2017年01月04日

当為は事実に由来するか

これはサールが1969年の論文で主張したことらしい。
検索すると、たくさんの反論が論文で出ていることがわかる。

ストレートに言うと発話行為は、すべて何ほどか規範的である。

事実言明的発話行為ですらその事実が「真であるべきだ」と言うことを含意しており、もっと他のタイプの発話行為より規範的である。
したがって発話される事実は、当為であるというのは本当である。
しかし発話行為はコンテキストやバックグラウンドが正しいとき理解されうるので、コンテキストやバックグラウンドを無視した事実的発話行為が当為として成立するとは限らない。
典型的なのは
「多くの女性は子供を産み育てる」
であろう。
「子を産み育てない女性も少なからずいる」
というのも事実的かつ当為的である。
こんな論争を呼ぶ主題について検討は避ける。
社会生物学ないし進化生物学の本を読む限り、事実と当為に鋭い対立があるとは思えない。ヒト特有の、いわば自由意志が介在するからといっても自由意志が過大評価されていることも大いに考慮されるべきなので、鵜呑みにできない。
「人は空を飛べない」
と言う事実を挿入すると、当為は可能性を含意する、と言えるが、当為は必然的ではない、と言えるだろうと言うことである。
近代西欧哲学の事実と当為の二元論は、心身二元論と平行している。
ヒトが単に生物なら、事実と当為になんの齟齬もない。
さらにサールのバックグラウンドに生物的背景をもっと書き込むなら、ヒトの身体的ディスポジションと、それに文化的形式を与える規範、そしてヒトの個人的集団的能力や状況と、当為が可能な事実になるにはサールの立場でも多くのレイヤーがあることは簡単に指摘できる。
ヒュームまでさかのぼるこの問題は、社会生物学論争で、再び提起されたが、当為は事実に由来することは本当であるが、事実が真である程度に違いがあれば、当為を一般化できないのも明らかである。
自由意志の万能性は、原子論的個人主義とともに明らかに時代遅れであって、サールの主張はその発話行為の基本的理解に立てば、錯綜する問題を解く手がかりになりそうである。

posted by Kose at 05:46| 哲学社会科学エッセー

2016年08月14日

日常語における条件法(推論)の落とし穴(プロの哲学者でも容易に間違える。なぜなら日常語は形式的でないから)

さて、野矢茂樹の推論の合理性の欠如は、日常言語は合理的規則をもつとは限らないことに由来する。そして合理性は自由な意思を拘束しないからでもある。我が家の恣意的規則とかいうなら論理学者の看板は下ろすべきである。

重大な類似の例は「自白」である。

自白は合理的かつ任意的(自由な意思による)でなければ証拠の価値がない。このため犯人であることは、自白可能性の条件だが(つまり犯行を知っているので合理的に説明できる)、合理的自白は、自由意思に基づくことが証明できないと(捜査官の誘導や強制がないことを証明できないと)証拠価値がないである。

結論として、日常言語では、語の意味から、推論はできず、合理性の基礎は暗黙であり、論理学者もよくわからないのである。このため高度の論理学は全部数学なのである。

もう一つ厄介な問題は因果関係である。

因果関係を論理だと勘違いするとカントの先験的カテゴリーになると思う。そうではなく、因果関係は実在(カントが否定するもの)の側の関係であり、それを知識上整理すると論理的に表現できる場合があるにすぎない。

いろいろ調べても、明白な必然的な因果関係は、必要十分条件と同じ推論である。つまり前提の恣意的でない例外的事例がない。
いや前提の恣意的でない例外的事例が本当にあるかどうかは具体的因果関係を検討しないとわからない。
他方蓋然的な因果関係は、なんとなく推論できるだけである。明白な事例は、雨である。また雨である。
前線が通過するなら、雨が降りやすい。
夏に寒気が流れ込むなら、雨が降りやすい。
台風が通過するなら、雨が降りやすいが、台風の影響で遠隔地でも雨が降りやすい場合もある。
条件と結論の関係は多対多である。このため、天気予報が外れてもだれも責任を負わないのである。

この問題を理解するには様相論理学まじめに勉強しなきゃダメだと思うが、日本語で気楽に読める本はたぶんない。ケンブリッジの入門書にあるので、相当暇なら読んでみるかもしれないが・・・それより個別の科学を勉強したほうが為になるような気がするけど。

日常言語で「なら」とかは頻繁に使う。STAP細胞批判派論理学者が好む「必要」とか「十分」とかも何気なく使っているが、概ね、必要十分条件の意味で日常では使っているため、必要だが十分でないとか言われると何を言っているのかわからなくなるのである。特に因果関係について。前提に明示されない他の前提の存在に注意を払うのは慎重な議論には必要だけど。彼らが正しいのか間違っているのか実際にはわからない。ものすごいちゃんとした証明をもっているのかもしれないし、単にレトリックに過ぎないのかもしれない。ものすごい証明についてはぼくが遺伝子生物学全然わからんのでどうしようもない。因果関係への論理の適用はそういうものである。

そういうわけでSMAP解散であるそうだ。別に感想はない。ツイッターも見ない。
posted by Kose at 05:33| 哲学社会科学エッセー

2016年08月12日

サールによる推論規則それ自体は推論に何も寄与しないことの「アキレスが亀に言ったこと」を引用した説明

かつて、サール先生の『行為と合理性』から抜粋した、「推論規則は判断に何の力をもたない」ことをルイス・キャロルの「アキレス亀が言ったこと」の無限後退を参照して説明した部分を思い出した。

論理的意味で何が十分条件で必要条件かは、判断になんの力も持たないのとおそらく同じだからである。

サール先生は2000年の『行為と合理性』で、形式論理は、成功した判断のパターンを整理しただけのものとした。

これを裏付ける根拠を僕はもっている。
形式論理があいまいさなくうまくいくのは、人間が人為的に合理的に作った規則の体系、最大の物は数学、身近なものはゲーム、法律は適用される要素が生身の人間社会なのでうまくいくとは限らないということであり、ましてや日常語を形式論理に代入できる保証は何もない(代入して初めてその後の合理性の程度がわかるというていど)。

というのも推論形式は、二つの集合ないし命題で〜P∨Qが成り立つことだが、まず同一律が明確でなければならないし、問題となるのは〜P∧Qに要素命題が存在するのが、PとQから必ずしも導けないからである。
トランプの場合同一律に問題はないとする。
Pはハートである、Qはマークは赤である、とする。
では直ちに〜P∧Qを述べよ。
ダイヤである。
このダイヤが存在することが、P→Qを決定する。P→Qがアプリオリにダイヤの存在を決定するのではないのである。だから「含意する」という「→」という推論は後から命題内容を判断した場合に確立するのである。
この場合、トランプでマークが赤のものが2つあり、ハートはその1つだという事実の方が規則で決められていることを知っていることが、推論の基盤なのである。別に推論しなくてもこの基盤はかわりはないのである。つまり推論はあらかじめ知られたことをカッコいいパターンで述べ直したものに過ぎない。少なくとも一部の人には論理的に推論するのはカッコいいと思う。前期ウィトゲンシュタインなんかはその権化である。
そしてこの場合推論規則に合致する十分条件はハートないしダイヤであることであり、必要条件に合致するのがマークが赤いことである。しかしマークが赤いことは、ダイヤまたはハートであるこの必要十分条件である。これがかっこいいと思うのか?頭がいいと思うのか?

OCT4マーカー発現のを必要条件と呼ぶのは単に類似のパターンをもつことによるメタファーである。
マークが赤いことは、複数の可能な条件の和集合である。
OCT4マーカー発現は、複数の可能な条件がありうる。
この二つの関係はメタファーである。前者は合理的規則に由来する論理だが、後者は事実問題である。
ではOCT4マーカー必要条件論者に言うが、OCT4マーカー発現の同一律は明確か?これは確率的だと思う。そしてそれが発現するのは多能性遺伝子の存在の可能性である。仮に多能性遺伝子とOCT4マーカー発現が同値であるとする(確率の違いを無視する)。すると多能性遺伝子が存在し、それが幹細胞樹立に帰結しないのはなぜか。それは生物学的性質が、まるで論理的ではなく、固有の、場合によっては未知の生物学的因果関係に依存するからである。
論理はこれらの現象になんら寄与しないが、それを文章にするときにはよく知られたパターンとして整理して文章にするのに使うことができるかもしれないし、なんでできるのかわからないというほかないかもしれない。

と書いたところでサール先生の該当する文章の抜粋を掲載しておく。

ジョン・R・サール『行為における合理性』より(p19〜)

2.合理性とは、合理性の規則に従うことに尽きるのではないし。そうすることにおおむね存するのですらない
 古典モデルの第二の主張、すなわち合理性とは規則の問題であり、われわれがそれらの規則に従って考えたり行為したりする程度に応じてのみ、われわれの思考や行動は合理的なのだという考えに移ろう。この主張を正当化せよと求められたなら、伝統的な論者の多くは、おそらく論理学の規則に訴えるであろう。古典モデルの擁護者が示しそうな事例のうち、最もわかりやすいものは、たとえば単純な肯定式の論証である。

もし今夜雨が降るならば、地面が濡れる。
今夜雨が降る、
ゆえに、地面が濡れる。

この推論の正統化を求められたなら、肯定式の規則に訴えたくなるだろう。すなわち、pとpならばqは、qを含意するというものである。

(p&(p→q))→q

しかしこれは致命的誤りである。こう言ったら最後、ルイス・キャロルのパラドクスから逃れることはできない。パラドクスを復習しよう。アキレスと亀が論争をしており、アキレスはこういう(この例はルイス・キャロルのものとは異なるが、論点は同じである)。「もし今夜雨が降るならば、地面が濡れる。今夜雨が降る。ゆえに、地面が濡れる」。それに答えて、亀が言う。「よかろう、それを全部書いていくれ、全部書いてくれ」。アキレスがそうすると、亀が言う。「『ゆえに』の前にあるものからその後にあるものにどうやったら行かれるのか、行かれるのか、わからんね。その移行は何によって強制されるのだ。そもそもその移行は正当化されるのかね」。アキレスは答えてこういう。「この移行は肯定式の規則によるのだよ。つまりpと、pならばqは、qを含意するという規則だ」。「よかろう」と亀は言う。「ではそれも書いてくれ。何もかもぜんぶ書いてくれ」。アキレスがそうすると、亀は言う。「ぜんぶ書いてもらったが、地面が濡れるという結論にどうしてたどり着くのか、まだわからんね」。アキレスは言う。「どうしてわからないんだ。pと、pならばqと、pとpならqならばqからはqを推論して良いという肯定式の規則からはqを推論できるじゃないか」。「よかろう」と亀は言う。「では、それもぜんぶ書いてくれ」。この先どうなるかはおわかりであろう。われわれは無限後退に陥るほかないのである。
 無限後退に陥らない方法は、推論の妥当にとって公的式の規則はいかなる役割も果たさないと考えることで、最初の致命的な誤りを回避することである。導出の妥当性は、肯定式の規則から得られるのではない。ほかのものの助力なしに、推論はそのまま完全に妥当である。より正確に言えば、それ自体で妥当な無数の推論に見られるパターンを描くことによって、肯定式の規則のほうが妥当性を付与されるのである。それは前提から結論が帰結するからにほかならない。語の意味自体が推論の妥当性を保証するに十分であればこそ、そのような無数の推論を記述するパターンを定式化することも可能となる。しかし、推論がそのパターンから妥当性をえるのではない。いわゆる肯定式の規則とは、それ自体で妥当な無数の推論にみられるパターンを述べたものにすぎないのである。つぎのことを忘れてはならない。「pと、pならばqから、qを推論するにあたって、規則が必要と考えるならば、pからpを推論するにあたっても規則が必要になるだろう」。
 この論証に関して言えることは、妥当な論証のいかなるものに関しても言える。論理的妥当性は論理学の規則に由来するのではないのである。
 この点を正確に理解することは大切である。肯定式を規則としてではなく、もうひとつの前提として扱ったしまった点でアキレスは誤ったのでだと言われることがよくある。そうではない。アキレスがそれを前提としてではなく規則として書いたとしてもやはり無限後退は生じたであろう。導出の妥当性は前提及び推論の規則に由来するということも同じように誤りである(まさに同じ過ちを犯している)。そうではなく、妥当な推論の妥当性において、論理学の規則は何の役割も話していないというのが正しい。論証が妥当なとき、それはそのままでだとうでなければならないのである。
 我々は高度な知識を持ってしまったせいで、実はかえってこの点を理解しにくくなっている。というのも、証明論があまりに華々しい成功をおさめ、コンピュータ科学などの分野で重要な成果をもたらしたことから、われわれは、構文論において肯定式の役割を果たすものが、論理学の「規則」とほんとうに同じものだと思ってしまうのである。しかし、それはまったく別である。



という形の記号が

p→q

という形の記号の前に書かれているのをあなたが見たとき、あるいはコンピュータがそれを「見た」とき、あなたあるいはコンピュータは



という形の記号を書く、という規則が与えられたとしよう、この時あなたはひとつの規則を手にしており、あなたはそれに従うことができるし、それを機械にプログラムして、機械のはたらきを因果的に決めることもできる。これは証明論において。肯定式の規則の役割を果たすものである。そして証明論では、この規則は単なる記号に対して働くものであるがゆえに、本当に実質的なものである。その規則は、それ以外の点では「解釈されることのない形式的要素」*に対してはたらくのである。 *「」はおれ。
 現実の推論では、肯定式の規則はいかなる正統化の役割も演じないのに、われわれはこうして、その事実に気づかなくなってしまう。証明論や構文論のモデルを作り、現実の人間が行う実地スや内容のある推論過程を、そのモデルが正確に写しとるようにすることは確かにできる。そしてもちろん誰もが知っているように、モデルを用いてできるさまざまなことがある。構文論が正しければ、最初に意味論を入れてやると後は勝手にことが進み最後に正しい意味論が出てくる。構文論的変換が正しいからである。
 名高いゲーデルの定理を始め、よく知られた問題がいくつかあるがmそれには描かわたないことにすると、機械の推論モデルによるシミュレーションが高度になったおかげで、われわれは意味論的内容を忘れてしまうのである。しかし現実の推論では、推論の妥当性を保証するのは意味論的内容であって、構文論的規則ではない。
 ルイス・キャロルのパラドクスに関連して、哲学的に重要な事柄が二つある。第一はこれまで検討してきたもので推論の妥当性において規則は何の役割も果たさないということである。第二の点は、飛躍に関わる。「われわれは、論理的関係としての帰結関係や妥当性と、人間の自発的な活動としての推論とを区別しなければならない」。われわれの考察した事例では、前提から結論が帰結し、ゆえに推論は妥当である。しかしこのことは決して、現実の人間がこの推論を行うことを強制するものではない。推論という人間の活動には、他のあらゆる自発的活動と同じく、飛躍がある。仮にわれわれが、この推論はそのままで妥当であり、肯定式の規則は推論の妥当性にまったく寄与しないという点をアキレスと亀に納得させることができたとしても、推論を行うことを拒否するという不合理を亀が発揮することはありうる。飛躍は、論理的推論にも当てはまるのである。

亀がアキレスに言ったこと ルイス・キャロル
What the Tortoise Said to Achilles
https://en.wikisource.org/wiki/What_the_Tortoise_Said_to_Achilles
邦訳 石波杏訳
http://www13.plala.or.jp/nami/tortoise.html
posted by Kose at 05:43| 哲学社会科学エッセー

2016年08月11日

因果と論理

「必要条件だが十分条件ではない」

は含意の問題である。因果関係ではない。

OCT4マーカー発現は、多能性の可能な条件である。多能性を結論として求めている。
だが因果的にOCT4マーカー発現の観察が多能性の結果でないでないことが経験的に知られている。
例として上げられているのは自家蛍光の誤認識やマーカー発現の確率の低さである。
そのため、マーカー発現を論理的に十分「な」条件でないと言いたい気持ちはわかる。
だが多能性がOCT4マーカー発現を含意する

多能性→OCT4マーカー発現

という場合、多能性を十分条件とする意味がないのである。
単にOCT4マーカー発現は他の可能性も含むため、多能性を可能的に(蓋然的に)含意するということである。
これが論理でないのは、OCT4マーカー発現が多能性以外を含意をすることは「十分」規約化された知識でなく、経験的に多能性を含意しないことが知られているということだけである。

そこからOCT4マーカー発現は多能性の必要条件であるというのは、他の経験的条件の参照なしに無意味である。多能性が観察できないからである。

しいて言えば、OCT4マーカー発現の非観察は、多能性の不在の十分条件である。
そして、OCT4マーカー発現の観察が多能性を含意するよう実験の精度を高めることは可能である。自然科学とはそういうものだが、たとえば数学における含意の関係は実験によって条件を変えるなんてことはできないのである。

概ね確立した自然科学的因果関係は必然的で論理的に同値である。キメラの場合は実際に多能性のある細胞から特有のマウスが成長させるということで必然的因果関係があるのである。

この場合に、キメラは多能性の十分条件だという「論理」は、「同じものは同じものに等しい」ことについて『鏡の国のアリス』におけるアキレスと亀の無限後退と同じように、「不要である」。
posted by Kose at 07:01| 哲学社会科学エッセー

2016年05月11日

ドゥールーズほか

図書館で借りた本がたまってたまったものではない。

「進化する遺伝子概念」はまだ20世紀初頭のメンデルの再発見でまだ「遺伝子」という言葉が登場する直前である。この段階で、形質(表現型)と因子(遺伝子)の区別が安定していない。このころの遺伝学の研究は、わかりやすい種の交雑(エンドウ豆の形とか鶏のとさかの形)の観察分類から、みえない因子(遺伝子)を推測するという段階である。メンデルは完全に単独で成功していたが、その後何年もそれを取り上げて解釈を加える世代が登場しなかったということである。メンデルは神学校に籍を置いていたため、生物学の研究を継続しなかったのである。この本は、DNAが単純に表現型を決定するという通俗的な話がそれほど確かではないことを最終的に書くことを目的にしている本だが、まだ3分の1しか進んでない。この後エピでミクスの本を読むつもりだ。まあ4週間で両方読めばいいので焦らない。

昨日は通院だったので途中の図書館でまた本を借りた。
「脳科学の真実」(河出)は主にイギリスで研究していた認知神経生物学者が、日本の脳ブームについて書いた本である。前読んだ「脳の壁」と論旨は同じだが、プロパーの分野が異なるので面白いかもしれない。気楽な本である。暇つぶしに読む。

「差異と反復」。ネットでたまたま議論の俎上に上ったため借りてきた。
ひどいの一言に尽きる。
すでにほぼ半世紀前の本で当時の状況はかなりわかっている。
すでにわかっていることは
1)基本的にドゥールーズは哲学史の独自解釈しかできない
2)当時のフレンチのラジカリズムを1に統合しようとした
これだけである。
「差異と反復」を読むくらいなら、フレーゲの「意味と指示」をとことん熟読したほうがましだとしか言えない。例の10%以上曖昧に書かなければアンファンティールだと言ったフーコーの言葉通り、随所にほとんど無意味な修飾が見られ、しかも肝心の主題すら曖昧である。
主題はだから「同一性」である。
ラッセル的に言うと同じ内包には無限の外延が可能であるということである。
あきらかに外的ものは、同一である。このパソコンのキー配列がいちいち変わっていたら、一生ブログの更新はできないだろう。だからまず自然はそれ自身の原理で同一だし(だから科学的知識が可能なんだし)、人は社会的にあるものを同じものとみなすコード(パソコンのキーボードの配列)によって同一なのである。生活していくうえでそれ以上の問題はない。
だが哲学的伝統では、ものの同一性は所与ではないのだ。そのため表象や概念や記号で同一性を与えなければならないのだが、そのような内的同一性(内包)に対して、理論上無限のもの(外延)があり得るのである。
しかもそのような同一性をラジカルに否定したいドゥールーズの議論は大げさで混乱しまくりとしか思えない。
そのため今度は本を読む方の「差異」とか「反復」という言葉が多義的としか言いようがないのである。ほぼメタファーである。
一体カントが作り上げた伽藍を大げさに言い換える必要があるのだろうか(表象、概念のような言葉の扱いで恐ろしく古い近代哲学にずっぽりだということはわかる)。
フレーゲとラッセルの100年前に書かれた論文はなかなか批判を許さない。
だが彼らの論理学の欠陥は「知識」しか扱っていないのであり、そのためのちに言語哲学という形になってしまったのであると考えている。言語哲学が成功しているとは考えない(そうだったらサールは読んでいない)。
反論はしないけど、ドゥールーズを読むくらいなら、ラッセルとフレーゲの短い2論文をちゃんと読もうと思ったというのが感想である。

東大のガキがドゥールーズのようなくずを引っ張り出してきて新現代思想を今現在展開しようとしているらしい。東大の哲学は腐っている。
posted by Kose at 04:54| 哲学社会科学エッセー

2016年05月09日

現象学の最大の裏切り者は「フッサール本人」

伝記的に読むと、フッサールが『論理哲学研究』第1巻を出したときには、非常に多方面の学者が注目して、たとえば現象学的精神医学とかは、その直接的影響で今日でも評価のあるものだ。日本では木村敏とかがそれに入る。まあそれはなんかのWikiを読んでいただきたい。

それ以前の「算術の心理学」は、フッサールというか、哲学者が数学的存在を心理的にどう存在するかという暗黙の問題についてアプローチしようとしたものだが、それは、現代論理学分析哲学の祖フレーゲによって心理主義だと批判されてすぐに撤回したんだと思う。ここにフレーゲが出てくることにはもっと注意が払われるべきである。まあフレーゲの意味と指示には問題があり、分析哲学者らが批判しないことに不満はもっているんだけれど。

数学者は数学の存在論的地位についてあんまり注意を払わない。
しかし、ユークリッド幾何学からリーマン幾何学への転換=一般相対性理論の完成で、数学の空間的表象である幾何学が経験的な表象と合致しなくなった。これは相対性理論によって直観性を失ったのと並行した出来事である。
結論から言うと、この数学問題は、ヒルベルトの公理主義がほぼ勝利を収めたと言っていいと思う。
だが、直観主義は「排中律」に関して有効だと認められている。ちなみにゲーデルは、自分をプラトニズムだと考えていたという証言がある。ある意味素朴な直観主義であるラッセルのパラドクスは、ツェルメロ=フレンケルによる公理主義的集合論によって解決を見た。これを知らない論理学者もいまだ存在する(三浦俊彦「ラッセルのパラドクス」岩波新書 新赤版975、2005/10/20)。要するにラッセルは集合とは何かをちゃんと定義していなかったため、「それ自身でないすべての集合」というだらしない議論(ゲーデルに影響を与えた一点で価値があるが)をまだそのまま信じている奴がいるのである。

 おれがラッセル主義者をバカにするときのもっと簡単な説明
 集合とは「要素」の「集まり」である。ある「集まり」の要素は、「集まり」ではない。つまり「集まり」は要素でない。もちろんともにモデルだが、ラッセルは原子論者なんだから少なくとも要素に実在性をより多く認めていなければならない。「集まり」に実在性があると簡単に前提しているのは、これはびっくりだが、論理学をやる以前のラッセルはヘーゲル主義者だった名残だとおもっている。原子論も間違っているんだけど。究極の実在は、エネルギーの場である。たとえば電子は粒子だが、電子を静止した存在として観測しようとすると、例の不確定性原理が生じる(はず)。

 さて、フッサールの最初の本にはマックス・ウェーバーも注で参照しているくらいだ。

 多くの人文社会学科学者には、主観的経験を一般化するなんらかの方法と映ったみたいだ。
 だがフッサールは、第二巻以降超越論的現象学を提唱して弟子が全部離反してしまう。
 素人が考えても、万人が本質的に持つ普遍的主観性のことを言っているのだと思う。
 さて、このとき幾何学の問題を思い出してほしい。多くの近代西欧哲学者にとっても同じなのだが、幾何学は、一切の不確かな現象を超越し、歴史をこえて普遍的に妥当する理性の体現者だとしばしば考えられたことである。
 よって、めんどくさいのでまとめちゃうと、「普遍的意識に相関的な理念的実在が存在する」というのがフッサールの隠れた前提であり、それは間違いか、数学者は相手にしないということである。

したがって現象学の最大の裏切り者は「フッサール本人」である。

なお、第一次世界大戦によって、ヨーロッパの貴族的ブルジョア的隠遁文化というものはなくなる。
おそらく日本に多く影響を与えた有名哲学者たちはその文化を背景にしている。
その最悪の運命の体現者が、ヴァルター・ベンヤミンであり、共産主義運動に興じつつ、ドイツ文学におけるアレゴリーを同時に論じ、ヨーロッパを離れられず、ヒトラーに追われて、スペイン入国に失敗し自殺する。アドルノ、ホルクハイマーは後でアメリカ文化の悪口言いたい放題だったけど、アメリカに亡命した。
*アドルノは学生の反乱時代、女の子におっぱい見せられ、ショックを受けて直後他界した。ヒットラーよりおっぱい。
posted by Kose at 10:42| 哲学社会科学エッセー

2016年03月24日

亀とアキレスのパラドクスについてもあっちにあげようかとおもったが・・

ルイス・キャロルの「亀とアキレスのパラドクス」をあっちに上げようと思って、整理しようと思ったが、これは形式的推論に関するたぶんフレーゲまで侵食するレベルの話だと思うのでやめた。そこまで挑発する気力も体力もない。今日も寒くてよく眠れなかったので、そのお仕事をしたのだが。

ナンセンスでない推論を扱う場合、「推論規則が正しい」ことを疑うのはなかなか難しいので、ナンセンスな推論を扱う。野矢茂樹の中公新書『論理』の事例は実はナンセンスな類の推論である。

O・ヘンリーから

P(病室の窓の外に見える木の最後の一葉が落ちる)なら、Q(彼女は死ぬ)
P(最後の一葉が落ちる)
ゆえに
Q(彼女は死ぬ)

これは命題P→Qがナンセンスなので、推論はナンセンスでる。
したがって、推論が妥当かどうかは、命題内容の妥当性にのみ基づく。
以上。

野矢茂樹の例はこうだ
P(明日晴れる)なら、Q(遊園地に行く)
P(明日晴れる)
ゆえに
Q(遊園地に行く)
*別に行くべき十分な理由も必要な理由もない。

この場合、P→Qは親の子に対する「約束」である。「約束」なのである意味ナンセンスであってもいい。

P(この馬券が外れた)なら、Q(賭け事はやめる)
P(この馬券が外れる)
ゆえに
Q(賭け事はやめる)

この場合も約束であり、意思の問題である。
おそらく何があっても、単純な条件で賭け事はやめることはできない。そもそも必要条件Qがナンセンスなのである。

多くのまじめな論理学者は、規則の自明性(おそらくウィトゲンシュタイン由来だと思う)をもとに論じているが、そうではない。推論の妥当性は命題の実質的妥当性によって評価されるというだけである。様相が絡むとモーデス・ポネンス、前件肯定の推論は怪しいとは最低限言えるが、それは論理空間というものがまず普遍的現在を前提にしているからかもしれない。

お疲れである。もちろん実質的に妥当な推論なら、「ゆえに」は不要である。

プログラムの例
X=2
Y=10
Xが0でないなら、Z=Y/X
Z=5
*推論はない。手続き規則があり、暗黙でも何でもない。単にZ=Y/Xが実行されるだけである。

めんどくさいので、この件については先送りするつもりで、あっちには掲載しない。

亀がアキレスに語ったこと
"What the Tortoise Said to Achilles"PDF

posted by Kose at 09:30| 哲学社会科学エッセー

2016年03月07日

いまさら、脳トレ

川島隆太の「脳トレ」は間違いである。

川島隆太批判の本は何冊か読んだ。まあそのたび忘れちゃうんだけど。『脳科学の壁』バージョンの批判をからまとめる。
ただし『脳科学の壁』の榊田洋一は脳トレも、川島隆太を名指ししていない。

1.脳トレを、アルツハイマー患者に施すならば、イメージングで前頭葉の血流の増加がみられる
2.脳トレを、アルツハイマー患者に施すならば、前頭葉機能の向上が見られた
3.脳トレをしてアルツハイマー患者の前頭葉の血流が増加するならば、前頭葉機能が向上する

1と2から3を導けない。せいぜい相関関係があることを示唆するだけである。

血流から機能への因果関係は不定である。これは他のトンデモ脳科学でも繰り返される間違いである。また血流の映像は、相対的増加で、映像に移らない場所に血流が「ない」と言うわけではない。またすべての活動には多くの複雑な機能が一度に素早く連絡して機能しなくてはならないので、前頭葉の血流が増えたとかは、何かの手掛かりにはなるが、ある活動に一対一に対応するものではないのは確実である。

多くの批判の共通点は、川島隆太が、実験をコントロールしていないことである。
確かに、脳トレをすると血流が増え、機能の向上があるらしい。
比較研究で、今度は脳トレをしないグループと何もしないグループを一定期間研究する。たしかに二つのグループで差が出る。
ここで医学的良心のある人は気づく。
「アルツハイマー患者に何もしないで放置すること」に反対に意味があるのじゃないか?
そこで次に脳トレ活動グループ、非脳トレタイプ活動グループ、非活動グループ。
そして、活動グループと非活動グループに差は出るが、脳トレ活動と非脳トレ活動には差が出ないのである。
つまり有意味なのは活動に伴う介護スタッフとのコミュニケーションが、脳の血流を活性化していたのである。反対にもう一度医学的良心を呼び起こすと、放置しておけば病気が進行する患者を放置してきたという痴呆老人ケアの過去があったと言うことである。
このため、現在は、軽度の痴呆の場合、決して川島の脳トレなどさせず、体操や歌その他、「スタッフとのコミュニケーション」を伴う活動が広がっていると思われる。
そしてまだフジテレビのとくだね!が「脳活ジョニー」とかいう、血液型占いの代わりのコーナーをやっているが、では痴呆でない成人が脳トレをやって前頭前野が活性化するかというと「しない」。
このコーナーまで見ることはまずなかった。9時前に家事済ませて母を寝せてしまうからである。
当たり前だが、仮に脳の前頭前野の働きがよくなる=知的に頭がよくなるようにするには、脳トレで済むわけではない。仮に小学校で成績が悪い子供に勉強させずに脳トレだけをさせていたら、もちろん成績は悪くなる。『脳科学の壁』の著者は発達障害の専門家だが、児童において音読させても前頭葉の血流が増大することはないと結論している。

そして脳トレに熟練してしまえば、脳トレは単なる退屈なルーティーンになるだろう。
とくだね!は本当に退屈なルーティーン!なので、それにも気づかないというわけである。
posted by Kose at 15:20| 哲学社会科学エッセー

2016年03月01日

日本の知性主義 再校閲

日本には知性ということばはなじみがなかった。長い間知性と感性の対比の中で使われてきた言葉である。
知的という言葉すらひとつのファッションアイテムになってしまった。スターバックスコーヒーでマックをたたくのが知性的である。
戦前戦後、欧米から輸入された新思想をいち早く吹聴することが知性的と勘違いされた。
政治的な文脈では、イデオロギー控えめに言ってマニフェストを掲げるパフォーマンスが、保守党の縁故政治に対して知的とみなされる言葉が、踊っている。
日本に知性がない証拠はたくさんある。新聞の諸書評が、仲間内の持ち上げ合いであって、厳しい批評が下されることはない。
アメリカのエスタブリッシュメントでは、日曜のブックレビューで第三者が厳しい批評を加える。
日本の知性とアメリカの知性を比べる土台を見つけるのは困難だ。
もう少し言葉にとらわれず、知性の欧米的基準について考えてみよう。いわゆるリベラルアーツは、中世大学における自由七学科にはじまるかもしれないが、それを最も完成させたのは、ゲーテ時代のビルグンスロマンである。日本の「教養」が直接ドイツ式教養の影響を受けたのは間違いない。だがひとつ問題がある。ドイツ経由の教養はしばしばドイツロマン主義の直接の影響を受け、英仏のより新しい文芸や思想の展開を受けなかったことである。それは大学の課題ではなくたとえば文芸春秋や朝日ジャーナルやその他民間のジャーナリスト兼学者が担うことになった。東大は、鎖国状態である。
そこに一石を投じたのは、フランス現代思想であり、東大や京大その他教授が翻訳して、パクれば新しい教養とみなされた。岩波書店は「知の発見」のようなウルトラ楽観主義の宣伝をした。しかし根本的な学問的欠陥によって、その新教養主義者破滅した。ひとつには丸山圭三郎の死、山口昌男が依拠した文化人類学における「サモアの青春」でっちあげスキャダル。脳科学における記号の脳依存性の発見など、急速に影響力を失った。
これらは、狭い世界の出来事であるが、もっと大きな枠組みの変動があった。ソ連邦の崩壊とグローバリぜーションの拡大、インターネットの普及である。
おおむね1990年までの知性は、反自民党で済んでいた。社会党などは旧ソや中国の御用政党だったのがソ連崩壊で明らかになり、急速な支持を失った。
もはや、議会制民主主義与党に対峙する知的立場を構築することに誰も成功していない。
おそらく海外の流行や、旧来の対立構造に依存してきた知性は気が付いてたら、あり得るのは「真理の含意説」だけである。
これは、表面的な部分から真相まで及ぶ。表面的にはポピュリズム的「民意」の獲得(これが知性主義者の反知性主義である)、そしてたとえばハーバーマスが提唱したような真理の合意説は、ものすごい保守的態度(日本分子生物学会の大隅典子のような)か、際限のない揚げ足取りにしかならなかったのである。
さて冷静に見てみよう。
社会は知性では動いていない。ほとんどが経済であり、少し安全保障である。これらは現実のコントロールという技術的結果が真理の条件なので、真理の合意説と関係がないのである。それゆえ多くの国民は、自らの小さな世界に反映する限りにおいて、かなり常識的な判断をしていると思われる。もちろん彼らが未来を予測しているわけではないが。
そういうわけで21世紀に何が知性であり、何が正義がは、合意とは関係がなく、大変不安定だいという点で内山樹は全くの抽象論に終始している。
一部の極端な下品な政治運動を否定するために「知性」を持ち出すのは、知性の尊厳を台無しにする行為である。
ぼくは、20世紀の言語哲学の不毛な通常科学から脱そうとしているアメリカの学者は、学際的でいまだリベラルアーツの精神を保持している稀有な存在だと思う。
さて日本で尊敬される現代文というものはあるのだろうか?すくなくとも内田樹は輸入思想のパクリでしかない。
ぼくは苦労をして、日本の閉鎖的哲学がバカみたいだということを示そうと今後も試みるが、ぼくがばかげていない哲学を生む力がないのはわかっている。だが内山樹の切り貼りの作文が東大生を知性を決定することになっていることには衝撃を受けている。俺より確実に優秀でなくてはいけないからだ。
最後に「知性主義」には何の意味もないのだ。アメリカの反知性主義とか言ったって、キリスト教原理主義者は進化論を信じておらず、インテリジェントデザインなんか信じているだからホッフスタッターの引用を待つまでもない。
 *追加:アメリカのプロテスタントの際限のない分派活動が、そういう反知性主義の基盤であると思う。
 そういう分派はロックバンドのコンサートのようなミサと説教を行う。

少なくとも、日本人は記紀を科学的に支持しておらず、ほとんど全員が進化論を受け入れていると思う。

だがである、アメリカのポップミュージックと日本のポップミュージックを比べるとアメリカの反知性主義も、郷に入れば郷に従えでいいのかもしれない。アメリカの知性主義者は未だヨーロッパの方を向いており、フォスターやルイ・アームストロングを知性的とは思わないんだろう。

スティングいわく、ニューヨークではマナーは珍しいそうだ。同じくらい知性は珍しい。

パラダイムシフト的研究を安易に志せば、小保方氏の運命が待っているだろう。気を付けてほしいものだ。
posted by Kose at 21:51| 哲学社会科学エッセー

東大の国語問題がくだらない

2016年東大国語1入試問題
内田樹の「日本の反知性主義」という本からの出題である。

まず、リチャード・ホッフスタッターの「アメリカの反知性主義」の引用から始まり、意味不明なロラン・バルトの引用がある。大意は、反知性主義も単なる知識の点ではより知性的であり、知性主義は見かけで区別できない。そこで内田は、集合的な知性の更新に寄与するのが私の知性主義の定義だ。

これだけの話である。
18歳の子供には難しく見えるかもしれないが、要するに「私が所属する集団の知的停滞を革新することを期待している」ということである。

これは多くの本を読んできた大人には、トマス・クーンのパラダイム・シフトの焼き直し(パクリ)でしかないのは自明であろう。

東大の出題の意図は、知識の詰め込みではなく、知的革新が「いい」という東大の停滞感(シンガポール大と北京大に抜かれた)を何とかしてね、みたいなメッセージ性が読み取れる。

問題点を指摘すれば「アメリカの反知性主義」は名著かもしれないが、ひとつのアメリカ人がいるかのように論じている点でよろしくない。あんたアイダホでポテト作ってるおっさんにとって知性って何よってことよ。

それはお飾りだ。「反知性主義」という言葉が使いたかっただけだ。

さて内田樹はマルクス主義者で、構造主義者で、フェミニストで、よくわからない日本精神主義主義者である(つまり自然=ピュシスを日本の自然信仰に位置付け、その自然の弁証法的唯物論=マルクス主義というわかりにくい手法だが、中沢新一とかの緑の党的発想も類似である)。そして知性を語るのに十分だとは決して尊敬されているわけではないということである。

内田は東大の仏文!だそうなので、俺は信じられない。ご存知の通り、フレンチ哲学・文学理論など、アメリカの知性主義者たちはバカにしているからである。

こういう背景は、18歳の子供にはわからないだろう。東大の出題者こそ、自己の知性の定義の範囲の狭さを顧みていない査証である。

まあ、この本の趣旨に対する答えは、日本の老人たちの知性は危機的であり、あなたたちに何とかしてもらうほかはないということだと読める。

満点は試験の教室から出ていくことだと思うね。そうじゃなきゃこの出題の趣旨に反するよ。つまりこういう知性主義への誘惑こそ反知性主義だからだ。一時よく朝日新聞とかに出ていた感じの。

今後入試改革をするのなら、内田樹の愚論をコテンパンにやっつけるようなものでなければならないと思う。

posted by Kose at 19:50| 哲学社会科学エッセー