2015年10月03日

前件肯定の条件法批判のソース

前件肯定の「条件法批判のソース」を掲載する。
「アキレスと亀」はパブリックドメインで公開されている。翻訳も。
サール先生の「アキレスと亀」への言及箇所は全文引用した。
 サール先生の翻訳で「肯定式」とされているのはラテン語modus ponensで、「肯定によって肯定する様式」の意味。通常妥当で単純な推論のこと。前件が真である場合の条件式から後件が真であることを導くため、前件肯定とも言う。「モーダス・ポーネンスは古代に遡る」と英語版Wikipediaに書いてあるから「アキレスと亀」(ゼノンのパラドクスの登場者)が出てくるのはあり得るというのが、ルイス・キャロルの設定か?
 妥当な推論の非形式的特性が何かは俺はわからん。バカだからな。
 妥当な推論自体は、常識の問題か、あるいは学問の実質的内容であろう。

What the Tortoise Said to Achilles
https://en.wikisource.org/wiki/What_the_Tortoise_Said_to_Achilles


亀がアキレスに言ったこと What the Tortoise said to Achilles
ルイス・キャロル Lewis Carroll
石波杏訳
http://www13.plala.or.jp/nami/tortoise.html

ジョン・R・サール『行為における合理性』での変形した引用
『行為と合理性』p19〜24
2.合理性とは、合理性の規則に従うことに尽きるのではないし。そうすることにおおむね存するのですらない
 古典モデルの第二の主張、すなわち合理性とは規則の問題であり、われわれがそれらの規則に従って考えたり行為したりする程度に応じてのみ、われわれの思考や行動は合理的なのだという考えに移ろう。この主張を正当化せよと求められたなら、伝統的な論者の多くは、おそらく論理学の規則に訴えるであろう。古典モデルの擁護者が示しそうな事例のうち、最もわかりやすいものは、たとえば単純な肯定式の論証である。

もし今夜雨が降るならば、地面が濡れる。
今夜雨が降る、
ゆえに、地面が濡れる。

この推論の正統化を求められたなら、肯定式の規則に訴えたくなるだろう。すなわち、pとpならばqは、qを含意するというものである。

(p&(p→q))→q

しかしこれは致命的誤りである。こう言ったら最後、ルイス・キャロルのパラドクスから逃れることはできない。パラドクスを復習しよう。アキレスと亀が論争をしており、アキレスはこういう(この例はルイス・キャロルのものとは異なるが、論点は同じである)。「もし今夜雨が降るならば、地面が濡れる。今夜雨が降る。ゆえに、地面が濡れる」。それに答えて、亀が言う。「よかろう、それを全部書いていくれ、全部書いてくれ」。アキレスがそうすると、亀が言う。「『ゆえに』の前にあるものからその後にあるものにどうやったら行かれるのか、行かれるのか、わからんね。その移行は何によって強制されるのだ。そもそもその移行は正当化されるのかね」。アキレスは答えてこういう。「この移行は肯定式の規則によるのだよ。つまりpと、pならばqは、qを含意するという規則だ」。「よかろう」と亀は言う。「ではそれも書いてくれ。何もかもぜんぶ書いてくれ」。アキレスがそうすると、亀は言う。「ぜんぶ書いてもらったが、地面が濡れるという結論にどうしてたどり着くのか、まだわからんね」。アキレスは言う。「どうしてわからないんだ。pと、pならばqと、pとpならqならばqからはqを推論して良いという肯定式の規則からはqを推論できるじゃないか」。「よかろう」と亀は言う。「では、それもぜんぶ書いてくれ」。この先どうなるかはおわかりであろう。われわれは無限後退に陥るほかないのである。
 無限後退に陥らない方法は、推論の妥当にとって公的式の規則はいかなる役割も果たさないと考えることで、最初の致命的な誤りを回避することである。導出の妥当性は、肯定式の規則から得られるのではない。ほかのものの助力なしに、推論はそのまま完全に妥当である。より正確に言えば、それ自体で妥当な無数の推論に見られるパターンを描くことによって、肯定式の規則のほうが妥当性を付与されるのである。それは前提から結論が帰結するからにほかならない。語の意味自体が推論の妥当性を保証するに十分であればこそ、そのような無数の推論を記述するパターンを定式化することも可能となる。しかし、推論がそのパターンから妥当性をえるのではない。いわゆる肯定式の規則とは、それ自体で妥当な無数の推論にみられるパターンを述べたものにすぎないのである。つぎのことを忘れてはならない。「pと、pならばqから、qを推論するにあたって、規則が必要と考えるならば、pからpを推論するにあたっても規則が必要になるだろう」。
 この論証に関して言えることは、妥当な論証のいかなるものに関しても言える。論理的妥当性は論理学の規則に由来するのではないのである。
 この点を正確に理解することは大切である。肯定式を規則としてではなく、もうひとつの前提として扱ったしまった点でアキレスは誤ったのでだと言われることがよくある。そうではない。アキレスがそれを前提としてではなく規則として書いたとしてもやはり無限後退は生じたであろう。導出の妥当性は前提及び推論の規則に由来するということも同じように誤りである(まさに同じ過ちを犯している)。そうではなく、妥当な推論の妥当性において、論理学の規則は何の役割も話していないというのが正しい。論証が妥当なとき、それはそのままでだとうでなければならないのである。
 我々は高度な知識を持ってしまったせいで、実はかえってこの点を理解しにくくなっている。というのも、証明論があまりに華々しい成功をおさめ、コンピュータ科学などの分野で重要な成果をもたらしたことから、われわれは、構文論において肯定式の役割を果たすものが、論理学の「規則」とほんとうに同じものだと思ってしまうのである。しかし、それはまったく別である。



という形の記号が

p→q

という形の記号の前に書かれているのをあなたが見たとき、あるいはコンピュータがそれを「見た」とき、あなたあるいはコンピュータは



という形の記号を書く、という規則が与えられたとしよう、この時あなたはひとつの規則を手にしており、あなたはそれに従うことができるし、それを機械にプログラムして、機械のはたらきを因果的に決めることもできる。これは証明論において。肯定式の規則の役割を果たすものである。そして証明論では、この規則は単なる記号に対して働くものであるがゆえに、本当に実質的なものである。その規則は、それ以外の点では「解釈されることのない形式的要素」*に対してはたらくのである。 *「」はおれ。
 現実の推論では、肯定式の規則はいかなる正統化の役割も演じないのに、われわれはこうして、その事実に気づかなくなってしまう。証明論や構文論のモデルを作り、現実の人間が行う実地スや内容のある推論過程を、そのモデルが正確に写しとるようにすることは確かにできる。そしてもちろん誰もが知っているように、モデルを用いてできるさまざまなことがある。構文論が正しければ、最初に意味論を入れてやると後は勝手にことが進み最後に正しい意味論が出てくる。構文論的変換が正しいからである。
 名高いゲーデルの定理を始め、よく知られた問題がいくつかあるが、それには関わらないことにすると、機械の推論モデルによるシミュレーションが高度になったおかげで、われわれは意味論的内容を忘れてしまうのである。しかし現実の推論では、推論の妥当性を保証するのは意味論的内容であって、構文論的規則ではない。
 ルイス・キャロルのパラドクスに関連して、哲学的に重要な事柄が二つある。第一はこれまで検討してきたもので推論の妥当性において規則は何の役割も果たさないということである。第二の点は、飛躍に関わる。「われわれは、論理的関係としての帰結関係や妥当性と、人間の自発的な活動としての推論とを区別しなければならない」。われわれの考察した事例では、前提から結論が帰結し、ゆえに推論は妥当である。しかしこのことは決して、言ん拾の人間がこの推論を行うことを強制するものではない。推論という人間の活動には、他のあらゆる自発的活動と同じく、飛躍がある。仮にわれわれが、この推論はそのままで妥当であり、肯定式の規則は推論の妥当性にまったく寄与しないという点をアキレスと亀に納得させることができたとしても、推論を行うことを拒否するという不合理を亀が発揮することはありうる。飛躍は、論理的推論にも当てはまるのである。
posted by Kose at 12:03| 哲学社会科学エッセー

条件法のメモ まとめ

昨日の睡眠薬作用下より少しまともになった。

条件法は、合理的でない。これがサール先生の言いたいことであり。ルイス・キャロルは、完全に合理的であるためには、「ゆえに」「ならば」を強制する論理性に合理性はないということでアキレスを無限後退に陥らさせた。
そもそも条件法の命題式が合理的でなければならないというのは保証がない。
その判断が合理的であるという別の基準が必要であるか、単に自明・常識、規約であるかのいずれかである。
コンピュータが動くのは規約のためである。そのためコンピュータは判断しない。ゆえに判断する人工知能は存在しない。

キャロルの条件法の否定は、記号論理学における自然言語の適用がまったく恣意的で何の保証もないのではないかというぼくの疑いと同じものである。数学やトランプは、条件法の外部で合理化された規則の体系である。とりあえず、部分的な条件法を扱うに際して、その体系は保証されていると前提するのが慣習である。

自然言語では、日常言語では、恣意性は顕で、条件法が合理的判断かは、その適用者、われわれの判断に依存する。合理的でないならただのことばあそびである。そういうわけですべての「論理トレーニング」の類の本は「あやまり」である。一体論理の見かけの合理性で自然言語を強姦するか、既存の合理的判断に論理のファッションをまとわせるのか明確な区別はない。

サール先生の議論に従えば、ある自然言語の論理的判断が合理化されるためには、たとえば数学の公理系が存在するかのように世界の部分があると言わねければならないだろうが、そんな保証はない。

では論理分析とは何か。
ある思弁的命題と別の思弁的命題の意味論的関係が、「含意」「必要」「十分」かどうかを分析するだけである。じゃないか?
まだ不十分である。
posted by Kose at 08:02| 哲学社会科学エッセー

2015年10月02日

条件法のメモ(誤字訂正)

睡眠薬が効いているので長く書けない。(のに長い)

ルイス・キャロルのアキレスと亀のパラドクスは、「条件法は論理的でない」ということである。つまりそれはあらかじめ存在する信念の表明のファッションのひとつでしかない。

条件法は意味論的自明性に訴えて、前件から構成への飛躍(判断)を論理的であるかのうように形式化しているというだけのことである。これは『行為と合理性』に引用されていたが、ルイス・キャロルの「亀とアキレスが言ったこと」で確かめた。それはアリスシリーズではなく独立した論文として哲学誌『マインド』に掲載されたもので、その問題性は十分知られている。
つまり、「雨がふるなら地面が濡れる」という条件文が真かどうか「仮定」として問題に付されないもののなんとなく「真」であるように思わせる効果が条件法にあるということである。

野矢茂樹教授の例「雨が振らなければ場遊園地に行く」も慣習的自明性で真であると仮定したちがだ、雨がふることと、遊園地に行くことは独立の事象なので、野矢茂樹氏の解釈ではこの「条件」はこどもとの「約束」形で自明化される。

するとある独立した事象間の条件を規約で結びつけて良いのなら。「枯れ葉が落ちたら、私は死ぬ」というドラマちっくなファンタジーですら条件法は成り立つ。

さらにまったくのファンタジーで、指輪を手にするならば、世界を統べる権力を手に入れられるという条件はなんだろう。念仏をのなえれば、阿弥陀様に救済されるというのはどうだろう。

要するにある力を獲れば、その力に従属することを起きる

というまったくファンタジーでも条件法は機能しているのである。もちろんその自明性を保証する文脈はことなるのだが。

問題はP→Qはひとつの無反省な信念である。

よく点検すると、たとえば哺乳類ならば体内受精をする。カモノハシは卵を生む。カモノハシは哺乳類ではない、は間違いである。

そもそもの「P→Q」を記号論理学者は、自明な事例をあげて、その論理的飛躍(判断)を直視しない傾向がある。

野矢茂樹教授の例でいれば、サール先生的にその条件法には莫大なネットワークとバックグラウンドが存在するのは言うまでもないが、果たしたアドホックな規約的条件を条件法の事例として良いのかかなり強い疑問が残る。

まだ論理学をかじりだしたときに野矢教授のひどい例にあったので、俺自身は、すべての条件法を集合論に置き直して確かめる習慣すら付いたのである。

さて数学やたとえばトランプゲームではそういうアドホックな規約性は免れていると信じたが、それもキャロルのパラドクスで疑わいくなった。

数学やトランプ自体、それ以上遡れない自明の合理性の出発点となる公理、あるいは単に慣習的に確かになったカードの合理的組み合わせすら、不十分なのである。なぜなら、判断が先にあり、それによって条件法に整理されるだけだからである。

モンぢあの亀とアキレスの対話は
A)同一のものに等しい2つ物は等しい
B)A=Bであり、かつB=Cである
「それゆえ」
C)A=Cである

どこがおかしいか?ルイスは、「それゆえ」はC)を帰結しないという。にわかに信じがたい。
これはユークリッド幾何学の証明を簡略化したものである。あなたはユークリッド幾何学に挑戦している。

実際には、「同じものは同じものだ」という自明性に依存している。
それでも飛躍はあるのが、A=Bは、B=Cは具体的に一定の量が等ししいこと形式化したものである。なのでようが等しい物は表現のいかんのあれ量が等しいと言っているだけなのが、抗いがたい自明性のひとつの形式である。もうひとつは、これがユークリッド幾何学のトリッキーなところであるが、ある辺や角度が等しいトリクを思いつくことである。たとえば三角形の底辺と並行で頂点を通過する線を考える。三角形の底辺以外の線をそのまま伸ばすと、底辺の角と等しく、頂点の対角も等しい、それらは頂点を通過する並行性と同じである。「それゆえ」並行性は移転に対して180度(直線)「だから」、内角の和は180度である。

どこに推論の欠陥のだろうか?それは三角形の底辺以外の線分を底辺に並行で頂点にまじわる方法において、平行線は180度であることと、並行性に引いいた内角は等しいこととを結びつける発見を「飛躍して」(判断して)結びつける時、それは合理的でないのである。両方の命題は合理的であるが、それを結びつけるときに飛躍がある(判断がある)、つまり三角形の内部の話を並行性の問題に結びつけるのは「飛躍」(判断)である。

さてそれはすぐに慣習化するが、そうするとあたかも最初から合理的に推論したかのように見えるのである。

A=B、B=C、B=CのABCはあらかじめ等しい。等しいから=で結ばれているのである。「ゆえには」不要である。
いわば「ゆえに」「ならば」は自明の、この場合ABCが等しい値を持つことを修飾する文彩の問題である。

問題はこれが自明でない時生じる。
「枯れ枝の木の葉がすべて落ちるならば、私の命は失われる」
これはファンタジーとしてある種の自明性はある。
「三角形が丸なら、フランス王の髪は禿げる」
何か教訓めいたものがあるかもしれないが、枯れ葉の例が互いに独立した事象を条件式にしたのを拡張して、そもそも独立した無意味な命題感の論理式である。

おもうに、一部ラッセルが命題を制限しようとしたが、それは意味論的に慣習的で系統的なものとはいえなかった。

今スマホゲームを開発する。とにかくなんであれ、三角が丸ならフランス王の髪が禿げる」という命題が充足されるものを作ることはかなり簡単である。なぜならコンピュター言語には論理が中枢で使われていうるからである。それによりラッセルが、フレーゲもそうだが、意味や指示の自然主義というあまり行かさない前提で論じていたことわからうのである。「三角が丸なら、フランス王の髪が禿げる」ゲームに慣れれば自明性は生じるが、その文脈以外では一般に無意味とみなされるだろう。

つまり条件式はかなり無意識のうちに、思っている自明の意味を、あたかも論理的であるかのうように示すファッションというべきじゃないかと思っているが証明には成功していない。
posted by Kose at 23:44| 哲学社会科学エッセー

2015年09月27日

『マーガレット・ミードとサモア』を読んだ

原著出版が1984年なのにみすず書房翻訳出版が1995年である。
英語の本である。
1984年俺はたぶん文化人類学の教授とレヴィ=ストロースの『野生の思考』を読んでいた頃であって、山口昌男イケイケ状態であり、ニューアカブーム(要するにポストモダンだが)全盛期である。
その時、『マーガレット・ミードとサモア』が出版されていたら、英語だからななんといっても、10年分くらいの日本の文系のバカ話はかなりなくなっていたと思う。少なくとも山口昌男は、すぐに失脚したと思う。

驚くことにミードの『サモアの思春期』は、ウソと間違いとイデオロギーでしかないと言う結論である。
『思春期』の影響はいまでもWikipediaの支離滅裂なサモア独立国(旧西サモア)の項目に健在である。
ラグビーW杯サモア戦が10月3日にあるが、サモア人に会って、「フリーセックス」の話をしたらぶっ殺されることは間違いない。

文化人類学の教授には世話になった。彼はフィールドワーク絶対主義だったので、すべての文化人類学理論を眉唾だと思っていたのだ。『野生の思考』も散々な言われようだった気がする。何でそんなこと言えんだよとしょっちゅう言われた気がする。

ミードは事実上サモア語もできなかったし、現地の人々と信頼関係を築くフィールドワークも一切しなかった。そのでたらめな内容はひとつは、遺伝子決定論というより優生学に対するユダヤ系移民である師匠フランツ・ボアズの文化決定論の猛烈なバイアスと、彼女がサモアでわずかに話を聞いた彼女の宿に来た少女たちの真っ赤な嘘の結合だろうということである。少しでも事実を考慮していたら(少なくとも19世紀はじめから文献の蓄積はあったがミードは読んでいなかった)、『サモアの思春期』は存在すらしなかっただろうということだ。

この本が、生物学的決定論と文化的決定論の間で書かれているのは、そうでなければこんな馬鹿話が学会や公衆の間で受け入れられるはずもないからである。それはヒトラーの優生学が受け入れられないのと同じ程度にである。

文化人類学についてはスーダンの諸部族が、主観的に自称されたものでなく、イギリス植民地が勝手に名付けたものをエヴァンス・プリチャードが短期の滞在だけで「古典的著作」を書いてしまったことが明らかになって愕然としのは少し前の話しである。スーダンの場合戦後ずっと内戦をしていたので、満足な追跡調査ができなかったのである。いまだディンカ族とヌエル族が戦争しているとかいうのは、日本人と沖縄人が戦争しているというくらいひどい話である。

フリーマンの口ぶりでは、ほとんどすべての文化人類学は、調査し直す必要があると言う程度である。

おれは文化人類学は余技だったからいいが、1985年から1995年までの間に文化人類学を専攻した学生は一体どうしたらいいんだか?もちろん当時一緒に『野生の思考』を読んだ真面目な文化人類学専攻のやつもいたんだから。確か当時に都立大の人類学に進学したんじゃないかな?

とにかくこの翻訳のタイムラグは犯罪的だ。Wikipediaのサモアのエントリーはそもそもしょうがないんだが。というかもし文化人類学専攻の学生というものがこの世に存在するなら、あんなエントリーはありえないだろう。とにかくサモア人にフリーセックスの話題は禁物である。日本人にフジヤマ、ゲイシャ、ウタマロというくらいひどい話しである。

さて、一通り社会生物学論争関連の本は読んだので、サール先生に本気で復帰するつもりだ。風引いてだるくて、『マーガレット・ミードとサモア』を読むほうが楽だったというのもある。

どんなに社会生物学論争の勝利を認めても、進化生物学とか脳神経生物学への還元論をみとめる理由は感じられない。社会生物学論争自体、脳神経科学からくらべるとすでに古い。じゃあ脳神経科学で何がわかっているかというと、占いやトリックと区別できないほどひどいものが大半だということだけである。

アメリカが脳と人工知能のプロジェクトをはじめて20年位経っていると思うが、それにしてはひどい。科学のパラダイムシフトが成功するなら、もっと驚異的な成果が出ていないとおかしい。

かなりな学者が単に、広告代理店のデザイナーのように、国家プロジェクトにぶら下がって生計を立てているとしか考えにくいのである。
posted by Kose at 20:31| 哲学社会科学エッセー

2015年09月08日

社会生物学とバックグラウンドと脳

サール先生のバックグラウンド、脳、生物学がどう関係するのかについて示唆的である。
脳の「何も書かれていない石板論者」にはかなりの文化人類学者、ある種のフェミニスト、まだ名指されていないがすべてのポストモダニストが含まれる。ラカンやフェミニストでもあるリュス・イリガライらポストモダニストが含まれるだろう。イリガライはソーカルのターゲットにもなった。1990年代における「現代思想」の明確な消滅現象は旧ソビエトの崩壊と同じくらいあっけないものであった。
 仮に社会生物学がジョン・オルコックの報告するとおり「勝利」して、反科学主義的文学理論が決定的に敗北したのは、まったく以下の様な主張に反科学主義文学理論が反論できなかったことに由来するのかもしれない。当時おれ、病気がひどくて、全然知らなかったのである。
 たとえば1980年代山口昌男らが率いた記号論は2000年代には完全に消滅した。その一部、たとえば池上嘉彦は、認知言語学に転向した。認知言語学は、チョムスキーにせよソシュールにせよ、言語の自律性を拒否するから大きな転向である。
 以下の文は、なぜ人工知能が誤りかの非常にわかりやすい説明にもなっている。
 
「社会生物学者にとっては、脳も、生物が持つ他のあらゆる内的メカニズムと同様に、本質的には繁殖のための器官である」

 社会生物学者なら、人工知能AIがどれだけ馬鹿馬鹿しいものか、サール先生より専門的に説明できるだろう。人工知能が「繁殖のための器官」だと考える人工知能学者はゼロであろう。したがってそれは、文化人類学やある種のフェミニスト同様「何も書かれていない石板論者」にグループされるだろうからである。

 やっと『社会生物学の勝利』佳境に入ってきたぜ。

文化的伝統の多様性、文化が急速に変容すること、そして、ある社会から別の社会へと移された子どもが、その場所の言語や習慣を習得することなどはみな、人間の行動が高度に可塑性に満ち、学習納力が大きく関与していることを物語っている。その結果、多くの人々は、過去の自然淘汰を生き延びてきた遺伝子のの働きは、私たちの行動発達にほとんど関係がないという不合理な推論を受け入れているのだ。しかし…すべての行動形質は、それが生得的であれ学習されたものであれ、遺伝情報と「環境」との相互作用の産物である。パプア・ニューギニアの人々、ツチ族の人々、イヌイトの人々、イギリス人がもっている伝統の違いは、文化的環境の違いから生じるのであるが、文化を学習し、文化が仕掛けたものを獲得する能力は、ニューギニアでもツチでもイヌイトでもイギリスでも、脳細胞の中で起こっている科学的な出来事によっているのである。問題の脳細胞は、遺伝子と環境の複雑な相互作用の産物である。適切な遺伝除法がなければ、文化伝統や社会的慣習を学習して獲得することを含め、行動の適応性を支える心理メカニズムの発達もありえないのである。

 …本当に問題なのは、自然淘汰によって、どんな脳とどんなたぐいの学習能力が進化したのか、である、何も書かれていない石板論者にとっての答えは、人間の脳は「あらかじめのどんな方向付けもなく」、考え得る限りのどんなものも学習する能力を進化させたということだ。

… 社会生物学者にとっては、脳も、生物が持つ他のあらゆる内的メカニズムと同様に、本質的には繁殖のための器官である。もし自然淘汰が、そうあるべきようにこの装置の進化を形作ってきたんのだとしたら、脳と、この素晴らしい構造が制御している能力とは、少なくとも、人類が過去に占有してきたのと同じような環境においては、その持ち主の個体の遺伝的成功度を上昇させる傾向を持つはずである。…何も書かれていない石板のような脳とは異なり、あらかじめ準備のできている脳は、内容豊富で、人間集団で生じる繁殖をめぐるきょうそうにとって意味のある環境情報を、他の情報よりもずっと容易に獲得するような、特別な神経回路を備えている。これは、個体が、遺伝的成功にとって意味ある特定の仕事をこなすのを助ける脳である。
ジョン・オルコック『社会生物学の勝利』新曜社、2004、p228-231
posted by Kose at 19:40| 哲学社会科学エッセー

2015年08月30日

フレーゲと共通指示の問題

さっき夜中に目が覚めたら、「宵の明星」「明けの明星」についての簡単な理解が思いついた。

フレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインらにとってできるなら受け入れたくないのは

意味が頭のなかの心理学的な観念、イメージのような漠然としたものであること

であろう。
たとえば、

「白鳥は哀しからずや空の青うみのあをにも染まずただよふ」

の意味という風に平民は思う。(若山牧水)
そしてこれに対応する事態は、一義的に存在せず、特定の解釈の文脈をもつことで
色の対比、地と図の対比、生命と自然との対比が、凝縮される。そこでAIには無理なのだが、日本人という人の亜種の場合、少なくともひとつの漠然とした「意味」を心に抱く。抱かない場合もある。かなりの人は抱けない。あえて漠然としたものを陳述文に変えると
「白鳥は空の青海のあをにも染まらずただよふ」iff「若い人は純粋で孤独であることもまだ知らず、これからそれが失われると思うと哀しい」
 *今のゆとり世代がスマホ世代がどうなのかは「全然」知らない
右辺は、左辺の自然のイメージを人についてのイメージに置き換える慣習によって、人により顕在的な陳述文は異なり、国語の先生は「点」をつけるかもしれないが、国語の先生は左辺から右辺への移行に点をつけることはできない。だから、右辺を持てない人は想像力とか人生について背景的理解がないということである。
構造分析は、色、地と図、生命と自然、対象との距離、哀しいとただようの隠喩で与えることができる。
正しい解釈に近似したものは出せるがそれを右辺のひとつの明示的文にはできない。これがフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインが嫌いなタイプの意味である。

これが文学だが日常言語でも多くある。
「うるせーな」iff「あなたの声や雑音が大きい」
は間違いである
「うるせーな」iff「あなたが私に干渉することがわずらわしい」
たぶんだいたいはそうである。
これは比喩と呼ぶにはあまりに当然な語の使用で、むしろ慣習的派生でしかないだろう。

さて、分析哲学の言語学は、もっとも何にでも点数を付けたい国語の先生が可能な限り厳密な手法を発明したということである。

宵の明星 明けの明星

宵の明星は夕方、明けの明星は夜明けに、地平の近くで強く光る金星の別名である

これは意味の解説として間違いだというのがフレーゲ先生の点数である。

「宵の明星」iff宵の明星
「明けの明星」iff明けの明星

である。これらは指示もしくは対応と呼ばれる。
「よいのみょうじょう」「あけのみょうじょう」が何なのかは知りえない。
少なくともフレーゲは知り得ると言っていない。ラッセルも同様、大半の分析哲学は同様である。
ただ唯一興味深いのはこのような例である。

「宵の明星」iff「明けの明星」

フレーゲはiffを=で表現しているが「つたない」。それが彼の「意味と意義について」を馬鹿馬鹿しいともわせる点である。

さてこうした場合

ぼくは明けの明星を今朝見た

という文をかんがえる。だが哲学者には「ぼくは明けの明星を今朝見た」というのが何を意味すのかわからないか関心がない。
彼らに関心があるのは、論理的文法だけである。
これを受け入れるのはかなり難しい。フレーゲやラッセルもしらずしらず間違えるほどだからである。

さて

明けの明星iff宵の明星

なら

ぼくは宵の明星を今朝見た

が可能であるはずである。これが「共指示の代入可能性」の失敗である。

これが節約する限り節約して残る「指示」以外の残余としての「意味」である。

これを受け入れるかは、趣味の問題である。
というのもフレーゲやラッセルの事例は、明らかに彼ら固有の、あまり目立たないが視点を実は導入してそれらの例を選択しているからである。

彼は出口から入ってきた

これがおれが発明した文である。部屋にドアがひとつしかなければドアは入り口でありかつ出口であるのはあたりまえである。そして、入口か出口かは出るか入るによって決定される。つまり彼の行為の視点によって決定される。だがそれを、第三者にとって入口か出口かは決まっていない。

フレーゲ、ラッセルは、心理学的意味のない事例を出しているようだが、「宵の」「明けの」「フランスの」というとき、心理学的意味、つまり彼らの文化的慣習的視点を挿入しているのである。したがって分析哲学以前に、そのような文化的慣習的視点が入らないかどうか彼らの基準によればもっと厳しくなくてはならず、ラッセルもフレーゲも自分自身の課したテストで赤点なのである。

そのように厳しいテストをクリアできる自然言語がどれだけあるのか非常に懐疑的であるため、ぼくはラッセルとフレーゲを馬鹿馬鹿しいと思うのである。

「雪は白い」iff雪は白い

すら無害だと思うかもしれないが、それは白雪姫(Snow White)由来である。地中海を必至で渡ろうとする不法アフリカ移民、そして痴呆で脳梗塞で僕らの愛情ある世話がないと生きていけない母にとってはクソ食らえである。

結局慣習的意味を心理学的意味とみなすフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインはかなり素朴なのである。AIの発達は、慣習的意味を今のところデータベース化し、できるなら文例から自動学習するというものである。だが、慣習的意味は「うるせーな」「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」のように構文上の過小決定を免れない保証についての意味論を言語哲学は持たないのである。

補遺
このような形式論理の要請に応えられないのが自然言語である。別に語用論とか意味論にうまい仕組みがあるとは思えない。
論理に自然言語を代入して構わないという保証はない。それは自然言語に閉じた規則がないからである。
閉じた規則があるのは、チェスやトランプの伝統的に淘汰されたゲームと数学、そしてコンピュータゲーム(結局あたかも社会的現実のような数学)だろう。コンピュータゲームは全然やらないので知らん。数少ない経験でも無限循環におちいったり、裏ワザが発見されるのは知っている。
自然言語に近くて安全なのはサイコロ、トランプ、チェス、将棋だろう。
これら以外で論理の入門をするのは無意味である。断言する。
これは論理の記述が、別の論理的規則構造によって真か偽を保証するかである。
無難なのは形式論理は自然言語から手を引いいて、数学の予備分野に徹することだと思う。
そうするとなぜ「中国語の部屋」なのか、何らトリックなしに理解できるからである。
ぼくはトランプが単純な割に論理の入門に十分だと思うからいいと思うんだけれどね。
類似の例で囲碁があるが、あれは規則がなさすぎで、AIが手を出せない例である。そういうものには誰も触れようとせず、人工知能が人類を滅ぼすとかノストラダムスまがいのことを言っちゃって、ラッセル、フレーゲ的赤点なんじゃないかと思うのである。

もし論理に躓いたらおれはトランプに事例を置き換えて練習するのを進めるね。最悪わからなくても、実際にトランプで遊べるし。

実際人間の知的営みは、今朝のように、朝目が覚めたら、とつぜんフレーゲの難点の攻略法を思いついていて、急いで文章に直してみるというようなことがあるのだ。
昔音楽漬けだった頃、朝起きると曲ができていて、忘れる前にレコーダーに鼻歌吹き込むとか結構あったな。まあたいていろくでもないんだが。

今朝のこれもろくでもないかもしれない。
posted by Kose at 03:41| 哲学社会科学エッセー

2015年08月28日

「社会生物学論争」とジョン・サール

『社会的現実の構成』についてだが、『社会生物学論争史』(みすず書房2005年)にサール先生の名前が上がっていてびっくりした。

同p583(下巻)
 しかし、グロスとレヴィットは、更に先へ進んだ。彼らは、新しいアカデミック左翼からの科学への「敵意」の本当の危険は、科学その物に対してではなく、むしろ大きな文化全体に取っての危険であることを指摘した。この形で、グロスとレヴィットは、科学者に対してだけでなく、アメリカの大学のキャンパスで以前にあった「カルチャー・ウォーズ」における問題で既に警告を受けていた学者たちにもうったえかけた。実は、もし哲学者ジョン・サール(1990)を信じるなら、「ポストモダン」型の急進的な文化分析が科学まで拡張されるのは予想される事態にすぎなかったという。サールによれば、人文科学の新潮流は、もはや自ら西洋の文化的価値観の支持者とはみなさず。むしろ新しい世代の学生を政治的に急進化させるのが役割だとみなしていた。キャンパスの政治的主導権は今や人文科学とともにあると、彼は書いていた。
 新しい急進派人文学者たちの導きの星は、フランスのポスト構造主義及びポストモダン理論だった。テクストは今や疑惑にさらされている。ミシェル・フーコーは知識を権力と同等のものとし、ジャック・デリダは隠された権力の次元を暴くためテクストを「脱構築」する方法を提示した。あらゆる事物は ― 科学を含めて ― テクストとして扱うことができ、したがって脱構築できた…。そのうち明らかになるが、少なくとも、ソーカルとプリクモンの論議を呼んだ分析から判断するかぎり、アメリカのポストモダン運動は、フランス側の運動の創造性と比べると冴えない。
*グロス&レヴィッド、『高次の迷信』1994、で社会科学者と人文科学の一部から出されている最近の科学への異議申立てに対して反撃をおこなった(翻訳なし)

サール先生が1990年の時点でアメリカアカデミズムの危機を警告したのがこれで分かった。従って『社会的現実の構成』とソーカル事件が同時期だったのは偶然でなかった。1995年頃、ポストモダニズムに影響を受けたアメリカの文学部のアカデミック左翼に対する反撃がほぼ同時に起こったのである。

 アカデミック左翼には簡単な流行の方法論に過ぎなくなってデリダ自身が放棄した脱構築批評から(脱構築を放棄した後は殆ど何を言っているのか、俺の母以上にわからなくなった。例えば『法の力』はベンヤミンへの注の形をとっているが、ベンヤミンがドイツ革命時のスパルクス団に近い、反社会民主党的な革命的暴力を文学的に解釈して支持した新左翼の若造でしかなく、そのためベンヤミンとヒトラーに区別がつかないというテキスト外の歴史的事実を2行で書けばデリダの本を苦労して読むことはなにもない)、スピヴァクに代表されるポストコロニアル的フェミズム、そして社会学のエスノ・メソドロジーなどから発生したカルチュラルスティーが、「科学」を対象にするとき「科学の社会構成主義」が急速に勢力をました。もちろんサールの1995年の『社会的現実の構成』の一部は「社会構成主義」に対して「社会的に構成するとは何か」を明らかにしたと言っていいだろう。『サヴァルタンは語ることができるか』なんか何の中身もない。世界の最も抑圧された人の例を見つけてきて、アメリカ白人が世界を抑圧していると主張するのはアラブ人のシオニズムの陰謀説より信用は得がたい。

サール先生の1990年のエッセーは
The Storm Over the University
John R. Searle DECEMBER 6, 1990 ISSUE
http://www.nybooks.com/articles/archives/1990/dec/06/the-storm-over-the-university/

無料では閲覧できない。

サール先生の立場は1)1960年代のフリースピーチ運動の推進者であったにもかかわらず、その中のエスタブリッシュメントを破壊するというラジカリズムに対決した経験がある(運動の推進者になったのは、マッカーシズムの赤狩りの余波がアカデミズムに及んでいたことに対する反発からであった。『ジョン・サールとの会話』を参照のこと(未邦訳))。

 そして1971年なんかわけのわからない文芸雑越誌のペテンに引っかかってデリダの手先の編集者がよこしたエッセーに、週末9ページの回答を書いたら、『有限責任会社』を出版されたが、新聞に論評(「逆さまになった言葉」)を寄稿した以外反応しなかった。従って、サール=デリダ論争というものは本当に実在しない。テキストの外部はないというデリダ信者にはペテンにハマるほうが悪いという評価になっているようだ。
 おれが読む限り、論点が噛み合っているのはオースチンの「誠実性」が発話行為の必要条件かどうかという一点だけである。これは発話行為だけではなく、行為一般に意図があると前提していいかという問題に開かれているとおもわれるので、その咬み合っている論点についてデリダの見方は狭すぎるのは明らかである。テキストの外部はないからだ。

 なるほどふざけて『有限責任会社』という本を出す行為をほとんどのデリダ主義者は「まじめに」受け取ってきたのだ。それは悪ふざけである。ある意味、ソーカルが真面目な論文でふざけたのを真面目に掲載した雑誌が、まるで論文を理解していないのを証明されたのはデリダがしたことが天に唾する行為だったからその効果は絶大となったわけだ。

 そういうわけで、アメリカ大学におけるポストモダニズムの蹂躙的行為について、1990年ふたつの経験を踏まえて、今読めないけど、論評をしたのだと思う。

 「ジョン・サールとの会話」で語られていいるが、32歳の若き日のサール先生の立場は、自由な言論は支持するが、アカデミズムのラジカルな破壊には反対するという立場に対してはゆるぎはない。

 さて、社会生物学論争についての本もそうだが、実際には、素粒子物理学、進化論的遺伝子生物学、そして若干の脳神経科学が、もはや文学部のたわごとを許さないくらい発展し、その発展に大規模なコンピュータの再帰的な発達と応用があったことがしばしば無視される。

 ヒッグスによるヒッグス粒子の予言は1960年だとされる。その実証は2013年である。
 脳神経科学とか認知科学とかの発展についてサール先生はまじめに対応しているが、テキスト派はなすすべもない。そして日本は脳ブームの中で、ポストモダンなど忘れ去られたのだ。

 岡本裕一郎『フランス現代思想史』も似たようなものだが、もっとひどい。彼は歴史的判断を下しつつ、それに一定の評価をするのだが、彼らが「西欧近代批判」を行ったからだという。そして彼らから継承すべきものはその精神だという。だが、逆に彼らは西欧文明の正統な継承者であるという地位を批判しなが保持し続けられるのである。岡本はヘーゲル研究もやっているようだが、そういう弁証法についてさらに批判する余地はなかったのかねとおもった。

まだ全部ちゃんと読んだわけじゃないが、どちらもちょっとちょろいなと思う。
posted by Kose at 17:01| 哲学社会科学エッセー

2015年08月04日

『純粋理性批判』、things which are to be found in spaceの段落

ムーア先生の「外的世界の証明」のほぼ半分が費やされている、カントの「経験的に外的」について数少ない明白な説明を含む段落 ― 岩波文庫版訳、ケンプ・スミス版英訳、カント・オリジナル独語 ― を掲載する。
この段落が全体のどこにあるかというと、最後の付録2というマイナーな場所である。岩波文庫上中下巻のうち下巻の192頁にあたる

II 先験的方法論
 付録
 II(純粋理性の誤謬推理について)
 …
 第四誤謬推理(外的関係の)観念性の誤謬推理

の第10段落である。短い。
問題は
ドイツ語 die im Raume anzutreffen sind
英語 things which are to be found in space
篠田訳 空間において見出されねばならぬ物

の他に、ムーア先生は「to be met with in space」という言い回しの方を多用している。おそらくムーア先生はドイツ語オリジナルを参照していると思う

anzutreffenは、an-zu-treffenで、treffenは「当てる」「会う」「出くわす」「出会う」「起こる」
zu-treffenで、「正しい」、「当たっている」、「適合している」、「起こる」
anは分離動詞の前綴り

であるようだ。一般に「会う」か「見つける」である。なのでドイツ語で読むと「meet」そのものであることがわかる。もうちょっとドイツ語勉強する ― 暇だったら、あるいは飽きたら。

イマニュエル・カント『純粋理性批判 下』篠田英雄訳、(岩波文庫)、1962年
p197(A373)
 ところが『我々の外』という表現には、避ける事ができない曖昧さが必然的にともなっている。この表現は、或る時は物自体として我々から区別されて実在するような何かあるものを意味し、また或る時は外的現象にのみ属するところの何かあるものを意味するからである。それだから我々は、後者の意味における ― 換言すれば、心理学的問題は本来我々の外的直感の実在性に関するものであるという意味におけるこの概念から不確実さを排除するために、「経験的に外的な」対象を「空間において見出されねばならぬ物」と端的に名付けることによって、先験的意味で対象と称せられるような対象から区別しようと思うのである。


Imanuel Kant "Pure Critique of Reason" translated by Kmp Smith, 1929, p348(A373)
http://staffweb.hkbu.edu.hk/ppp/cpr/paral.html
The expression 'outside us' is thus unavoidably ambiguous in meaning, sometimes signifying what as thing in itself exists apart from us, and sometimes what belongs solely to outer appearance. In order, therefore, to make this concept, in the latter sense -- the sense in which the psychological question as to the reality of our outer intuition has to be understood -- quite unambiguous, we shall distinguish empirically external objects from those which may be said to be external in the transcendental sense, by explicitly entitling the former 'things
which are to be found in space'
.


Imanuel Kant, "Kritik der reinen Vernunft", 1781, p234(A373)
http://korpora.zim.uni-duisburg-essen.de/kant/aa04/234.html
Kritik der reinen Vernunft
by Kant, Immanuel, 1724-1804; Valentiner, Theodor, Published 1919
https://archive.org/stream/kritikderreinenv19kant#page/746/mode/2up/search/Raume+anzutreffen

Weil indessen der Ausdruck: außer uns, eine nicht zu vermeidende Zweideutigkeit bei sich führt, indem er bald etwas bedeutet, was als Ding an sich selbst von uns unterschieden existirt, bald was blos zur äußeren Erscheinung gehört, so wollen wir, um diesen Begriff in der letzteren Bedeutung, als in welcher eigentlich die psychologische Frage wegen der Realität unserer äußeren Anschauung genommen wird, außer Unsicherheit zu setzen, empirisch äußerliche Gegenstände dadurch von denen, die so im transscendentalen Sinne heißen möchten, unterscheiden, daß wir sie gerade zu Dinge nennen, die im Raume anzutreffen sind.
posted by Kose at 14:45| 哲学社会科学エッセー

ムーア先生が参照しているSmith Kemp訳『純粋理性批判』E-BOOK



その他テキスト版もあるよ
http://staffweb.hkbu.edu.hk/ppp/cpr/toc.html

とりあえず見つけたので掲載しておく。
Kindle本もある。Kemp Smithで検索すれば出てくる。
Immanuel Kants Critique Of Pure Reason (English Edition)2015/3/31 | Kindle本
Kemp Smith Norman ¥ 356


カントの空間について:
カントの話をつまみ読みすると、日常経験的な空間と、デカルト座標としての空間を徹底的に混同していると思われる。たとえば物を経験する空間は、最低限何か日常的経験に関係しているが、デカルト座標や幾何学は日常的経験になんら関係していない。そもそも日常的経験の対象が感覚の対象に過ぎず、感覚的対象が現象を可能とするデカルト座標が超越的空間だとしたら、なるほどすべては心の中にあると言いはることは可能である。だがである、カントは対象とか物が「空間的に」運動しているとはひとつも考えない。これは幾何学とデカルト座標を同一視するような曖昧さがある点からもそうである。デカルト座標の良い点は、運動を計算上表象できるということである。一切運動していない点はデカルト座標に対してどんな意味もない。これがカントの経験対象が超越論的に位置がないというその意味である。
カントは天文学の著書もあるので、まるで現在の国立大学の文系の馬鹿のように無知ではなかったと思うが。
さてカントが大好きな哲学者は、カントがどれくらい微積分を消化していたかもっと強調するべきだろう。ニュートンが確立したがライプニッツもそのアイディアはもっていたはずである。そうするとカントにおいて止まって点は、微積分によって解析可能になるのである。
したがって、カントのこの数学的欠陥を捉えれば、なぜ時空が直感の形式であると断定したことが相対性理論の直感に反する時空のあり方と同関係するかすぐに議論を進めることができるだろう。
なるほど同じ慣性系においてはデカルト座標と日常的経験は「同じ」である。カントはそのへんでうろちょろしているだけである。
相対性理論とか数学の公理化が始まった20世紀初頭に、反科学主義的な現象学がヨーロッパで起こったのは不思議でもなんでもない。上のような楽観的な数学的空間と経験的直感が乖離したため、経験的直感を救助するよう世界を意識に相関的なものに格下げする反動を行ったのである。
カントが間違っていることを示すのは簡単である。微積分がよくわかっていないカントに時空を無限に分割するよう求めればいいだけである。そうすると時空はなくなる。これはものすごく古いゼノンのパラドクスでしかない。
何とかしろよ、カント学者!!!
posted by Kose at 10:00| 哲学社会科学エッセー

2015年07月29日

ムーアのカント『純粋理性批判』引用部分について

G.E.ムーア「外的世界の証拠」(前の投稿で証明としたが証拠が正しい)は読みやすいもんではない。
議論の端緒はカントのお経『純粋理性批判』の第二版序文の一節に出てくる「私たちの外部の世界の証拠」というフレーズ(それがないというのがカント先生の立場)を捕まえて、じゃあ、カント先生も少なくとも一回は外部の物の証拠を検討したはずだという、まあ、いわば反事実的仮定法で、外的世界の証拠を検討するという話である。

ムーアの引用した英文は次のとおりである
It still remains a scandal to philosophy . . . that the existence of things outside of us ... must be accepted merely on faith, and that, if anyone thinks good to doubt their existence, we are unable to counter his doubts by any satisfactory proof.

ああ、素人っぽく訳すと
私たちの外部の物の存在は、単に「信念」において受け入れられなければならず、また誰かがその存在を疑うのがよいと考えるなら、私たちはどんな十分な証拠によっても彼の懐疑に反対することはできない…ということはなお哲学にとってスキャンダルのままである

ドイツ語は(原文は)
so bleibt es immer ein Skandal der Philosophie . . ., das Dasein- der Dinge ausser uns . . ., bloss auf Glauben annehmen zu mussen, und wenn es jemand einfallt es zu bezweifeln, ihm keinen genugtuenden Beweis entgegenstellen zu konnen.

日本版『純粋理性批判』は死ぬほどたくさん版がいろいろあって困る。次が定番岩波文庫だと:
カント『純粋売性批判』篠田英雄役(岩波文庫)1961、上pp53-53

*・・・観念論は、形而上学の本来的目的に関しては、まだしも無害である(実際にはそれどころではないが)と考えられるかもしれない。しかし外的なものの現実存在(我々は我らの内感に対しても、認識の素材をすべてかかる外的なものから得ているのである)をまったく信仰に頼って想定せねばならぬこと、またこのことに疑いを持ち始めた人に、十分納得の行く証明を与え得るものではないということは、やはり哲学及び一般的な人間理性とにとって、放置できない障碍(スキャンダル)である。

*スキャンダルを「障碍」としたのは障碍者としては障碍である。

この部分は、『純粋理性批判』第二版序文の末尾の脚注の冒頭部分である。

カント先生は、悟性の対象としての物と心であるところの物自体とをこの序文で分けているので、別段直感の対象としてと気づかず「物」があるということを否定しているわけではない。だがヒュームの懐疑論が強固だから(サール先生によるとヒュームの懐疑論は何も強固でない。目ん玉つついただけである)。またあきらかにカント先生は、数学は厳密な学問で、物理学も成果を上げているのに、形而上学つまり理性自体についての学問は独断的だと怒っているわけである。コペルニクス転回は、対象→直感を、悟性→対象→直感に変えただけであるため、別に転回していない。要するに「何かはっきり経験するにはそれなりにはっきり前提がないとはっきりしないだろう」というだけのことである。ボロいAIはカント的であったが、自己学習的AIはカント的ではない。そこで間違うのは直感の対象としての物と物一般(というのも直感しなくても物はあるようだから)を物自体としてそれは心(実践理性)と同じだといって問題をやり過ごしているのである。
要するに、第一に世界がすべて理性的に厳密に理解可能だという保証は何もないことを認めれば、カントの批判はまったく的はずれである。

さて、ムーア先生の論文長くて言い回しくどいので、多分少し時間がかかる。
昨日通院するのにチャリで飛ばしたが、暑くてものすごく疲れた。その後ムーアの文章をまじまじ見ても1行も訳せていない。そういう時もある。
posted by Kose at 15:42| 哲学社会科学エッセー