2016年01月16日

カラー『ディコンストラクション』借りてくる

サール先生が引用した因果関係にかんするトンデモ議論は(I)p132−135で、ニーチェとヒュームに関するカラー自身のもののようだ。デリダからの引用ではない。

読みたくもないものを書き起こすのに時間がかかるので文句を言っておく。

カラーよ、自分でピンを自分の目にさす。
カラーは自分の目にピンを刺す。
カラーは自分の目にペインを感じる。
そこで目にペインを感じることの原因を探す。
その後カラーは自分が自分で自分の目にピンを刺したことが原因であることを発見する。
カラーは思う。なんで自分の目にピンを刺したんだ?
そしてカラーは、自由意志か同一物の永劫回帰的運命のいずれかを推測しなくてはならない。
ニーチェ・ファンのカラーはもちろん、目にピンを刺す運命を永劫回帰として受け入れ、目にピンを刺し続ける。
同一物の永劫回帰は、因果関係の時間的直線性を不条理に捻じ曲げる考えだ。考えとしては面白いが、間違いである。それはギリシア人の明朗さがなぜ悲劇を欲するのかというニーチェの若い時代の問いへの答えである。それゆえ悲劇を無限回経験するほど強いこと(権力)を肯定しなければならないというのがニーチェの主張のはずである。だがバカげている。
だから目にピンを刺すジョナサン・カラーはバカげているのは言うまでもない。

まあ、あまり気が進まないからのんびりやる。もちろんニーチェの典拠もできれば探す。こんないい加減な話は信じがたい。
posted by Kose at 13:26| 哲学社会科学エッセー

2016年01月08日

『知の欺瞞』にデリダの分析はない:調査終わり

図書館に行って『知の欺瞞』借りてきた。
『知の欺瞞』にデリダは含めていないとソーカルとブリクモンははっきり書いている。

岩波現代文庫版p12
彼らをひとまとめにして扱いたいという誘惑は確かにあるが、読者はそれに負けてはならない。たとえばソーカルのパロディーの中のデリダの引用(9)はかなり愉しいものだが、それは単発的な濫用にすぎない。デリダの作品には科学の一貫した濫用は(というよりは、科学への関心が)見られないので、この本にはデリダについての章はない。

注9 次を参照
たとえば、われわれの理論物理学のセミナーで、場の量子理論についての非常に専門的な概念をデリダの文学理論でのアポリアの概念に例えて説明したとしたらどうだろうか・・

パロディー論文p23
たとえば30年ほど前に開かれた有名なシンポジウム「批評の言語と人間の科学」(…)において、ジャン・イポリットは、科学の言説における構造と記号についてのジャック・デリダの理論について鋭い問題を提起している。
 たとえば何らかの代数的な構成体=集合体を考えるとすると、その中心はいったいどこにあるのでしょうか?要素間の相互作用を − 曲がりなりにも − 理解されてくれる一般的な規則についての知識が中心なのでしょうか?それとも、集合体の中にあって特権的な位置を与えられた特定の要素が中心なのでしょうか?……たとえば、アインシュタインは、経験的な証拠をもっていたある種の特権性に終止符を打ちました。そしてそれに関して一つの定数が現れます。その定数は時空の組み合わせであり、現実経験を生きるいかなる実験家にも属さず、それにもかかわらずすべての構築物をあらゆるやり方で支配しています。そして、この定数の概念 − これこそ中心なのでしょうか?
デリダの明晰な回答は、まさに古典的な一般相対性理論の核心をつくものである。
Derrida(1970) pp265-266
*引用はずいぶんマイナーな論文集で翻訳はないのでは?

以上は、デリダは科学の濫用はないとしても、その中心でそもそも問題をはらむ様相論理学の濫用にすべて依存していたことは告発されなかった。
様相論理の受け入れられた体系は4個ほどか?様相的、時制的、義務論的、信念的。これらは互いに関連があり、その構造体(可能的世界)の中心についてデリダ主義者はどう考えるんだか?俺には難しすぎるため、単に「様相論理」の基礎的議論だけ紹介するんじゃないか。

また「必然性」と言うのは一義的でないため上のような区別が提起された。
サール先生は「必然性」を怪しいと思っている。論理的必然性、因果的必然性、服装のエチケット的必然性について冗談を言っている。

いくらでも追加できる。文法的必然性と可能性。音楽的必然性と可能性。愛の必然性と可能性。不倫の必然性と可能性。戦争の必然性と可能性……

文学頭はねじが外れるにちがいない。

posted by Kose at 11:10| 哲学社会科学エッセー

2016年01月04日

デリダ話終わり

デリダ話は既知なので速い。
デリダ話には補遺を付ける。
1)様相論理の解説 スタンフォード哲学百科事典から
2)サール先生がデリダに頭にきて、ジョナサン・カラーの「デコンストラクション」の書評にかこつけて書いた「逆さまになった言葉」1984.

今すぐはやらないけれど、最後までやったら、やる。
サール先生の様相論理についてのコメントに間違ったコメントをまとめサイトでつけているのを目にしたことがあるし、素人にはわかるように話していないサール先生もまああれからなと思うから。そのコメントは様相論理にS10とかがあるとか言っていたと思うが、様相論理の祖C.I.ルイスが1918年の『記号論理の研究』の公理S1〜S5のうち標準様相論理としてS4とS5が残ったことにその名は由来する。だから正確にS4とS5以外にS*と言う名は存在しない。
S5が
◇p→□◇p
であり、デリダの「可能なものは必然的に可能」という誤読につながるものである。ソーカルがデリダのこの部分を攻撃したのかどうか、ソーカルの本を読んだときあんまり関心がなかったので(普通関心がないのが当たり前だと思うが)覚えていない。
さて「可能的にpが真なら、必然的に可能的にpは真である」
と言うお経のような文言を繰り返しても何も文学的には思いつかないのだが、この公理が証明可能性の重要な要素になるそうだ。
今日それを含む本を図書館に探しに入ったら、図書館まだ休みだった。まあ、あんまり深みにはまらないようにしたいものである。
2は結構長い。1984年にジョナサン・カラーをサール先生が批判しているころ、日本では浅田彰がイケイケだった。なんだこのジェットラグ!浦島太郎的だな。
posted by Kose at 17:51| 哲学社会科学エッセー

2015年11月24日

脳科学は科学ではない:池谷裕二の場合

脳研究の本は可能なかぎり新しくないといけない。
1990年代の脳科学というか認知科学はサール先生がコケにした強いAI理論を完全に信じていたが、少なくとも2010年代には、強いAIを支持する脳研究者は皆無だと思う。
さて、強いAIというのは脳は形式論理学であると言う意味であるということが脳研究者は未だ理解していない。
もちろん脳はコンピュータ的(ノイマン的)ではないのは認めている。だが、脳研究に形式論理を応用できないことは全然理解していない。これはコインの表と裏なのだということを理解できない。
池谷裕二の本は2015年11月5日発語発売のできたてホヤホヤの本である。これ以上に新しい本はおそらくないだろう。
だがである、脳の記憶は非常に不確かで時間は脳が作り出すものだから、「ラッセルの世界5分前仮説」を否定出来ないとおっしゃる。
だが、たぶん6分前のはずである。
それはともかくとして、ラッセルらの形式論理あるいは数学的公理の世界には時間がない。これは「be動詞の幻想」とでも言わなければならないものである。
こんなことを持ち出すくらい池谷裕二は、形式論理学の罠にハマっているのである。まだ1990年代のノスタルジアから抜け出せていない。
さて、池谷が世界が5分前にできたと主張する可能的世界に住んでいるとする。
だが、いつの日か炭素同位元素による年代測定法をなんかものすごい優秀なAIで発明するだろう。4日後か?
すると、炭素同位元素による年代測定法によって、やはり5分前にできたのではないことを科学者なら認めるだろう。
あるいはたとえばマラソンをしている世界が5分前にできたばあい、その疲労の具合はパラドクシカルになる異常である。記憶は不確かかもしれないが生物学的事実は否定出来ない。
要するに根源的に運動を否定する数学的形式論理学的イデオロギーにひたることによって自分は科学者であるというメッセージを送っているとしか思えない。
よって彼は科学者であるかソフィストであるかのいずれかである。だいたい脳研究者はその両方である。
これは面白い話ふたつあって、脳研究とは関係がない。
ひとつはマルク・ブロックが研究した「封建社会」で、中世には空間しかなく時間が存在しないと明らかに考えられていたということである。中世ヨーロッパの研究は少なくないがいずれもこれを支持する。この普遍的現在を空間的に旅をすると歴史的な世界、たとえば世界創造の場所にたどり着くことができると明らかに考えていたのである。これは聖書が現世を最後の審判を待つ「つかの間」と観念する主張のせいだよ。時間を発見したのではなく聖書が否定していたのにすぎない。
ちなみにエヴァンス・プリチャードがヌエル族には時間の観念がないと主張したのは根拠がなく、マルク・ブロックからパクリだったことがわかっている。
もうひとつは、キリスト教普遍史の否定の話である。西欧人科学的世界観を受け入れつつも、非常に長く人類の起源は聖書に書いてあるとおりだと擁護し続けた。博物誌や自然誌で聖書の記述はどんどん訂正を受ける。大きな転機は「古代中国」の発見である。聖書の記述を遥かに超える古い文明があったことが明らかになった。なので普遍史の長さは古代中国をカバーするほど長くなった。すると聖書の初期のアダムとイブの子孫はものすごく長寿、1000歳位でなければならなくなった。
ヘーゲルは、歴史哲学で中国を取り上げているが、おそらくその頃キリスト教普遍史が維持できるかできないか時代であり、次のランケの時代に実証研究が起こった。それはいいことだった。
ダーウィンの『種の起源』の幅広い受容、実際にはたかだか19世紀後半、日本が開国するかしないかの時期であるが、それによってキリスト教普遍史を語るものはいなくなったのである。
そして私たちが炭素合意元素年代測定法とともに知っている「歴史」は現在の知識だが、歴史的実在は5分以上前にあったと主張できるのは論理主義的観念論ではなく、素朴科学的実在論に立つ場合である。サール先生が制度的実在を定式化するまでは、分析哲学者大いに歴史に対して素朴であった。ラッセルは素朴さの頂点である。
さて、脳科学バカに一言言えば、時間は動物が動く属性を持つ以上、基本的バックグラウンドないしハビトゥスである。自分が動くことについての身体の随意付随の能力の形成こそ脳研究に先立つ生物学的事実であろう。たとえば耳ん中の渦の小石でバランスを感知するとか・・・こういうボトムアップのベタな議論ができない科学者はソフィストである。
池田裕二は、世界が動くことから時間を導き出すが、それはゼノンのパラドクスへの奈落への道であり、それゆえ、ラッセルの古いバカ話を引っ張りだすのである。
脳研究者にはどんなユーモアも必要がない。本当に肝心な点である。その信用問題なのである。手品と心理学の融合でも目指すなら別の話だが(認知心理学へのあてつけである)。
まあ池田裕二の本はフルカラーの図版の量が莫大なので、その薄っぺらな哲学を差し引いても多少価値があるが、あんまり読む気がしない。
書名も書かないし、アマゾンへのリンクはしない。ばかばかしい。
posted by Kose at 21:01| 哲学社会科学エッセー

2015年11月09日

論理学的実体

数学では
1)数学的実体
2)プラトン的実体
3)公理論

の存在論のコミットメントが20世紀初め錯綜したらしい。これについてまじめに論じた本というのは見たことがないし、あっても読みたくない気がする。

1)は理論理性と呼べるかもしれない。ただし素朴・理論理性である。あるいは数学実在論かも知れない。長年ユークリッド幾何学を模範に西欧の指導的な特別な存在であり、西欧近代の攻撃者が目の敵にするものである。
2)は1に伏在していたものかもしれないが、20世紀始めの公理化(非ユークリッド幾何学の誕生)で、あからさまになった存在論である。フッサールは典型的にこれであると思われる。
普遍的意識=数学
である。ゲーデルは暗にこの立場だったことが伝記的に知られている。これはラッセルのパラドクスで使用される「それ自体を含む集合」のように集合の定義である、要素と集合の定義上の存在論的違いを無視する点に共通である。
3)公理論は、まさにこの集合のような直感的な考えを約束に変えるもので、現代数学の主流の考え方である。ひとつの線の2点で同じ内角で交わる2直線は交わらないという、ユークリッド幾何学の傍系の定理が真ではないことが証明された。集合論のパラドクスは、1階の集合では起こらない。プラトニズム的集合(要素になりえる集合)が要請されるのは、数学基礎論における集合の高い地位のためである。ラッセルやフレーゲはこれを展開できず、1)の数学的実在論の立場にとどまったのではないかと思われる。

さて以上の概略がもっともだということを前提にすると
1)ラッセル、フレーゲは、存在論的区別を持たない
2)名辞と指示のような区別は、同じ数学的実在の平面の事態である
3)言語の外部は仮定されているだけである。
4)ラッセルの原子論的存在論は、古い
などの批判をしない分析哲学者や言語哲学者は、100年サボってきたと言わざるをえない。

現在のフランス王は禿だ

フランス王の実在を問題にしていない不適切な例だと思われる。
ラッセルのオリジナル論文では、イギリス王についての言及もあるからである
もちろん実在レベルでは、今日イギリス王も実在しない。
またサンタクロースが存在しないというのはこのような素朴数学実在論では証明されない。
それらは数学外部の事態であるからである。

問題は複合命題における指示ないし外延があるかないかという数学的問題に限定されるべきである
A)アメリカ大統領の妻は黒人である
B)日本の首相の妻は反原発である
これらと
C)現在のフランス王は禿である
とを比較すると
A、Bには合成命題であるために指示が消えるような論理内的な問題である。
Aはミシェル、Bは安倍昭恵である場合を排除しない。
CはABとは異なる。
これはおそらく元は
フランス王は禿である=フランス王はギロンで首がなくなった
というようなジョークであろう。
だがラッセルは
フランス王は首がない
とは言わなかった。この表現だとルイ16世である場合を排除しない
そこで
現在のフランス王は禿である
が考案された
だがである。「現在の」はあたかもフランス王を形容しているように見えるが
あるフランス王は禿である。
が論理学のただしい形式だと思われる。この場合時間的問題を無視する。すべてのフランス王の中に禿である者がいることは否定されない。
そしてある時間の集合との積集合が空であるに過ぎない。
だから現在のフランス王は、アメリカ大統領の妻と同じく複合命題による指示の失敗の例である。

*これらは無時間的現在に時間を後から挿入するある種の錯誤である。
 歴史的時間は、制度的事実(サール先生参照)を通じて表象されるべきである。

もし実在の非存在についていっているなら、大して重要ではない。一般的に言うと、指示が成功しているのか失敗しているのかは、事実の問題ではない。もし事実問題に訴えかけるなら、「未解決事件の犯人」は哲学的に実在しないことになる。論理学内的に問題であることは示していない例ではないかと思うのである。

∃を存在と呼ぶのは「仮定」である。何も外部の実在を必要としないどころか不十分である。

だが

安心してください

指示対象は文脈(視点)で実在可能な範囲が決まるので論理的に即断されるのではない。

とにかく明るい安村くんは、全裸のようだが、パンツを履いているのである

量化子は、単に非常に初歩的な公理化の形式かも知れないが、それは反対に実在と断絶して言語哲学ゲームが実在するかどうかの検討を妨げているように思われるのである。ほとんどの言語は公理ではないがゆえに。ちょうど視覚トリックがある視点の場合にしか成立しないのに似ている。だから言語哲学はとにかく明るい安村くんと家族的に類似している。

これは検討中の問題であるし、この有名な話に決着を付けたいとは思わない。ぼくの内部の考えの問題に過ぎません。安心してください。眠って明日起きれば忘れてますよ。
posted by Kose at 03:47| 哲学社会科学エッセー

2015年11月08日

レイコフ、ヌーニェス『数学の認知科学』丸善、2012入手

ジョージ・レイコフは認知言語学の祖で不適切なタイトルの『レトリックと人生』の著者である。
カリフォルニア大学バークレー校の教授であるが、同じ言語を扱っていながら、同校のサール先生との交渉があるのかは不明である。
翻訳のタイトルは誤解があるかもしれない(原著は“Where mathematics comes from”2000年)。認知科学は、定義上脳はコンピュータだというマニフェストを掲げるのに対して、認知言語学は1)言語は独立的ではない(生成文法や構造主義言語学の否定)、2)言語はの中核は比喩であり心依存的であるというマニフェストをかかげるからである。マイケル・トマセロの言語の起源に関する著作も認知言語学の分野に入る。
だが序文を読む限り、心の計算機理論の片鱗もなく、脳と言語の研究を認知科学と呼んでいる。

さっき『最新脳科学で読み解く脳の仕組み』を眺めていたら、生後18ヶ月頃母語で使われない聞き分ける能力が失われると書いてあった。いわゆる喃語の時期か?これはソシュール、バンヴェニストの構造主義言語学の音韻論が脳依存的だということである。

さて非常に大部な本、640pなので、図書館で借りた状態で読みきれるか不安である。
さすが脳関係なので比較的安い。¥5200だ。
この本はマストだろうな。買うかな?毎日インスタントラーメンにすれば買える範囲である。

序文に要旨が箇条書されているのでそれだけ掲載する:

2つの疑問
1)具体的には人間の脳と心のどのメカニズムを扱うことで、人間は数学的概念を定式化し、数学的に推論することができるのか。
2)脳と心に基づく数学はあり得る数学の姿のすべてなのか。それとも、プラトン主義社たちが示唆してきたように、すべての身体と心を超越し、宇宙 ― この宇宙と他のすべての可能な世界 ― の構造を決めている脱身体化され数学があるのだろうか。

答え
・人間が証明する定理は、人間の数学の概念システムの範囲内で行われている。
・人間がもっている、あるいはもち得るすべての数学的知識は、人間の数学の範囲内にある・
・人間の数学者によって証明された定理が、人間または谷井依存するあらゆる生き物以外のところで、少しでも客観的真理を含んでいるかどうか知る方法はない。

基本的な主張
1)プラトン流の数学が存在するかどうかの問題は科学的に取り上げることができない。せいぜい神を信じるか否かに似た信念の問題である。すなわち、プラトン流の数学事態は、神に関わる問題と同様に、人間の身体、脳、心を通しては知覚も把握もできない。科学が上の存在を照明模範小もできないように、科学だけの力では、プラトン流の数学の存在を証明も反証もできない。
2)神の概念化の場合と同様に、人間ができることは、人間の脳と心に可能)な範囲内の手段を用いた数学の理解だけである。したがって、私たちが理解したり、教えたりする数学は、人間によって想像され、人間によって概念化された数学でしかありえない。
3)人間の数学が何であるかは経験科学上の疑問であって、数学の問題でも先験的哲学の問題でもない。
4)心と脳、両者の関係に関わる学際的研究である認知科学を通してのみ、人間が理解できる唯一の数有学の本質は何かという疑問に答えることができる。
5)数有学の本質を科学的な問題として考えるなら、数学とは、他ならぬ人間によって、脳の認知メカニズムを用いて概念化された数学なのであって、それ以外のものではあり得ない。
6)数学の本師うとぉ科学的な問題とは考えずに、哲学的あるいは宗教的な問題として考えることもできる。科学的立証の責、外在的なプラトン流の数学が本当に存在し、人間の使う数学で証明された定理が、人間であれその他の生き物であれ、いかなる存在者の概念システムの存在も考慮せずに客観的に真であると主張する側にある。今のところ、このような科学的証明を原理的に実行する方法は知られていない。

人間の持つ数学こそ数学なのである

本書の結論
1)人間を超越するプラトン流の数学が存在するとしても、人間にはそれを知ることは不可能である。したがってプラトン流の数学に対する信念は、宗教的進行と告示した進行上の問題である。プラトン流の数学の存在を指示するようなカア額的証拠もない。支持しない科学的証拠もない。
2)ゆえに、人間が知っている、あるいは知り得るただ1つの数学、人間の脳と心によって制限され、構造付けられた心に基づく数学である。したがって、数学の本質の唯一の科学的説明は認知科学を通した、人間の心に基づく数学の説明である。数学的概念の分析こそ、そのような説明を与える。
3)数学的概念の分析は、人間の精神に基づく数学が数学の一部として概念メタファーを使用していることを示している。
4)それゆ、人間の数学は、超越論的なプラトン流の数学が仮に存在するとしてもその一部ではあり得ない。

つまり少なくともフッサールは間違いだし、おそらく素朴数学実在論に属する素朴論理学、ラッセル、フレーゲも間違であるということである。

言語哲学の誤りは、名辞と指示が存在論的に同じだということである。言語哲学に「外部はない」。
posted by Kose at 13:15| 哲学社会科学エッセー

2015年11月06日

合理性=理由のパラドクス

パラドクスの解決は、欲求独立的理由の承認は、たとえそれが行うことが論理的に不可避ではなく、経験的に普遍的でないとしても、欲求を根拠付け、それゆえ欲求を引き起こすことができる。


サール先生はこれをパラドクスの解決というが、「キリストの磔」「ソクラテスの毒杯」を合理的と正当化してしまうのじゃないか?それどころかあらゆる種類の宗教的苦行も合理的になってしまう。

日常的例では、制度的事実があり、その義務論的力によって、欲求独立的理由の承認が行われることになるので、非常に妥当である。宗教的苦行や殉教、あるいは日本軍の神風特攻隊ですら、正当化するのではないか?

まだ残り読まないとわからんけど、第6章のこの部分はちょっと気になった。

まあ、ウェーバーの宗教社会学と比較すれば逆に面白いかもしれない。
posted by Kose at 16:42| 哲学社会科学エッセー

2015年10月26日

現象学者扱いされるジョン・サール(スタンフォード哲学事典)

次はインターネット上のスタンフォード大学の哲学大百科事典の現象学の項目の一部である。
この項目自体面白い。意識的経験の記述の学として、存在論、認識論、論理学と並立する哲学様式として記述しているからである。これは21世紀に出現した実在中立現象学とでも名づけていい立場かもしれない。
夜中目が覚めてしょうがないので以前見つけたのをちょっと読んだ。サールの現象学に対する態度には二つあって、ツールとしての現象学の不可欠性と、20世紀現象学運動の完全否定である。まあ後者はわかる。ある種の宗教だから。日本人の手による現象学の本はまるで聖書か古代ギリシア文献の解釈学みたいなものしかない。まあ産業として成立しちゃったからしょうがないのである。アメリカの言語哲学産業も似たようなものである。
サールはフッサールの志向性を参照してない(何言っているのかわからないから)。
サールの志向性は、志向性の対象の性格を決めていない。充足条件を持つものは何でも対象である。
それに対し、フッサールは対象を、すべて志向性相関的なものにするため実在性をエポケーする。
ここで大きな違いが出るのはたとえば「赤提灯がみえる」は志向対象の命題的充足条件でありかつ「赤提灯はかくかくしかじかの色と形と有意味な文字(サールの場合はそれもまた別の志向内容を持つがフッサールではすでにエポケー済みになる)を持つ因果的充足条件も満たす。
だがフッサールの場合は因果的充足条件が判断停止されるのである。
下に、サールに関する部分の訳を掲載したが、サールの志向性の科学の受け入れは因果条件の受け入れであるのに対して、フッサールらの現象学の科学の拒否は因果条件の拒否なのである。
さて、だからツールとしての現象学はアメリカ哲学で受け入れられていることが確かめられた。それはサールも受け入れているが、サールの志向性は、発話行為に潜在する心の形式であるとスタンフォード大学哲学教授に付け加えておく。
ぼくは、もし志向性だけだったら、サール先生はまったく興味なかったであろう。第一「MIND」も「心の再発見」も読んでいない。図書館で借りたけどつまらないから。二元論の解決とかどうでもいい。心の哲学論争は科学論としては面白いが哲学としては面白くない。AIは形式論理学を実装したコンピュータの必然的帰結だが、強いAIが不可能だと本当に論証するには、形式論理学がただの慣習の体系で、コンピュータ上でそのコードを実装する以上のことはできないと論じないのがおかしい(そうでないコードも実装できる)。これは数学が実在世界にかかわるのにいちいち物質対象に応じた科学がが必要なのと類比的である。この議論は分析哲学的に有意味だと思うが、心の哲学はどうもね。なんか趣味合わないな。すくなくとも心の哲学につきあっても「躁うつ病とはどういうことか」について何も理解を得られないのは確かだ。都合のいい学問的分業である。

いつか全体を訳すかもしれないが、この記事は次に掲載されている。
これなんか新しいみたいである。高いけどKindle本もある。日本の現象学本は本当に宗教だよ。なんで日本語のがたくさん出ていてひどくて読めないため、英語のの本を読まないといけないかと思う。 
Subjective Consciousness: A Self-Representational Theory、Uriah Kriegel、2011/9/25

Phenomenology (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
http://plato.stanford.edu/entries/phenomenology/
from Smith, David Woodruff, "Phenomenology", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2013 Edition), Edward N. Zalta (ed.)
……
1980年代、ジョン・サールは『志向性』(1983年)(そしてさらに1991年『心の再発見』)で意識と志向性が精神状態の本質特性だと論じた。サールにとって、私たちの脳は意識と志向性の特性をともなう精神状態を産出する。そしてこれはすべて私たちの生物学の一部であるが意識と志向性は「一人称」の存在論を必要とする。サールはまたコンピュータはシミュレートするが、志向性によって特徴付けられる精神状態をもたない。サールが議論したように、コンピュータシステムは統治論(特定の形の記号の処理)をもつが意味論を持たない(象徴は意味を欠いている:私たちは象徴を解釈する)。この方法で、サールは唯物論と機能主義を拒否するが、心は私たちのような有機体の生物学的特性だと主張する。私たちの脳は意識を「分泌する」。意識と志向性の分析は先に示したとおり現象学に中心的である。そしてサールの志向性の理論は現代化されたフッサールに読める(現代論理理理論は命題の真理条件を述べる形式を取り、サールは精神状態の志向性を「充足条件」と詳述することによって特徴付ける)。しかし背景の理論において重要な違いがある。というのもサールは顕在的に意識が自然の一部であると考える自然科学の基本的世界観を仮定する。しかしフッサールは明らかにその仮定を括弧に入れる。そして − ハイデガー、サルトル、メルロ−ポンティを含む − 後の現象学者たちは自然科学を超越した現象学のサンクチュアリを求めるようにみえる。そしてしかし現象学自体は顕著に脳の活動から、どのように経験が生じるかについての更なる理論についておおむね中立だろう。
……
posted by Kose at 05:18| 哲学社会科学エッセー

2015年10月21日

心、言語、社会再考

標準的な分析哲学者は、言語の意味を言語に先立つ「観念」を否定するらしい。
詳しい説明はあまりないのだ。19世紀末20世紀初頭には、新カント派が一般に有力で、その代表がマックス・ウェーバーらであったのは確かだろう。そのパラダイムには言語はない。主観と客観が漠然と前提されていたと思う。理念型は主観が現実を捉えるためのタイプということだ。とにかく主観的観念と客観的現実の問題であったのは確かだ。フッサールはこの流れから、登場する。
この場合「観念」の位置づけは曖昧である。カントのような、個別の認識者を包摂した特殊な形而上学世界を想定するのは無理だし、だとすると個人的な思いつきとどう違うのか不明になる。フッサールが、その逆を進んだのは多分確かだろう。
そこで主観的だが万人に共通する観念が言語の意味であるというのは根拠薄弱である。
ただし日常的世界では間違いじゃないのだが。万人に共通する観念はまあ集団に共通する観念程度である。
さてではその観念は不確かだら、仮にも哲学だから、言語の意味は物のことだ(物はものすごく広い性格を持つようにみなるが)。これが分析哲学の言語哲学のとにかくテーゼである。
問題はこのテーゼが、心はないとか、言語は心の外部にあるという含意をもつと考える人が非常に多かったということである。これは分析哲学だけではなく、構造主義言語学でもそうであり、たとえば人工知能の夢でもそうである。
さて1990年以降にこれらの立場は急激に勢力がなくなる。
1)脳神経生物学は捉え方にもよるが、心のようなものを形成する働きが(それを意識と統一するものを除いて)実在として頭蓋骨内のフニャフニャの臓器に局在することが紛れもない事実となった。言語を扱う臓器すらあった。仮に脳みそに言語があるなら、言語は心の外部にありえない。
 心の哲学のほとんどがデカルト以来の二元論(サール先生もそれが好きで書くがあれは本筋ではないと思う)ではなく、言語が心独立的な実体であることをそれとなく含意する哲学は、ある意味カントの先験的カテゴリーの代わりを言語にさせようとしたとかんがえられるのである。
 これが20世紀は言語に取り憑かれていたという意味だと思う。
2)志向性は、主観的観念ではない。それは主観が客観に向かう脳みその働きで、それはしばしば表象することによって意味する。サール先生は、言語の意味が主にものというか事態についてのものだという姿勢は継承しているが、それは心の中でそうしているのである。
これはなんだか分析哲学世界では、フレーゲテーゼからの逸脱とみられるらしい。
さらに言えば言語は心から派生した社会制度である。これが発話行為と志向性の同型性の由来である。
志向性は、主観の中にあって、客観へ向かう心の器官のようなものである。正確には心の働きだろうけれど。
デイヴィドソンやパトナム、クワインのような科学主義派は言語独立外在論説であり、それによって意味する作用は心の外にあるとすることができる点が科学的で、その方が頭が良さそうにみえるが、扱う素材がしばしば馬鹿馬鹿しい。ギャバガイとか、雪は白いとか、可能的世界とか。
正直、可能的世界はないし、ウサギっぽいものはウサギっぽいものだと思うし、言語は極めて冗長で、雪は白いのように単純ではない。
まるで20世紀の知的巨人は白痴同然だとしか思えないのである。ポストモダンも含めてだ。
だから国立大学の文系学部は不要なのである。と飛躍してみる。
posted by Kose at 04:19| 哲学社会科学エッセー

2015年10月03日

強引な「四角は丸い」トリック

「四角は丸い」はどうにもこじつけである。
平面図形と言うクラスの中では、この命題は形容矛盾である。
なので立体図形にする。
単純に円柱でもいいんだが、最近テレビで見がちなトリックアートっぽい発想でだまし絵にする。
両端が半円で中央が正方形(長方形でもいい)の紙を、半円と正方形の切片で90度折る。反対側は同様に、しかし―90度おる。すると正方形を正面から見れば正方形である。正方形に対し90度の側から見ると円である。
したがって正方形は円である。四角は丸い。
もっと美しいトリックはあると思うが、20世紀初頭の分析哲学者にこんなことを言うとぶっ飛ばされるだろうが、今時の脳科学者を騙すくらいならこの程度でいいと思うし、四角は丸いスマホゲームの参考になると思う。

また分析哲学が一般に物を見る視点について深い考えがない点も意図はしている。

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posted by Kose at 21:29| 哲学社会科学エッセー