2015年07月19日

「この部屋にサイはいない」を認めないウィトゲンシュタインについての論文見つけた

第8章は快調だ。第2節に入らんとしているが、第1節末の外的存在を理解可能性のバックグラウンドだとする際、「ぼくの財布にはお金がない」から「お金がある」ことを推論できないという話を蛇足気味に付け足すサール先生。お金があるのでなければ、お金が財布にないことがありえないということである。「スタップ細胞はない」から「スタップ細胞がある」を導けないのも同じ構造である。反対に「スタップ細胞がある」のでないと「スタップ細胞がない」と言えない。悪魔の証明という人がいるが単に論理的に循環しているだけだと思う。否定するものが存在すると前提にするという循環がある。純粋に論理的な次元だけにおいて無意味な話であると理解できる。外在論の否定はこの無駄な循環論に陥るのもひとつの原因だろう。

これは明らかに「この部屋にサイはいない」を認めないウィトゲンシュタインのはなしからの引用である。
日本語でもいくらでも言及がある逸話だが、全貌は紹介されていない感じがする。というのもオリジナルの英語の表現がどうかは、一応確かめておくべきだろう。
つぎのサイについてのサイトに詳しい記事がある。

Rhino Resource Center: the World Largest Rhino Information Website
MacDonald, J.F., 1993. Russell, Wittgenstein and the problem of the rhinoceros. Southern Journal of Philosophy 31 (4): 409-424
http://www.rhinoresourcecenter.com/index.php?s=1&act=refs&CODE=note_detail&id=1165251908

出典は次だそうだ。
1 Information about Russell and Wittgenstein's conversation is derived from two main sources: Russell's letters to Lady Ottoline Morell and Russell's article in Mind, printed on the occasion of Wittgenstein's death. The first appearance of Wittgenstein is recorded in Russell's letter of the 18th of October, 1911, and the discussion about the rhinoceros appears in his letters written between the 19th of October and the 2nd of November.

そういうわけで、ヴァイ・パッサールの次はこれをやる。ちょいCSR中断。
posted by Kose at 10:58| 哲学社会科学エッセー

2015年06月11日

ハンス・クマー『霊長類の社会』到着

幸島のサルの話は河合政雄『ニホンザルの生態』河出書房新社1964にあるらしい(これは図書館で借りれる)。Hans Kummerが参照しているのは1965年の論文。
サールが引用している注の文献は
Werner Kmmerm, Primate Societies(Chicago: Aldine, 1971)となっているが
ハンス・クマーの裏扉の表記は
Primate Societies: Group Techniques of Ecological Adaptation by Hans Kummer (C)1971 by Aldine Publishing Co.
となっているので、二つは同じで表記は後者で間違いないであろう。

幸島の人の手が加わっていない浜辺に餌場を作って固有名「イモ」当時2歳メスが、最初に芋洗いを行い、二つのルート彼女と同じか、その母親グループに伝播し、今度は最初から芋洗い文化に生まれた個体は、芋は「しょっぱいほうが美味しい」という文化を発現させ、芋は単に洗うのでなく、塩水で味付けして食べるという文化に発展したということである。
河合雅雄はさほど理論的に説明はしていないらしい。クンマーは個体適応と伝承と遺伝のいずれが優位かについて思弁的に解説しているが。
オレの目的は単に「Imo」が「イモ」という固有名であることと、訳注でそう各材料を得たことで十分である。

近日中に、『社会的現実の構成』第二章 制度的事実を創出する は掲載する。すでに校正は終わっている。脚注もとりあえず、章末注で揃えた。

この本のKindle版にはPenguin版(1996)とFree Press版(2010)があるが、オレはFreePress版で読んでいる。Penguin版のサンプルを見ても脚注が入ってないような気がする。なので、マジな人は、紙版で呼んでいただく他ない。

とんでもない誤植があった。第3章だが。
"prepositional attitudes" これでは「前置詞的態度」になってまう。
もちろん
"propositional attitudes"、命題的態度(サール先生が嫌いな表現)
である。

なかなかKindle本も一部だが使えないなと思うこともあるが、なにせ安くて場所を取らないのだからしょうがない。

中にはうまくコーディングできてないものもあるので、必ずサンプルを見てから買うべきだと思う。
単にスキャン画像をKindle化したようなひどいものもある。
posted by Kose at 11:35| 哲学社会科学エッセー

2015年06月10日

第2章訳したが『霊長類の社会』が届かないのでしばし休み

『心、言語、社会』でも使われた、崩壊した壁の地位機能の例は、『社会的現実の構成』がオリジナルだった。
サール先生、当初、動物行動学で事例を探したらしい。
だが十分な例が得られそうにないため、そのファンタジーに変更したそうだ。
幸島のニホンサルの事例は、まさにその部分で言及されているのである。
そのような象徴的地位機能を類人猿が自発的に発現できない事実自体が動物行動学的問題を構成するだろう。
これでなぜサール先生が動物行動学(トマセロに限定されるが)に言及しないかよくわかった。
チンパンジーは「自発的に」「安定した」シンボルを集合的に志向できないのかどうかということである。ヒトとの間では持てるかもしれないが…

さて第2章もKindle版、脚注が失われている。だが、Google Booksの書籍版のスキャニングでそれは確認できるからいいのだ。第1章も同じ手法で修正したい。
 
ちなみに岩波書店の『心の進化』2000年刊というのをパラパラ見たら、京大霊長類研究所の初期の発展について知ることができた。そもそも西欧の霊長類学というのは、動物学のサブカテゴリーなのだが、京大の霊長類研究は、人類学のサブカテゴリーで、西欧の霊長類学者がどんなに頑張っても、サルが芋を洗う文化を持つとか、温泉に入る文化を持つとかは、そもそも念頭にないことだったということである。
だがその後の霊長類学は、少数のフィールドワーク主義者と、科学的生物学者に完全に分裂し後者が主流になったと思われる。しばしばぶつかるキチガイじみた愚かな生物学者の議論は後者によるものである。その場合、ヒトがもつ「概念」が「社会的」産物であることが理解できないため、サルの形而上学の遺伝的、脳神経生物学起源を「読み込み」、それを再度ヒトに拡張するのである。

まあ書こうと思えば、ながなが書けるが、やめとく。サール先生が言うように、人間の意識にとって幻覚であることは現実そのものである。

ここにミューラー=リヤー錯視の図を貼る。

おそらく今日明日に届くと思うので、今日明日アップする。
posted by Kose at 12:15| 哲学社会科学エッセー

2015年06月09日

ハンス・クンマー『霊長類の社会』、アマゾンで1円

配送料が257円なんだが。

Imoがどうなっているかを調べるだけだからまあどんな状態でもいいのだ。ちなみに原著洋書は高い。


posted by Kose at 09:07| 哲学社会科学エッセー

2015年06月08日

サール、幸島のニホンサルの動物の文化を語る

サール先生、デイヴィドソンやパトナムが動物に意識がないといったことにアホかみたいな口調であったが、動物の事例は家の犬のタルスキについてだけだった。

『社会的現実の構成』で、幸島の塩水で芋を洗うニホンサルが、動物における文化での伝承であるという記述があった。

だがどうも引用に疑問があるので、原典をあたろうとしたら、著者名をミスっている。
Werner Kummerと書いてあるが、どう調べても“Primates Society”の著者はHans Kummerである。これは1971年刊だが78年には邦訳されている。邦訳は絶版中で、図書館にもなく、古本は極めて安いのでアマゾンで買う。
オレが勘違いしていなければ、Imoを固有名詞として扱っている。
近著でサール先生日本語わからないと白状していたから、この点誰かから指摘されたのかもしれない。

さて幸島の研究のオリジナルは京大霊長類研究所、今西錦司らによるものだ。
その頃は動物行動学も素朴なものだが、その後社会学クラスの混乱があるのではないかと思う。
つまりサルを擬人化するのはいいとか悪いとかいう議論は、文化人類学的である。一般に動物の個体に固有名をつける手法が優勢となる。マイケル・トマセロの近著における利己性、利他性なんて、アダム・スミス時代のスコットランド啓蒙思想時代かと思わせるレベルの低さである。

だいたいヒトに関して理解していない動物行動学者とヒトに関して理解している動物行動学者では、そもそも議論がかみ合わないのである。ではヒトに関して理解していると言うことに専門性があるかという「ない」。さらに悪いことには、動物の行動を鏡として「ヒト」を理解しようとする姿勢は特に霊長類では強力になる。すると、ヒトについてよく理解していない動物学者が霊長類について研究した成果をヒトの理解に役立てるというのは「無理」か「悪循環」である。

すくなくとも素朴な段階を超えた動物行動学が「さえない」のはこういう理由である。つまりヒトについての偏見を動物に投影して、その偏見を強化するのではない方法というのがないとまったく学問として、体をなさない。少なくとも行動学としては体をなさない。動物感想学ならいいけどさ。

サール先生が依拠できるのは、幸島のサルとタルスキと、脳やDNAが人間と霊長類では大差がないという事実程度であろう。

まあ比較的最近の動物行動学の本は見ておくかなと思う。脳科学なんて馬鹿げたものが流行るくらいだからどうしようもないと思うんだが。

脳科学も動物学と同じで、脳における文化人類学に過ぎず、要するに植民地主義である。今混乱している南スーダンの各部族は、イギリス植民地行政官がかなり恣意的に部族を分類し、イギリスの庭園趣味が昂じて、庭南スーダンに部族を放し飼いにしていたという感覚なのである。もちろんエヴェンス=プリチャードの記録は眉唾ものである。こうして文化人類学は死んでいったのである。

やれやれ。

FireFoxにアプリが追加された。GimpやLibreOfficeも入っているが、まだ十分日本語対応していない。Androidはまた異なるオフィスアプリが入っているが、インストールしようとするとAndroidのセキュリティでインストールを阻止される。セキュリティを外せばいいんだろうけれどね。

まあ、まだテスト段階という感じである。

posted by Kose at 08:58| 哲学社会科学エッセー

2015年06月02日

分析哲学敗退

数学的集合論と記号論理学は異なり、数学的集合論は数学的視点で「客観的に記述可能な」要素についての論理だが、記号論理学にその保証はない。数学と論理以外の何が客観的視点かを問えば、ほとんどの要素したがって外延は視点依存的であり、したがって内包的である。外延が無限の内包をもつなんて言うのは、円周の一点から円の中心を通り反対側の円周に至る先は無限にあるが円の中心はひとつしかないと入っているような詭弁だ。これこそラッセルのパラドクスだ。ラッセルの確定記述は、要するに視点依存性なき個物という幻想に関する与太話である。円の事例と、フレーゲの意味と意義の話はまったく同じである。それは単に歴史的視点依存だったのではなく、視点依存性に対する評価がないということである。
いったん視点依存性を明白なこととして受け入れるなら、ゾンビ人間以外、志向性を評価せざるをえないだろう。
以上をもって、分析哲学主流派は完全に敗北したものとする(ただし意識なきゾンビ哲学者を実践してくれる文には例外である)。
posted by Kose at 21:28| 哲学社会科学エッセー

2015年05月31日

志向性のネットワークとバックグラウンド

サール先生わりとパソコン好きである。
どんどん緩くパソコン用語を議論の中で使う傾向がある。わかりやすいからである。

ステータスは違うと思うが、志向性の「ネットワークとバックグラウンド」はコンピュータ用語からのメタファー的転用と介する余地がある。バックグラウンドは、マルチタスクの場合、自動的な処理を表示なしにすることである。「このプログラムはバックグラウンドで処理されます」。タスクを見れば確かにそれが実行されていることを確認できる。各OSにより異なる。

「今日買い物に行く」は、意図の志向内容である。

買い物に行くには、どこに、どのように、何を・・・それ自体志向対象とできる信念のネットワークがある

またそもそも「ものを買う」システムは本当は非常に巨大で複雑な仕組みがあり、それを素朴に信じていないと「ものを買う」というのは不可能なので、これはいちいち志向対象にできないバックグラウンドである。ATMでお金を引き出すことができるのにATMの仕組みやその運用上の規約すべてを志向対象に出来る必要はない。「行く」のに歩いたり、電車に乗ったり、自動車を運転したりするそのシステムもいちいち志向対象にできなければならないのではない。たぶん大方の人は不可能である。

さて『行為と合理性』の訳者の人は、バックグラウンドを、べたに背景と訳しているのだが、手元に原文がないからあれだけれど、サール先生はBackgroundとNetworkという風に大文字化してそれがテクニカルタームであることを明示している。まずネットワークは、電気通信網が普及して以降の用語なので近代西欧哲学の語彙にはない。ネットワークとせざるを得ないかもっとすごいテクニカルタームを案出する以外ない。まあインタネットだってインター=ネットワークで、アホなガキはネットとリアルとかもう哲学者が卒倒しそうなアバウトな議論をするくらいである。こういうガキも哲学を理解したらいいと思うならネットワークがいいのである。
バックグラウンドは確かに背景である。だがそれはたとえば哲学的に「実在」がテクニカルタームであって、「現実」が日常語法である程度に、「背景」を地の文で使うことは無理がある。サール用語以外に波及していないから、サールの本内であえて使うなら、志向性の背景能力と長く冗長的に使用しないとそれがテクニカルタームであることが理解できない。
だからネットワークとバックグラウンドと対の用語のなので、「ネットワーク」(原則的に志向可能)、「バックグラウンド」(何かを志向している時には志向不可能)とすべきだと思う。
要するに言語学ないし言語に関する哲学で、コンテキスト(文脈)をさらに分析した言い方である。
真理の対応説の場合、コンテキストと命題は独立である。これが依存的とすると真理の合意説に変化する。クワイン中がそうである。

「雨が降っている」は、雨が降っている時、真である。

こういうタルスキ=デイヴィドソン・タイプの「命題」と事実の単純な対応が真でなければ、単に人は真の条件について無限に退行するだけであろう。

雨とは何を指示しているのか。雨は水の落下と・・・・と言う感じである。
アフリカのナミブ砂漠のトカゲ以外ならだいたい、雨が降っている、ことは単純に理解できるだろう。

コンテキストはテキストと相対的で、サール先生が大嫌いな間テキスト性を示唆するからそういう言葉は使わないのである。未だ見たことがない。その曖昧なコンテキストを、分析するならネットワークとバックグラウンド(能力)があるということで、無限後退は起こらないというわけである(のはずである)。

システムももはや他愛のない言葉になっていると思われる。タルコット・パーソンズが初めて翻訳された頃、Social Systemは「社会体制」と訳されたものだ。村上春樹が非常にまったく曖昧にシステムは対抗してコミットすべきものと述べる時、彼が新左翼用語をカタカナに置き換えているだけなのがわかる。玉子とシステムなら玉子にコミットする?
玉子は鶏の再生産のシステムの一段階であるが、鶏については村上はどうコミットするんだろうか?そう言うことになんの意味があるんだろうか?
posted by Kose at 06:48| 哲学社会科学エッセー

2015年05月27日

サールの用語について(サールだけじゃなく、英語一般だが)

サールの『行為と合理性』を読み始めたら出てきました。

「確約を負う」

である。想像はつくが、Kindle本のサンプルをダウンロードして確認した。次の結果に「確約を負う」。(そんな日本語聞いたことねえよ)。

原文
The key is this: animals ca deceive but they cannot lie. The ability to lie is a consequence of more profound human ability to undertake certain sorts of commitments, and those commitment are case whare the human animal intentionally imposse condition onf saticefaction on condition of satisfaction.

日本語訳
そこでは動物では欺くことはできても、嘘をつくことはできないという点が鍵となる。右側をつく能力は、ある特定の確約を追うという、人間の備えたさらに深遠な能力からの帰結であり、その確約においては、動物としての人間が、充足条件に充足条件を意図的に課すのである。

「確約」というというのはコミットメントであり、もはやコミットメントを日本語化するのは困難なほど日本語ができちゃっていると思う。実際この文の数節前で「resposiblility」(責任)が出てきているので、「責任」は使えない。しかし「義務」は哲学的に特殊な意味があるので使えない(カントの道徳論Deontologyの日本語訳が義務論)。コミットメントが20世紀後半多用されるのは、ひとつはサルトルの影響だし、もうひとつはカントや社会契約論の倫理観が西欧で通用しにくくなったからだろう。コミットメントの意味は、主体的な責任や義務や約束である。主体的なと付けないといけないのは、責任や義務を受動的に課されるニュアンスに対して、主体的に積極的に行為の「志向的」十分条件を発語する行為で、その志向内容の充足、したがって条件を実行するかしないかの将来のプランの実行者であることを宣言するのである。上の訳は発話行為も志向性も反映してないし、「コミットメント」の意味も不十分にしか伝えてないので、おそらく意味がわからないであろう。計画への約束を実行する気がないのにすることは動物にではできないということである。

そういうわけで、コミット、ないしはコミットメントは発話行為「約束する」に付随する人間の能力である。
もし、「約束する」自由意思がないと脳科学が証明しノーベル賞が褒め称えるなら、サールの理論が壊滅するだけでなく、人間が将来の行為の実行についていかなる発言をすることもその場で何らかの犯罪になるであるであろう。約束するのは将来実行する能力を前提にしているからである。実行しないで「嘘」をつくことができる。嘘をついたケースのある場合は、犯罪だろうが、反自由意志主義者政府下ではすべての約束は犯罪である。帰謬法により、反自由意志主義は偽である。

とかね。クリストフ・コッホの浅さはそういうことだ。
posted by Kose at 17:27| 哲学社会科学エッセー

コッホについて(2)『意識をめぐる冒険』終わり

クリストフ・コッホのこの本の面白いところは、フランシス・クリックとの共同論文における第一次視覚皮質は意識に関与しないという研究までである。
再三繰り返される意識は神経生物学的に完全に科学的に解明することができるし、しなければならないが、今のところ有力な理論はないということであるが、哲学的議論よりはマシであるという根拠の無い自信だけがある。
三つの研究が区別されるべきである。
1)リベットの自己運動の意識化の遅れ(準備電位)のような心理学的研究
2)第一次視覚皮質は意識に関与しない
3)人間はゾンビである
どの程度優秀なのかと思ったが、典型的な心の哲学者と同様に適当に自分の都合のいいように1〜3を引っ張りだす。3を使う時には1と2は無意味である。1と2をやる場合には意識はわかっている(了解されている)。1は問題の提起であるが、2での解明が必要である。2の標準的理解で言えば、脳や身体の大半のプロセスは意識と関係ない、首から下がないと少なくともいけないが、禿であるのはいさささかも問題がない。(このため「水槽の脳」の思考実験が考えられるが…このばあい3に抵触する。つまり「水槽の中のゾンビ脳」という無意味なものについて考えなくてはならない)。
そういうわけで、知識が豊富なように見えて、浅い。決定的に浅い。想像力もない。
おそらくフランシス・クリックがいなかったら平凡な学者じゃなかったかと思う。まあ日本の優秀な脳科学者波である。なにかおもしろいことはない。
その青色LEDを発明した日本の科学者のような粘り強さもない。彼が軽蔑するヘーゲル時代の博覧強記もない。
たとえばベトナム戦争時、焼身自殺をした僧の行為がもっとも強力な自由意志の形だという。
だが少しインド宗教や初期仏教を知っていれば、そのような自己破壊的な自由の行使を修行と取り違えられていたことは知りうるし、今日でもそういう伝統はあることもわかる。その場合アメリカのカリフォルニア人から見るとそれは西欧的な自由意志の行使とみることができるものが、インド宗教の系列では、苦行を通じた煩悩ないし輪廻からの離脱の単なる一便法であまりおすすめできないとはコッホの場合には考えられないのである。

だいたい無意識の章はまったく新しいことはない。自由意志ではリベットの研究を受け入れている。問題は、たとえば神との契約とか、社会契約とか、実際の民事的な契約には、自由意志が必要なのである。コッホが科学的に自由意志を否定しようとしまいと、神との契約は多少問題になるかもしれないが、社会契約や民事契約が幻想であって、契約を何ら履行しなくて良いというノーベル賞級の債権放棄法則が誕生するわけではない。

宗教的にではなく、社会的に日本は、契約社会ではない。契約の主体の成人性の概念がない。その代わり未成年、あるいは乳幼児へのしつけは欧米基準で言ったら、何もないに等しいのは親日家の日記の多くが語るところである。そして成人になると、自由な権利を初めて手にするのであって、自己責任である。

「自由」というのは、このように社会の問題である。自由意志の概念の問題で、これを問題にした脳神経生物学者はいるんだか?はい自由意志を科学的に否定しました。すべての契約は不自由な意志に基づくから無効です。

本来契約社会的でない日本人でも契約社会のシミュレーションは可能である。最近はその点についてグローバルスタンダード化しているので、ますます脳神経生物学者の議論は迷路に陥っているとしか思えない。

そういうことで大衆小説家村上春樹に思い入れをしてしまう奴の本はその程度である。
内面の冒険をしているが、社会的契約はしないのである。まあノーベル賞向けのパフォーマンスで、香港の民主活動家の学生を支持するというコミットメントを表明するが、香港には行かないのである。

それとフランシス・クリックのノーベル賞には疑惑があるそうである。つまりDNAはクリックとワトソンの理論なのだが、彼らは同時に実証的研究をしていた人のデータを秘密裏に見ていたのである。理論が正しいのは問題無いとしても、そのデータを見て確信を得たことがノーベル賞を受ける論文を書かせる非常に大きな条件となったことは疑いの余地がない。

クリックが栄光のDNAの業績に背を向けて、脳理論に急に転じた事情について詳しく分からない。だがクリックは根っからなの理論家で、殆ど実験をやらない。

なぜコッホをクリックが必要としたかといえば、そういう理由もあるからなんじゃないのと思うほど、平凡な内容の本だったな。

さて前著『意識の探求』も読むが、その前にジョン・R・サール『行為と合理性』が手に入ったので、そっちを先に読む。
posted by Kose at 15:12| 哲学社会科学エッセー

コッホについて(1)

昨日午後だけで116/343pという進捗状況で、『意識をめぐる冒険』は相当優しい部類に入ると思う。
優しそうに見えるが、内容は目立たないかもしれないがムラが多い。クオリアに関する自問自答は相当長いが、脳の科学研究の正統性については断言である。方法論について自問自答はない。
その骨相学的局在論についても、1節がアサインされているだけである。
今のところ、一番分量が多いのはクリックとの1998年の「ネイチャー」論文の第一次視覚領野(V1)、つまり網膜の情報がすべて最初に到達する領域(後頭部にある)は、視覚意識に関与しないという面白くもあり瑣末である研究についてである。理由はもっと高次の意識に関わると推察される前頭葉への経路をV1は持たないからである。
V1はちょうど手ぶれ補正のないデジタルビデオとおなじで、ぶれまくる。とくに眼球はサッカードと呼ばれる自発的微動(オレの推測では、視覚の冗長度を高めるためだと思うが)がV1では反映される。このブレは視覚意識には反映しないので、手ぶれ補正回路がもっと高次のどこかにあるわけだ。すると補正するフィードバック経路が低次の視覚にかかっており、それゆえ、このフィードバック経路にを通じて、盲視は可能な余地が考えられるとか昨日眠る前に考えて寝た。
まだ全然途中だが、コッホ先生でもよく知られていることと、ネットワークや高次については殆ど知られていないのじゃないかと思われる。そのため局在論はとりあえず仮説の目印としては捨てがたいわけだ。
だが多くのニューロンの特性(非常に多いX非常につながりの可能性が多い×ネットワークに飛躍がある、可塑的=エーデルマンによれば再現的)と、脳の局在論は不整合であるのは明らかである。もちろん、進化的により低次の脳組織が固定的なのはやむを得ない。それは鼻が両目の間にあり、鼻の穴が2つあり、口がひとつあるのと同じことである。この特徴は魚でもだいたい同じである。コッホにとっては目が2つであることも神秘になってしまうそうだ。定量的に目がふたつある理由はない。その程度に一定の哺乳類に意識がある理由はない。エーデルマンでも進化論的に有利だからである。この程度の幼稚な考えが、脳研究の根幹に存在するので、コッホのようなムラが生じてしまうのである。
コッホのこの本は例の「脳の絵がない」。だから読みやすい。まあ脳の絵の十個くらいの名前は知っていた方がいい。おれは数冊読んでいるのである程度わかるから速い。そんなものWikipediaで調べてプリントアウトして、必要におおじて見ればいいのである。
ブロードマンの脳地図 Wikipedia



意識があるかないかについて、コッホは相当文章を割いているが、実際に視覚と意識の関連を書いているクリックとの論文部分で意識について何ら躊躇がない。

ええ、テツガク畑の人はびっくりだよ。オレはテツガク畑じゃないから許すけど。

ちなみに自信満々のコッホである。訳者はコッホの弟子で、しかも翻訳家がサポートしているが、読みやすい文章なのに事実誤認がほったらかしである。ちゃんと訂正するか注をつけるべきである。
1)日本人は寿司の味はわかるが、ワインの味はわからない
 脳の話をしているのだから、このような文化相対性を持ち出すのは適切でない。もちろん日本人はサケの味にはうるさいのである。これはあらゆる学問に対してコッホが軽率なことを示している。サールはワインの話だけ、自分の車の話だけした。
2)禅は恍惚感である
 これはカリフォルニアのヒッピーの誤解である。これは訳者は不適切だと注をつけるべきである。禅はヨーガとは異なり、単に平静にすること/できないことを体験することにすぎないと思われる。坊主が座っているだけでマリファナやっているみたいなハシのどこが科学だ!?
3)日本の戦争自体の太陽を模した国旗
 旭日旗のことである。こういう表現になったのは、コッホが高麗大学で長い教授経験があるからである。旭日旗は海軍旗であることは日本人は知っている。これをそのまま訳した訳者のどこが超訳なんだか?直訳じゃないかと思う。まあネトウヨじゃないから許す。

さて意識!
実験の結果、二つのグループの患者たちの意識のある・なしは、前頭領域と側頭部の感覚皮質領域とのあいだにおけるフィードバック・ループの有無にはっきりと対応していた。二つつの領域の間にコミュニケーションが成り立っていれば意識はある。。フィードバックがなければ意識はない。p108

この局在論とかなり曖昧なメタファーは何なのだ。それでこれしかこの事象の説明がないのである。つまりふたつの領域を「ちょん切る」と意識の有無に大きな影響があるが、それ以上でも以下でもない事実だということである。だからなぜどのように・・・という彼の関心の向かない分野についてのこの量の少なさと、本論の分量のむらについては結構あんぐりする。

と文句を書いたが、約三分の一昨日読めちゃうくらい読みやすいし、もっとひどいほとんどの脳に関する本に比べれば、多くのテーマや主張にエキセントリックにならず、今まででまあかなりいいと思うよ。エーデルマンの方が、テツガク問題については圧倒的に詳しいし、間違っているかもしれないが推論はエキサイトだ。

さて、クリックなんだが、調べたら、ノーベル賞に問題があったらしい。クリックもワトソンも理論研究しかやっておらず、なんとマイナーな実験研究者のデータをちょい見して、自分らの理論の正しさの証拠を確信してノーベル賞のもととなる2pの記事を投稿したそうだなのである。

これは有名らしい。

だからかどうか知らないが、クリックはDNA研究を離れる理由はあったわけだ。
そこでクリックは本当に理論家で、ほとんど実験をやらない。だからコッホを必要としたともいえるかもしれない。

う〜ん!
posted by Kose at 09:05| 哲学社会科学エッセー