワークというものを想像してほしい。この場合エーデルマンは再入力モデルを使う。ある時点の◯は次の時点の◯と脳内のマッピングが異なる。これは重大な哲学的問題を解決してしまう。情報に対してマッピングの再入力は常に冗長である。

サール先生が提示した楕円のコインの謎は認識論的にこれで簡単に解ける。あとは恒常性というのは、おそらく乳児の段階ですでに発達しているので、モノがありそれが様々な相貌を取るということに脳は熟練しまくっているということである。

たとえばあるコインは本当に楕円であって、ある角度で円に見えるという逆のケースもあるが、とりあえず円のケースを取って、不自然な場合仮説を立てるまもなく、それは本来楕円で円の相貌をもつことがあると切り替えるることができるだろう。

こういうことが考えられないのが、人工知能論者である。というのもそれぞれのアルゴリズムを考えなくてはいけないからである。だがエーデルマンの仮説では、再入力による淘汰によって、円のコインと楕円のコインはアルゴリズムなしに見分けられる。

ここまで強力な神経生物学的理論が出てくると、単に限定された領域の(つまり価値が設計者により与えられた)自己学習システムはそうとう情けないものに見えてくるはずである。瞳の虹彩だろうが静脈だろうが関係ないよ。

すくなくとも人間で、虹彩や静脈で個人を識別する奴はいない、人工知能の終わりである。

エーデルマンの議論の多くはクオリアにあてられている。仮に人がイルカだったら、そのクオリアはイルカがいかに知能が高くても、色彩や音に関して人とは全く異なるのは想像に難くない。だから食ってもいいのだ。

さて、再入力システムに基づくクオリアの能力はとにかく感覚器官の制限がなければ(だいたいある一定のエネルギーの範囲に収まらないといけないが)、逆に無限に物がさまざまな様相で現れても、かつ意味はよくわからなくても、とにかく処理できる。

世界の多様性とクオリアの能力の多様性は、どっちが大きいかは無限の比較なので問題にならない。
そこで、仮に高次の意識がある場合には、あじさいの花の色づきを梅雨のメトミニーにできるのである。
だがあじさいの花が人間のために色づくのは本来的でない(これはサール先生的言い回しだ)。

なるほどメディアやネットでクソみたいな画像や映像を魅せられて頭に来るが、それとあじさいの存在論的差異を明確にしておく必要があるだろう。

何がバーチャルだ糞野郎ども!

エーデルマンはまた読むかもしれないが、とりあえずクリストフ・コッホに再チャレンジする。前回よりマシだろうと思う。
posted by Kose at 21:46| 哲学社会科学エッセー

2015年05月22日

エーデルマンの民間脳科学についての感想

日本で一般に知られている脳科学について、ジェラルド・エーデルマンはわずか3段落で片付けている。ご覧頂きたい。
『脳は空より広いか』草思社、原著2004年、p46〜47.
 骨相学は、いろいろな精神機能をそれぞれ脳の部位ごとに上げじゃめた学問である。けれども現在では、こうした機能局在論が脳科学の説明としては批判に耐えるものではないとわかっている。これに対し、脳は全体の働きによってのみ機能するという全体論もまた、精細な研究の前では通用しない。
 そもそも脳のモジュール性あるいは機能局在論という概念は、動物実験や転換の外科手術などによって脳の一部を切除した影響や、脳卒中などで脳損傷によって起きた障害などをあまりに単純に解釈した結果、できあがったものである。
 たとえば、大脳皮質のV1(第一次視覚野)を切除すると目をが見えなくなる。これははっきりしている。しかし、だからといって、色や形や動きなどのいろいろな視覚情報がV1だけで担われていることにはならない。V1は視覚経路を形成する一連の皮質領域のうち、目から入った視覚情報が最初に届く場所なのである。
 同じことが脳の最新の画像技術を使った研究にもいえる。たしかに「こういう課題をこなしている時は、脳のこの部位とこの部位の活動が活発になる」と画像で見ることはできる。しかし、それらの部位の活動が活発になることと、行動が現れることをイコールで結ぶような単純な解釈はできない。必要であることと、十分であることとは違う。

脳トレとか脳活ジョニーとか、やはり血液型占いと全く同じであることがわかる。本当にやめてほしい。

民間脳科学者(民間心理学という認知科学の皮肉をもじっているんだが)茂木なんとかはひどい。芸人にすぎない。
大阪都構想の投票が僅差だったことを取り上げて、それは誤差の範囲だと言ったのだそうだ。有権者を投票者が代表しているサンプル調査ではないのである。実数調査である。1票でも違えば違うのである。茂木なんとかには歴史がないから、大阪都構想の住民投票とか、衆議院の解散とか、胴元が勝つまで繰り返していいような感じである。安部首相の衆院解散の1回でも、余計だし、おそらく大阪都構想の住民投票も余計である。何らかのポピュリズムの手法である。茂木なんとかは、そういうわけでウルトラ・ポピュリズムである。だが少し実際的な人間の心理に知識があったら、そのウルトラポピュリズムは、ギャンブル依存症と変わりないことがわかるだろう。したがって茂木なんとかは科学も政治も心理も何もわかっていない。

以上。

エーデルマンは、これからが本番である。
posted by Kose at 20:09| 哲学社会科学エッセー

2015年05月20日

サール先生へのエーデルマンの影響は半端ではない

『ありのままに見る』(2015)における現象学(記述心理学)の重視は、明らかにエーデルマンのダイナミック・コア理論(1998年)における意識の神経生物学的理論化における現象学の重視を反映したものだと思われる。いずれ動物以外も志向性をもてる云々の発言は、エーデルマンの工学的研究をほのめかしていると思う。
『脳から心へ』(1992)はダイナミックコア理論以前のものだが、その哲学的部分第4部と付録は、ほぼサールとあまりに類似している。認知言語学のコンパクトなまとめもあるが、それはサールは受け入れないだろうなと思った。しかし若くて哲学と脳神経生物学の両方を欲張る人がいたら、その4部と付録は、最善の入門だと思った。さすがノーベル賞学者、鋭いし、視野が広い。すでに対称性の破れやヒッグス粒子への言及すらある。まあ理解は半分もできないが対応は出来る程度、知識があるオレもえらいなと思う。
だが、その前にあまりにオレの生物学的知識がひどいので『新しい高校生物学』というのも読んじゃう予定。

本当に、心理学はゴメンだが、エーデルマンが気に入ったので、上の2004年の本と、クリストフ・コッホの著作を、サールの社会学???をやりながら、読もうと思う。

この意識のカリフォルニア・マフィアはすごいと思うよ。

実のところそれらと平行して、仏教における意識問題も考えている。それは欧米の知識人に取っては、カリフォルニアくらいまで来ないと、完全な現世的意識だけに専念できないかもしれない。それはイーグルスの「ザ・ラスト・リゾート」の歌詞を読めばわかる。

アメリカ人は迷信深いから、中西部や南部だと思うが永遠の魂を信じている人は人口の50%を超えるはずだ。

日本人は、血液型はともかく、形而上学はない。仏教が形而上学をもっているかどうか、あるいは超越的信仰をもっているかというと、本来的にはない。ナーガルジュナのような屁理屈に捕まるととんでもない形式論理風問答に陥るかもしれないが。基本は、心は空であって物(色)は縁起でしかなく、まあ宗教だから正しい行い(中庸)を務めること、できれば禅(苦行でないヨーガである)で心の平静を得ること位のものである。問題は、修行ができる坊主と世俗との分裂を古い仏教は答えを持っていないが、日本の鎌倉仏教で、原則的にそれは撤廃されたと考えられる。徳川幕府による寺請制度で、葬式仏教化しちゃうんだが。

かくして、日本人には猛烈な形而上学的バイアスはない。物質が最悪の場合、空であっても構わない程度である。サールが物質は透明だと書いたが、「般若心経」でも読んだことがあれば、日本人は字義通り受け取ることができる。

日本人は西欧哲学を勉強しない限り、二元論でも、唯物論でも、観念論でもない。

かくして、学識の檻に閉じこもっている分析哲学者は(実証主義者、観念論者、現象学者も同じだが)、居場所を失う覚悟ができてないといけない。ある程度需要はある。それは西欧文化史という分野の範囲である。

どのように分析哲学者が間違ったのかは、論証すべきだと思うかもしれないが、そういうことはない。ポストモダニズムが単に関心を失われたように、関心を失われるだけだ。エーデルマンは短くそれを書いているので『脳から心へ』は未だ価値がある。

The Eagles "The Last Resort" from "Hotel Carifornia"
posted by Kose at 21:26| 哲学社会科学エッセー

2015年05月18日

サールと愉快な仲間たち

エーデルマンの認知心理学批判(『脳から心へ』付録)にエーデルマンと認識を共有する人のリストというものがあった。邦訳がある著者は次の通り。
ジョン・サール(『志向性』ほか多数)、ヒラリー・パトナム(『理性・真理・歴史』ほか多数、ただしサールはパトナムの指示の因果説を認めてないし、しばしばすぐ転向するみたいだ。「水槽の脳」の思考実験の考案者)、ルース・ミリカン(『意味と目的の世界:生物学の哲学から』)、ジョージ・レイコフ(『認知意味論』ほか、認知言語学の始祖で、サールと同じUCバークレーなんだが両者に交流があるように見えないが、認知言語学でも活躍するトマセロは、サールを参照している)、ロナルド・ラネカー(邦訳では「ラングアッカ―」と誤読していて誰だかわからないが、レイコフの共同研究者『認知文法論序説』ほか)。

「彼らはいうなればリアリスト・クラブに属する。そのメンバーはいろいろだが考えていることは同じで、認知心理学者の声高の実践家と神経科学のしばしばひとりよがりの経験論者が、知らずして知的ペテンにかかっていたことに、いつかは自ら気がついてくれることを望んでいる」

のだそうだ。パトナムはどうなのよとさすがに思う。エーデルマン自身パトナムがしばしば立場を変えてきたことに言及しているくらいだからな。

そしてたまたま発見した『「意識」を語る』スーザン・ブラックモア(インタビュー)NTT出版はブラックモアが「意識」関連の学会に出かけては、著名な学者にインタビューしたもので、サール、クリック、コッホを含むが、エーデルマンは含まれない。読みたくもないチャーマーズ、デネット、ペンローズなど16人の学者のリストが得られる。

意識があるかないか、あるとすればどのようにあるのかという不毛な話である。
オレなら、「あなたにとって歴史はなにか」と問うだろう。「意識」に客観的アクセスが困難な程度よりは、「歴史」は客観的にアクセスできそうだが、意識のある度合いと歴史のある度合いとは明らかに相関性がある。

言うなれば、ラッセルもフレーゲも、彼らの記号に代入される名辞の歴史性に全く気づいていないというのはオレのオリジナル主張である。ラッセルやフレーゲに言えることはより凡庸な分析哲学者全員におそらく言えるであろう。

人工知能にとって歴史とは何か、というお題で物を書いてほしい。暇な人は。あるいは「論理哲学論考」にとって歴史とは何かでもだいたい同じだと思う。

さて上のインタビューでサール先生は中国語の部屋について回顧しており、あんなに反響があるとは全く予想していなかったらしい。だって単なる思考実験だからな。だがサールいわく、それで研究費をもらっていた研究者にとっては死活問題だったということである。

中国語の部屋と、ゾンビ人間(デネット)は実は同じ思考実験の異なる言い方だとふと気づいた。
中国語の部屋では、「中の人」が問題になる。ソンビ人間はすなわち中国語の部屋であって「中の人」は何も理解していない(意識がない)ことを判別するすべはないということである。

これはオレが考えたのが最初にオレが目にした例である。

ああ、長くなった。腰がいたいのでやめる。とにかくサール先生、分析哲学者からはのけものにされているきらいがあるが、上のようななんだかほとんどがカリフォルニアにいるんだが、そのグループの中の哲学者としては代表的研究者であることがわかった。

サールの「生物学的自然主義」は、エーデルマンらとの相互支持にもとづいてのみそう言えると理解すべきだという結論を得た。

posted by Kose at 17:52| 哲学社会科学エッセー

2015年05月11日

サール先生の「現象学」ってどういうこと

『ありのままに見る』であまりに「現象学」が連発されるから、じゃあメルロ=ポンティの『知覚の現象学』との関係はどうなのよと言われそうな気がして少し読んでみたが、面白くないので、つまりある種の西欧ロマン主義的反科学主義としか思えないので、まあサール先生と比較するのは面倒だなと打ち切りました。よっぽど暇になったらあれですが、「サールとメルロ=ポンティの現象学の差異と反復の脱構築」とかは勝手にやってください。現象学で唯一読めたのは、木田元だけですね。覚えてないけれど。最近亡くなったはず。この岩波新書の『現象学』というのは無数の現象学本でも秀逸なので、また借りてきて読んでみようと思います。
そこで気づいたんですが、その序で、「現象学」というターミノロジーの歴史をさっと振り返っているんですね。これがすごい。日本のほとんどの現象学者はこんな知識もない。まあヘーゲルの「精神現象学」は関係ないけど同じ用語だというのはだれでも知っている。なんとカントの「純粋理性批判」の初期の題名が「現象学一般」だったということも木田先生書いてますね。まあそれでも驚くことはない。サール先生が関係あるとすればブレンターノとの関係でしょう。けど日本語訳でブレンターノの本なんかまれにしかないし。木田元先生すら見落としかかって、単に名前を上げている哲学者のひとりにチャールズ・パースがいて、その記号学/論理学の中枢に「現象学」がふんだんに使用されることを発見。とうぜんサール先生アメリカ人だし、中枢の用語としてパースのタイプ/トークンを使用するから、どう考えても、サール先生の「現象学」にはパースの前例があったとしても不思議はないですね。これについて哲学史をする気は全くないですが、「現象学」が、フッサール由来の「現象学」とは関係なく存在することができることはパースの存在で、明らかになりました。ブレンターノだったら、フッサールと同じじゃんと言われるかもしれないけれど、パースなら明らかに出所が異なる。
ネットで「パ―ス 現象学」とか「Peirce Phenomenology」で検索かければかなりヒットします。英語なら「チャールズ・パースの現象学」というようなタイトルを持つ論文すら存在することを知るでしょう。
サールは記号と対象に解釈項を導入した人として有名ですね。もはや論理学にせよ記号学にせよ、そういう用語を再検討しようなんて雰囲気ゼロだからやりませんが。「意味は語の使用である」というウィトゲンシュタインとパースの意味論をどうするとかめんどくさくてやる気もしない。サール先生は「語の意味は慣習」で済ませてますから。
そのラッセル=フレーゲ至上主義の分析哲学は正しいのだろうけど、意味論は「ない」。あったとしても現象論になる。ぼくのラッセル=フレーゲ非難の要点は、語の指示対象は、視点依存的な知識にすぎない(サール先生に言わせれば遠近法的な慣習にすぎない)ということです。これは厳密なラッセル=フレーゲ主義者は論破できないし、その派生系である論理実証主義は現象論に陥るわけ。サール先生がフランスとか王とかハゲとかの意味にラッセルが無責任だと避難している部分がその点です。
僕はかなり正しい。本書く知識無いけれど。
パースの記号学/論理学は難しい体系的なものだ。しかしが内包と外延とはタイプとトークンは違うよね。説明できないけれど。
さてパースの現象学については今のところ全く理解していないので保留するけれど、現象学=フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティは、フッサール中心主義的とも言える極端なしかも反論する気にもなれないくらい難渋ないかにも非論理的主観主義としか思えない。
パースではサールと同じではないかもしれないが、記号学/論理学の核心に現象学の概念がある。
まあものすごく暇な人で、自分が知識人としてうぬぼれていることに後ろめたさを感じる人がいたら、この裏道を開拓していただけると僕の睡眠時間が増える。
サールは志向内容となる、陳述のことを現象学、むしろ現象記述と言ったら誤解は少ないんだろうけれど、また生物学では「現象論」という用語が選択される一般的なのだ、単にそれだけで本質とはなんの関係もありません。
「信号が赤に見えたように見える」がまさに現象学です。これは視覚の現前的志向性の問題であり、表象と判断の志向性であり(この場合現前はしない)、アクセルを踏むは行為の志向的内容です。あまりになにも面白くはないと思いますが、極端な認知科学や心の哲学はこれらを全部無意味だとします。
だが信号が赤く見えることななく、交差点が慣習によって混乱しないという一大理論を認知科学や心の哲学は提起すべきである。
現象学がこのように記述であることは、被検者の現象学的記述と研究者の現象学的記述になにかきゃ感性の担保がなくてならないが、そんな細かいことは脳科学者は科学者じゃないので気にも留めない。だが核を名乗る以上客観性の担保は必要であり、民間心理学としての現象学と科学としての現象学が打ち立てられた気配がない。赤いものは被検者にも観察者にも赤いものなのである。だが脳のニューロンの中には「赤いもの」はないのである。なので脳のニューロンの項は波長に対する反応部位は存在するが、「赤く見える」ことは存在しないということも可能である。
誰か頭のいい人まじめにやってくれ。養老孟司と茂木なんとかのような余生を過ごしているだけのくだらない本を本屋が売り飛ばすという社会学の方を僕は問題にしたいのである。
posted by Kose at 21:10| 哲学社会科学エッセー

2015年04月23日

クリストフ・コッホは後回し

クリストフ・コッホのいいところはどれくらい脳の研究が進んでいないかが、わかることであり、そのためかなり不毛な仮説的概念が導入されるということである。

「意識相関ニューロン」というシステムが脳にあるというが、これは意識にはかならず直接対応するニューロンの組織があるはずだ

という仮説である。こういう方法をコッホが取るのは、大雑把な把握から、細部の客観的に事実を絞り込むという研究方針による。しかしそれはいくらなんでもご都合主義だろうというのが普通の人の感想であり、学問の名にあたしないと言って過言でないと思う。

まあそれはいいが、そのためいちいち怪しいのである。
今のところ、脳の研究が、意識の確かな十分な事実や自己言及的な曖昧さのない方法論があるとは信じがたい。

突っ込みどころ満載で、そのため、いちいちブログに書きたくなるが、他の生活の支障になるため、最低サール先生のが終わるまで、読まないで図書館に返しちゃうことにした。

本当に脳科学や認知心理学のまともな本は一冊も見つからないな!阿呆の集まりか?
posted by Kose at 05:33| 哲学社会科学エッセー

2015年04月22日

カニッツァの錯視の破壊

錯視の多くは、実験者が知っていることを、被験者に起こるはずだという全然科学的でない認識論を含んでいる。
概ね遠近法の錯視や、ミューラー=リヤール錯視の破壊では、わずかに系統的に強調を変えるで錯視は消えることが確かめられた。
これらは、視覚細胞に多くの角度を捉えるためのものがあることから、正常な視覚細胞を持つ人には、その細胞の働きを引き出す図形は、錯視として感じられる「ように見える」ということである。
錯視の核心は、このような要素的な細胞を抽象的に働かせる特殊な事例を作ることである。
なんで実際の生活に錯視はないのかというと、当たり前だがあらゆる知覚を一度に現前させるとおそらく頭がパンクするので、「好きなように」「楽なように」(コッホでは選好性という)というまあ普通の人の行為全般で言えることを知覚の場合、ニューロン、シナプスのレベルで、コッホはちゃんと説明していないが、発達の過程で脳に刻まれる(これはメタファー)とおおまかに言って間違いではないと思われる。

次も有名なカニッツァの錯視。
最下段がカニッツァの錯視で3つの丸の中に空白の「三角形」が見えるが、最上段のものを見ると、始めから黒丸が三角形を作っているだけであることがわかる。当たり前である。あまりに当たり前すぎる。なので、カニッツァの錯視は、もともと三角形なものに角度による錯視の三角形を加えただけであると分析で切るのである。2つの三角があるので強い。真ん中は、角度が三角形にならない形で刻んだもので、より優勢なのが黒丸が3つあることが三角形に見えると言う当たり前の事実が「本質」だということでカニッツァの錯視を破壊してみた。

どうよ!

Kanitza.png

問題は、脳のどのレベルで、知覚細胞ないしその組織があるかどうかが科学なのであって、どう見えるかは、サール先生の言葉を借りれば、まあメルロ=ポンティでも同じだが「現象学」の問題なのである。脳科学者は、サール先生から見れば、現象学的記述を細胞レベルで説明する仕事であって、可能ならば、現象学的記述、つまり錯視の報告は(サルとクリップのように)ない方が、より科学的に客観性が担保されるのである。
posted by Kose at 08:39| 哲学社会科学エッセー

2015年04月16日

錯視の条件のまとめ:コントラスト不在という異常さ

Illusion-Monochrome.png

上は縦線が奥か手前か判別できない錯視の単純な事例である。
ミューラー=リエール錯視の破壊の教訓から、線のコントラストを加えるだけで錯視が困難になることがあることがわかった。
下の図は、ちょっとぶっとマップ化に失敗して一部線が細くなりすぎたが、左から2番めの縦線と一番右の線が手前にみるはずの様に加工したものである。

したがって、色やコントラストが、形や大きさの見え方、つまり遠近法に大きな影響があることがわかる。

サール先生、E.H.ゴンブリッチの『芸術と幻視』岩崎美術社の7〜8章の議論を参照しているのだが、そこに掲載されている図版はモノクロの線であることが多い(線ではなく同版画もあるがモノクロであることに変わりはない)。

錯視は、明度がない場合に起きやすい。

さて色の恒常性による錯視は基本的にモノクロに還元できる。影の部分と明るい部分の同じ明度なのに異なる明度として評価されるということである。だが色相が変わるわけではない。

以上から、例の青黒ドレス問題は、モノクロに還元できるはずである。できない場合にはディスプレイの色調に関してそもそも色が異なるのである。もう追求しないけれど。

これでたいていの錯視問題は取り除いた。なぜ日常空間で錯視はないか。
1)平面ではない
2)明度に差異がある
3)色相の変化は、異常である

ということである。
posted by Kose at 12:01| 哲学社会科学エッセー

ミューラー=リエール錯視の破壊

Illision-color.png

ミューラー=リエールをカラー化すると、錯視が「不決定」状態になる

一見、水色の上の外に矢を付けた線のほうが長い錯視が起きる。
だが、上の端と赤色の下の内向きの線の端とを比較すると、「同じ」にしか見えない。
これは線として効果と、色の効果が別に発生して、どちらで評価するか定まらないからであろうと考えられる。
どう?
posted by Kose at 09:28| 哲学社会科学エッセー