2015年07月18日

論理学的に安保法制は違憲でも合憲でもなく無意味なのだ

かりに自民党現内閣の法案を憲法学者ではなく論理学者に採点してもらったら赤点だというのは確実である。

概念には自立した内包的意味が無い。ある体系との関連で、外延的指示が間接的であれ可能な場合なんとか意味がある。しかしすべての概念の意味は慣習的である。もっとも合理的な概念の導出方法は「あたりまえ」の概念から導出することである。電力の周波数やエスカレータの立ち位置が東西で違うのは、最初にあたりまえだからその後合理的なのである。
好きか嫌いかは別として、どうおれが考えても憲法は「あたりまえ」全集である。これを内容がなんであれあたりまえとせよ。かくしてどんな個別の方も合理的体裁を取ることがしやすくなる。少なくともその最終的根拠は「あたりまえ」全集に訴求すればいいのだからである。

あたりまえなのはある意味正義である。だいたい日本の左巻きの連中は、55年体制下の「あたりまえ」全集のイデオロギー的解釈を「慣習」としてもっている。

帝国主義末期のいわば世界全体のカタストロフに位置する第二次大戦と同じ国際政治状況が再現されることはありえない。なので1950年代の頃の「戦争を繰り返さない」という意味と、今日の同じ言葉の意味はぜんぜん異なる。どうやったら日本があるいは中国以外の国民国家が、帝国主義的野心を持ち得ることができ、現在の世界的な経済的に普及しつつある繁栄を台無しにして戦争をするのは、反近代主義のいかれぽんちだけである。

もちろん、全く予想だにせず経済的カタストロフが全世界を蹂躙し、苦境に経った準先進国が軍事的拡張主義に走るなんてシナリオも考えられなくはないが、ギリシア危機を見てもそのようなカタストロフを未然に防ぐ体制は、あなたのギリシア国民の独善的な民主主義の評価がなんであれ、損なわれていないと今のところ結論できる。

要するに戦争したいから戦争するような単純な時代では「ない」。
あまりにリスキーである。アメリカですら消耗してそのヘゲモニー減退の一員になったくらいだ。

さて、「あたりまえ」の中にはべつに「あたりまえ」全集に入ってなくても「あたりまえ」のことはたくさんある。地上に足をつけ頭を上にし、口から食料を入れ、尻の穴からうんこするとか、性行為は基本的に異性の性器との結合でやるとか(日本は別に他の方法も禁じていない)、一言も書いていない。人権に基礎がなければセックスもできないということはない。セックスをどう位置づけるかしか「あたりまえ」全集にやることはない。

そういうわけで、「あたりまえ」全集に入ってなくても、独立に行為は可能である。おれは逆立ちをする自由をもち、太ったり痩せたりする自由を持ち、柳原可奈子が大嫌いだという自由をもったとしても、自家用ジェットを運転する自由はない。ピケティや朝日新聞に言わせれば格差かよ。おれは自家用ジェットを運転したいと思ったことがないし、それを空想するにはあまりに想像力が貧弱でだからこそ、マルクス主義革命アホかいなと想像力不足で思ったくらいである。欲しいだけ作って、何もなくなったらどうするの?作られるまで長い行列を並ぶの?まるでギリシアのATMじゃないか。おれは今コンビニ行ってありったけの金引き出せるがね。

さて安保法制の論理学は、「あたりまえ」全集からあたかも導出されたように政府与党は理解しているのだが、「国民の権利財産が根底から覆される場合」という言葉を挿入することによって、それが憲法からは導出しておらず、憲法もどきであると自ら白状している、法制の技術的に致命的なミスが有るということに尽きる。

そのため「存立危機事態」が孤立した概念になり、内包的には無限後退、外延的には制約が不明という、まあ野党に突かれる事態を招いているのである。それだけである。論理的に不備なだけで、また「憲法解釈の変更を成文的にやらなくてはいけないという勘違いのため(これは首相が憲法を成文的に改憲したいという願望から出た致命的ミスだろう。今まで閣議決定しなかったのは成文法独特の問題が暗にわかっていただからだろう)、泥沼化しているのである。

中長期的に見て、アメリカのヘゲモニーが変化するのはあたりまえだから、昔アメリカが作ったままの憲法に、アメリカも責任負いかねるというのは明らかであろう。何時のことかわからないが、それは東アジアの周辺危機ということではない。根本的にアメリカがおじゃんになることすら長期的にはある。それは人類はいつか理由は不明だが滅亡するだろうというくらい確実である。

なので9条の会に同情の余地はなにもない。それは例えばなでしこ女子サッカーの準決勝のイングランドのオウンゴール程度の偶然である。よく攻めていたし、大儀見が決める蓋然性も高かったかもしれないが、イングランドの選手のつま先に当たった角度が、ポストバーの下半分に当たるというのが現実であり、9条というのはそういう現実だが、9条は準決勝的偶然であって、決勝的偶然ではないということである。

だいたいろくに社会思想史や法学史も学ばないで、憲法だけ読んでありたがる連中は浄土宗か、浄土真宗か、日蓮宗であろう。

おれはポストモダンの後についてお勉強しているので、はっきり行って政治的現実などどうでもよろしい。

日本人に人権も民主主義への行為の合理性の基盤をもっていない単なる知性主義的崇拝物である。
誰かが、「安倍晋三 決めるとなると 前のめり 支持率落つ とは梅雨知らず」とかいても、いつの間にかおれが世間から秘密警察に拉致されて、いなくなって、東京湾に浮いているとかはないであろう。おれが懸念する権力というのはそのクラスのものである。おれのオヤジは二度特高に捕まっているからな。かかってくるなら来いよ。それが東京新聞なんてプラカードに書いたような文句を俳句だと言いはって弾圧されているというのだ。単に役所はすべて得体のしれない奴の利用に対してはおしなべて保守的だよ。何が得体が知れないかにいろいろ基準は現場で違うけどね。たんに役人の課長クラスの決済レベルの判断を「国家の政治弾圧」とかいうクレーマー東京新聞は今日ら一切見ないことにした。母の身の回りの世話で新聞「紙」自体は重宝するからとるけど。

わかってくれたかな?
なにかあたりまえかから意味を継承していない独立した概念を説得するのは不可能に近いというだけである。
この不可能さを理解が進まないと取り違えるのは反論理的である。したがって無意味だから、適当なレッテルを貼るしか大衆向けにはやむを得ないのである。非常識なのもあるけれど、そちらは「あたりまえ」性への訴求力があるからね。

まったくあれもこれも手抜かり多すぎて嫌になっているうちに、日銀の物価目標達成が怪しいことのほうが懸念だ。
posted by Mondayota at 21:25| 日記

2015年07月04日

社会学は可能な場合は予測できないといけない

本当に社会学者は無能か、単なるジャーナリズムか、マーケティング屋でしかない。軽蔑するしかない文系史上最悪の学問である。古典的社会学者は、哲学者でもあり、大きく社会科学者でもあった。現在の社会学は正体不明である。なので国公立大学から社会学を排除するのは極めて正しい。それは骨相学とかエンテレヒ―を国公立大学が惰性で続けているようなものである。もし教養とか思想とか言うなら、それこそ国公立であるほうがおかしい。
可及的速やかに古市憲寿が社会学博士号取る前に東大から社会学を排除してもらいたいものである。それに新聞研究所の後身の期間は、カルチュラル・スタディーズの巣窟のはずである。こういう連中が東大の足を引っ張っているのである。だいたい東大の経済学部はマルクス主義経済学の牙城だったが、1994年以降どうしたんだ?しらばっくれているのか?別にカジノ資本主義経済学をやってくれとは思わないし、何でもゲーム理論とかシミュレーションで似非数学化した経済学をやってくれと思わないが、まあ社会学よりはマシである。

さて社会学が唯一面白い結果を出せるケースは、ジャーナリズムとかが合理的に説明していることが裏切られるだろうと予想することである。

「ギリシアはEUに残り、長期的に再建される」

これしかない。ジャーナリズムがなんと言おうと。
これはギリシアが本当は歴史上ほとんど西欧ではなかったにもかかわらず、近代(1820年〜)になって西欧のメンバーのような面をしていることと、西欧、つまりヨーロッパの正統にギリシアが欠かせないから、EUは政治的文化的にギリシアを切り離すという事ができない両方に関連している。
ギリシア債務問題は、西欧的な基準はおそらく満たしていないことはうすうすわかっていた国家をヨーロッパの象徴的一体性のために迎え入れたということであり、それを外すということは「ヨーロッパの正統」と言うものの正体が不明にすることだということだ。

政体や経済としてはアルゼンチンと非常に似ている。主要先進産業がなく、ポピュリズムの上に独裁や社会主義が横行するという国だ。

これはギリシア出身の政治学者ニコス・プーランツァスがグラムシを参照してギリシアの独裁を分析したのを読んだことがあるのでたぶん確かである。

以上のことはヨ―ロッパの指導者はわかっているのであり、そのためギリシア現政権が、ヨーロッパの正統はどこにあるんだ?ととえばギリシアを救済せざるをえないのである。

まあレファレンダムでイエスになるよう激しい工作が行われるだろうが、仮にノーとなっても同じである。生かさず殺さないようなしかたでヨーロッパで在り続けることを求めるのである。

無駄遣いばかりして借金まみれの血筋の正しい馬鹿息子というわけだ。

これが社会学的な見方である。合理性の背後にあるハビトゥスを見抜くということである。だいたいオレはできるんだが、たいていの社会学者はできないからバカにしているんだぜ。
posted by Mondayota at 13:54| 日記

2015年06月29日

中間的感想文

サール『社会的現実の構成』がどれくらい完成度があり、志向性の哲学にとって十分であっても、社会理論としてどれくらい受け入れられ、それと同時にそれなりに伝統を持つ社会理論に対して必要な批判的目的を達成しているのか、今のところ未知数である。

サールの志向性理論の補完としての一は明らかである。というのも心の哲学であるかぎり、発話行為の社会的側面が曖昧で、こころがあるとかないとか関心のない俺としては、志向性が、言語もそれである、社会制度とかんがえられるものでどのように現実に働くかの方が興味があって、やっとその本に取り組んだからである。

社会学(社会科学)の明らかな欠陥は、社会制度は、「個人の」意図的なしばしば合理的行為に還元可能であるとみなすか、社会は超個人的な実体であるかのいずれかという、タイプに別れる。

結果的によく言われる話は、個人の合理的行為は、非合理的な結果を生む(お決まりの例は「官僚制」とか資本主義の人間の疎外である)と言う19世紀〜20世紀初頭の議論か、社会にとって個人の意識はまったくあるいはほとんど重要でなく、脳において意識が重要でない程度に何らかの社会制度が個人を機能させているとかいうものである。これは株取引、今週大混乱するかもしれないがに顕著である。

このような社会的なモノは、何にせよ、社会的現象の因果的説明がターゲットである。
そのれいは枚挙に暇がないが、成功しているとは言いがたい。

というのも、第一にこのような「社会」のなにがしかのまとまりは、単純な、あるいは仮想の一国の社会制度しか説明の範囲に入らないからである。

これが極めて大きな誤りであるのはフェルナン・ブローデルとイマニュエル・ウォーラーステインの中心周辺による資本主義システムの国際的性格が、社会学(社会学)では、なにか国内の問題につねに読み替えられるという、社会学や社会科学の合理性が官僚制と同じくらい非合理的だということを20世紀末までに示され、その説明は世界史の標準的解釈に既になっていると思われる。

イギリスと紅茶と砂糖とティーカップはイギリス人の単に息抜きのための時間の道具に過ぎないが、それを可能にするのはインド植民地におけるの生産、アメリカ大陸のプランテーションにおけるサトウキビの生産、中国の青磁器に由来する陶芸技術の世界システムがそれを可能にしているのだということはよく言われることだ。

僕としては「社会」というのがあるのかについてはものすごく懐疑的である。それは歴史的であるため偶然であり、社会学や社会科学者の妄想以外の場所では誰も社会を見かけることがないからである。

ウォーラーステインのような歴史的因果的決定論的モデルは、たとえば現在のグローバリゼーションにおけるアメリカと中国の経済・政治・軍事のヘゲモニーの闘争が歴史的教訓ではアメリカに不利であろうことを暗示する程度に非常に有効である。植民地時代の終焉とともに国内に巨大な潜在的失業者を抱える中国は、帝国主義が無慈悲であったように、国内の大半の農民と労働者を搾取して成長を維持できるが、アメリカはそういうフロンティアをもうもたないからである。

さてもはや流行りそうにない社会学や社会科学でも、この程度のことは言えるのである。

では素朴になぜかと問う。

なぜ「アメリカは」とか「中国は」とか言う擬人法は許されるのか。

「政府」はそれほど万能で自明なのか?

なぜ政府は政府なのか。なぜ法は法なのか。一体誰がそう決めたのだ。

これについては非常に権威のある神話が多い。

特に難問は、社会契約における自然状態のモデルである。

おれがろくに憲法を信じていないのは、要するに社会契約論と密接に関係する人権は憲法に書いておるとおりでありえるはずがないということである。これは我ながら深刻な問題である。

俺の説明はこうである。
絶対王権時代の自然権
近代資本主義時代の帝国主義内の成人男性有資産者の契約状態による帝国主義的自然権
冷戦時代における偶然的要素がないとはいえない普通選挙をもつ国民国家の自然権の国際的合意主義への移行
現代

このような見方は、しかし自然権と戦争という大事ではあるがバカバカしいものに依存しすぎている。

だからなぜ、そんなに法は経済はその醜悪さにもかかわらず合理的と西欧の御用学者は(日本の受け売りの御用学者も)未だに考えているのか?

サール先生は分析哲学者にありがちだがまったく歴史主義ではない。
サール先生は、大事も小言も、ほぼ同じ「論理」構造によるというそれを摘出しているだけである。
そのためたまに例証に引き合いに出される以外、実は社会の動学の因果的説明は行っていないのである。
なぜかといえば、社会も歴史も因果的目的的に合理的ではないのは、自明だからである。
社会科学者や歴史学者がやることは、ほぼ偶発的事件を合理的に再構成してしまうことである。

歴史については更にひどいと思うのだ。明治維新が日本の夜明けだというのはひどい安直な神話だ、水戸黄門クラスである。だが司馬遼太郎が「明治維新を日本近代化の夜明けとみなす」と書くことによって、詳細はともかくそうなったのである。

なにが言いたいかというと、サールは論理構造について語っているのであって、しばしばわれわれが社会について考える際の因果的事実的問題は扱っていないのである。哲学者だからである。

おそらくウェーバー、デュルケム、ジンメルそしてぐっと新しくブルデューらの社会の基礎理論とは関係があると思うが、現実の社会的構成のような20世紀後半のガラクタについてはサール先生関知するところではないであろう。

サール先生の考察が、スマートさを欠いているとか、発話行為と志向性に強引に還元しようとしているとか、今のところ疑問に思うところがないではない。

不眠で疲れているので翻訳する以上のはっきりした見解が出せないのはスマンと思う。
posted by Mondayota at 02:33| 日記

2015年04月12日

脳科学は、カント主義的観念論である

心理学者の見解では、遠近法的視覚の把握は「脳によって総合されている」そうである。

しかし、人が空間の中で身体的動きを正確に行っている限り、それを「脳によって総合されている」と主張するのは誤りである。というのも、客観的外在が、その動きが正確かどうかを決定する最終的因果的原因を与えるからである。たとえば、歩いている時年をとっているなどして、自分が思っているほどつま先があがっておらず、階段や段差で躓くなどは不正確な身体的動きの典型である。この場合、責任は脳にあるのか、それとも足の筋力にあるのか、そもそも不親切な段差や階段にあるのかよくわからんが、「すべて脳が」というのは確実に間違いである。

この空間把握と身体運動という観点から見て、心理学や脳科学は完全に「カント主義的観念論」の延長である。脳による総合の大まかであっても全プロセスがわかり、そのプロセスによって脳によってと言うなら話は別であるが、「脳が総合している」というのは「超越論的統覚」と何が違うのかさっぱりわからない。

かくして、「総合」に言及する心理学と脳科学の敗北は決定した。
脳は自律的運動に必要な電気信号をやりとりする神経の末端が単に肥大しただけのものである。

ところで、来週パソコンを買い換える。前回程度の長文の翻訳をブラウザで編集するだけでものすごく遅くなって、落ちるんじゃないか気が気でなかった。たぶんネット通販で買うんじゃないだろうか?別にOSがなんだろうと気にしない。
posted by Mondayota at 16:32| 日記

2015年03月23日

過程と所産の曖昧さ process-product ambiguity

process-product ambiguity
in Oxford Reference
http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/authority.20110803100347584
Ambiguity that affects some important philosophical notions, such as observation, explanation, or perception, which can either refer to the process or activity of observing, explaining, or perceiving, or can refer to the product of that process. Philosophies that reify perceptions, for example, may be charged with falling victims to the ambiguity.

過程と所産の曖昧さ

観察、説明、知覚のようないくつかの重要な哲学的概念に影響を及ぼす曖昧さ。その場合、観察すること、説明すること、知覚すること過程ないし活動にも、それらの過程の所産にも言及し得る。例えば知覚に具体化される哲学はこの曖昧さに陥る疑いがある可能性がある。


日本語でのエントリーがないので訳した。俺の翻訳ではambiguityは「両義性」としているんだが。

サールの事例では、「雨が降っているとわたしは信じる」の「雨が降っている」には、雨が降っているという事態である過程と、それを命題にした(ある意味表象した)雨が降っているという知識における所産が、現に雨が降っている時、この両義性が出現する。デリダに言わせれば、現前は形而上学であり、所産としてのテキストしかないというような感じであるし、かなり多くの西欧近代哲学が系統的に間違えているということになる。
雨が降っており、駅に急い向かっている時、主に志向性は「駅につく」ことにあり、雨が降っていることはネットワークやバックグラウンドに退く。彼が、ずぶ濡れになってなお雨が降ってお手上げになった時あきらかに雨が降ることが志向対象になる。その場合雨が降っているという現前する事態(現前というかおそらく背後もずぶ濡れなんだが)と、ではコンビニで傘を買うとか、会社に遅れるのは承知でドトールコーヒーによって雨を凌ぐとか、因果的かつ志向的な行為の前提条件として雨が降っているという知識としての命題は明らかに別である。というようなことは「知覚」では非常に多く生じ、それはジョン・ロックの時点からずぶ濡れなのである。決して観念は雨に濡れないのである。もちろん観念論の本自体はずぶ濡れになってゴワゴワになるが、その精神はイデアとして不滅だと言いはるのである。やれやれ・・・
posted by Mondayota at 14:14| 日記

2015年03月22日

松本麗華著『止まった時計』を読み終わった

まったく誰の視点で読めばいいかによってかなり印象は変わるだろう。
そもそも本を書く意図は彼女の父が「詐病」ではなく本物の精神障害であり、彼の父の「指示」が曖昧なものでしかありえず、教団幹部の暴走?で起こったという点にもともとあったようだからである。また警察やマスコミ(具体名列挙されている)によって彼女の12歳から31歳までの生活がどのように不当に妨害されたとか、彼女の12歳時の地位をサリン事件以降の教団が、彼女の母もふくめ、つねに利用してきたことに彼女が無実であると述べているから、全体として彼女と彼女の父の自己弁護の色彩が強すぎて、特に被害者の人たちには読むに耐えないと思われて仕方ないものである。

まあ、彼女自身3月20日にいくつかのテレビに素顔で出演したのに対し、フジテレビが彼女の妹四女を匿名インタビューで出演させた理由はこの本の一部でわかる。

フジテレビの「とくダネ!」の前身の1990年代の「おはようナイスデイ」がおそらく13〜14歳の私服の彼女をカメラで追いかけ、インタビューには応じるが、姿を流さないでほしいとの条件で取材を受けたものを、まるまる映像として流した一件がまず最初に彼女が経験した、教団外部からの暴力だったことに由来するのは間違いない。彼女の理論では、法服と私服には大きな意味があって私服を取られたのは相当ショックだったらしい。

フジテレビの悪質な体質は小保方晴子氏が失敗に終わることになる検証実験に「私服で通勤する姿」を撮影して、何ら言質はえられなかったものの、その後オリジナル動画として再三同番組で小保方晴子氏のニュースになると流すという三流雑誌並みの態度に継承されている。

松本麗華氏についても小保方晴子氏についても、犯罪者ではないし、容疑者でもないし、誰も傷つけていないし、真相が判明する可能性が乏しいのは共通しているが、フジテレビとNHKは犯人と断定しているらしい。

NHKは、通信制のNHK学園に彼女の受験を拒絶したそうである。

彼女がわかっていないのは、国家権力への暴力的挑戦が「戦争」をしか意味しないのだということである。

フジテレビが担ぎだした四女はおそらく江川紹子氏が後見をしており、その意味でマインドコントロールから解放され、教団を完全批判するとともに、三女、したがって著者がまだオウムを信仰していると公然と異いきることができたのは江川氏のマインドコントロール化においてであろう。

三女も四女も事件当時小学生の年齢である。いったい安藤優子のようないい大人が本当に何を考えているんだか。

著者の最小の言い分は、彼女の父が詐病ではなく精神障害であり、少なくとも幼少の頃「母とは異なり」優しかったという肉親の情は捨てられないということである。

だがそれ以外にも彼女の父が「指示」したか否かに関して父をかばう傾向が強く、彼女がそれが国家対教団の戦争であり、戦争の敗者の指導者としての彼女の父の責任の評価が小さすぎるのは否めない。

彼女が現在に続く教団に関与があるかどうかについて、「ない」とみていいであろう。「なくても彼女の存在とその宗教名は存在する」し、今後も続けるだろうということである。これは宗教特有のカリスマとその肉親による継承というほとんど人類不変の法則からそう言えるのである。

したがって一般人としてもはや関与したくないとおもうという主張はわかるが、それにはこの本だけではかなり不十分だろう。

それは彼女が宗教について、オウムによる偏った理解は知識として持っているが、他の理解のあり方に何ら知識がない点もやばい弱点である。

彼女によればオウムは仏教なんだそうだ。彼女は平凡な坊さんの長い修行について何ら知識がない。
原始仏教は、古代インド宗教の輪廻思想や苦行に対する決別である。今日仏教として知られるどんなものもはるかに洗練されている。明らかに古代ヨガと輪廻のモチーフを仏教の名でパクったのがオウムである。
このため原始仏教を直接理解するというインテリの脇の甘さがオウムが知的に理解できると考える余地を残すのに貢献したと思う。

基本的に「苦行をしない」はずだが、現代仏教でも「苦行」の痕跡はある。それに仮に仏教に真理があったとしても、それは知識として理解だけでは不十分で、「体得する」という点で苦行の痕跡がある。このため仏教に「出家」の制度があるが、オウムの核心はこの恣意的な「出家」という概念である。仏教では、大衆のために「出家」するのだが、オウムでは大衆から「出家」するのである。一連の事件はこの「出家」のエゴイズムをめぐる闘争として始まったと考えられる。そしてこの闘争が、おそらく彼女の父の表面的な知識とだんだん進行する被害妄想につながって前代未聞の「戦争」に発展したのだと考えられる。教団内部の末期的な忠誠闘争について彼女は、彼女の父を利用したと主張する気配が感じられるが、彼女の立場には大いに批判の余地はある。

などなど、その13歳の少女が父について語る資格があったかとか、31歳の彼女が父について語る資格があったかについての理解は浅い。危うさを感じる。

結局、彼女の死刑判決を受けた父は、彼女にとっては愛すべき父であるという点に回帰してしまうのである。ひどい悪矛盾である。それによってその間に「戦争」があったことが欠落するのである。

これは全くある種のナショナリズムと同一の構造である。どのとは言わないが。

さて、彼女が臨床心理士を目指しているのも危うい。あきらかに心を扱うという点で、さほど教団から距離が取れていないからである。しかも、彼女が大学でみにつけることができた心理学的知識が、この本での自己分析に使用されている。そのため彼女が直接自分に立ち向かったのか、心理学のアプローチで解釈したのか判然としない。トラウマや自傷行為の記述の多さは、心理学的解釈による隠蔽かもしれない。こういう書き方は村上春樹もやるので罪のないものかもしれないが。その他父と母の解釈にも心理学的解釈が介在している可能性がある。そういうことを対象化できないのである。

さて、タイトルは、父が逮捕された後、直近の記憶から記憶が失われるという実体験に基づくものであって、メタファーではない。確実に心理学的に病んでいたし、未だに病んでいるかもしれない。もちろん「戦争」の意義を理解できないのは、右翼とおなじである。

だが、実名と顔を晒し、批判を甘んじて受ける立場に立ったことは、教団への姿勢を示す点で意義は小さくないだろう。
とにかく人望があることとカリスマがあることの違いを正確に判別する判断力をもち、それをもって自身の父に対峙してほしいものである。

*追記:幹部に「さん」づけした理由がわからない。父の問題はのぞいても世間では確定した犯人である。
posted by Mondayota at 12:36| 日記

2015年03月17日

近大ばかり報じられるが東洋大も健闘中

◆2015年度主要私立大学一般入試志願者数トップ10(3月6日10時現在)
http://resemom.jp/article/2015/03/06/23374.html より
1位「近畿大学」
2位「明治大学」
3位「早稲田大学」
4位「法政大学」
5位「日本大学」
6位「立命館大学」
7位「東洋大学」
8位「関西大学」
9位「中央大学」
10位「立教大学」

2013〜14年東洋10位だったと思うので、大躍進である。仮に箱根駅伝がふるわなくても伸びる伸びる。青学どうした?圏外かよ!


昨年差では、21050人でダントツである。なんか上の順位、箱根駅伝シード校に見えてきた。
posted by Mondayota at 12:44| 日記

2014年03月12日

I'll watch the drama "Ashita, Mama ga inai"

Well, this drama is another case of justice violence after Huge Eathquake.

I found what I'm looking for.

The loud chorus of justice is not real. It is cry for nothing.

We have no power against nature disaster.

It is very easy to understand maybe for elementary school children.

The first one was against nuclear power generators.

It was lost in the last erection on Tokyo.

So who have conscience have to do ......

Last week it was blaming Mr. Samuragouchi.
This week it is blaming Ms. Obokata.

And the next victim of justice violence after huge earthquake is you or me.

What is this game?

I want to say for news papers to be relax more. Do you want to be the tool of fascism?

Japan is not so bad and the world is not so bad you reported.

I have no hope for tomorrow because I'm victim of terrible mental disorder but I can eat every meal and I can sleep well.

Well I'll watch the final epithod of Mana Ashida's drama from now.

We are born alone and we will die alone. There is no heaven nor hell. There's only boring world and emptyness.

Good night and don't cry no more, baby!
posted by Mondayota at 21:54| 日記

2013年08月31日

1分で読むニーチェ

ニーチェが哲学者なのかどうかは定かでない。
実存主義者にもポストモダン野郎にも、ナチにすら、適当に利用された。

五木なにがしが、「怨」をルサンチマンだと言ったその「ルサンチマン」という語を哲学化した業績がニーチェに帰せられるのは確実で誤解の余地はない。

ルサンチマンはフランス語だが、英語で書くとre-sentimentで、「反ー感」が、ニーチェのこの語の解釈のベースである。

ショーペンハウエルを通じたカントの二元論やヘーゲルの弁証法の正反合やに対する批判であって、汎神論的なヘーゲルにより弱体化したキリスト教が死んだことを解明する用語である。

つまりニーチェによれば力(権力)に対する弱者の反感(怨恨ではない)が、力を悪とする道徳的善を生んだものがキリスト教であり、その先鋭化した善あるいは正しさを求める感情が理性となって、キリスト教を否定してしまうというのが「神が死んだ」の標準的解釈である。

マックス・ウェーバーがこのニーチェの宗教解釈からヘーゲルの歴史哲学を否定する宗教社会学論集を書いたのも有名である。

さてこの点で五木なにがしのルサンチマン論は、極めて表面的といえるだろう。ニーチェは19世紀末の人で、したがってすでに日本が開国した後の人で、芥川龍之介の「侏儒の言葉」などはニーチェの模倣であるのは明白である。

つまり、まあ朝日、毎日、東京のような反権力的な正義が合理的なものではなく、ルサンチマンという感情的なものであって、もし仮に正義を合理化するなら、もはやそういう反権力的立場に安住は出来ないと言うことだ。

さて、ニーチェは民主主義の平等をひどく非難した。これが悪評の元なのかもしれないが、この場合、ギリシア=ローマ史を継承するとするヨーロッパではデモクラシーは、衆愚政治しか意味しなかったのであって、デモクラシーを正義にしたのはおそらくアメリカである。

デモクラシーが全然正義でないのは、それが可能なのは、ギリシア=ローマでは古代的奴隷労働、大英帝国では植民地経営、アメリカでは黒人奴隷労働の下部構造が、お気楽な富で議論に熱中することのできる実はひとにぎりの支配グループの正義でしかないからであった。

デモクラシーのこの逆説はなくならないため、個人の人権に基づく自由民主主義という法的虚構とは別に、現代では、独裁権力が大衆の支持を動員するポピュリズムを区別するのがとりあえず適当である。どんな体勢も完全な自由を享受する社会もないし、大衆の支持を必要としない独裁もないので、程度問題である。

なので中東の民主化が、下部構造の欠落のため無政府状態と独裁状態を行ったり来たりするのを今後も目撃しければならないだろう。

このように権力と正義がお互いに裏切りあうのを客観視するのがニヒリズムである。

なぜニヒリズムでないといけないかと、知識はそのような運動に関して無力であるからである。

この点で実存主義者、大江健三郎は、何も理解していないのである。

さてニーチェについては非常に多くの本が出ているが、その全体像を首尾一貫した哲学があるとして真面目に書いた本は実は誤りである。例として、ジル・ドゥールーズや永井均などがある。ドゥールーズがどれだけ凡庸な哲学史家かはそのニーチェ解釈でわかるから、その他の本も読まないでよろしい。

「権力の意思」という本を書く計画となる目次をニーチェは書いたし、関連する草稿を部分的には書いたが、ほとんどまとめることなく、発狂してしまうのである。おそらく脳梅毒であって、精神疾患ではないと言われている。

さて「ツァラトゥストラ」を合理的に解釈するのは至難の業である。重要なのは、正午の思想と同一物の永劫回帰なのだが、後者は妄想に近い。真の新しい思想を計るものさしとして、どんな悲劇も永遠に繰り返されることを受け入れることができるかという問いで計るべきだということである。しかしいかにもヨーロッパしか知らない隠遁的知識人の文学である。このヨーロッパの隠遁的知識人にニーチェは大きな影響を及ぼしたのは確実だが、帝国主義時代巨万の富を得るイギリスやアメリカ(マックス・ウェーバーはそれが我慢ならずプロテスタンティズムの鉄の檻の一節を書いたとしか思えない)には用なしなのである。むしろ正義に安っぽい哲学は関係がないという結論しか得られないような気がする。

では中国やインドや東南アジアの知識人にニーチェは必要かというと、まあ必要ないだろう。日本人も全然キリスト教の影響がないため、深いところではニーチェは不要だろう。

ニーチェが実用的なのは、カントやヘーゲルなんか世界を現象と本質に二元化しているという「正午の思想」と、ナイーブな民衆主義的正義したがってルサンチマンの克服をのべた「ツァラトゥストラ」の一部だろう。

正午の思想については、現象学の態度につながるところから、サルトルらに影響するのだが、結論から言って、間違いだし、恐ろしくナイーブである。反科学的である。

ニーチェはルサンチマンを克服するために読むべきなのであって、ルサンチマンを語るために読むものではない。
posted by Mondayota at 12:24| 日記

2013年06月25日

今日は医者だ

母親が早朝起きないので、快調である。だいたい6時起きだが、もうフジのめざましTVを見ない。なぜなら、NHKの上条倫子さんが、早朝のみ担当だったのが、6:30以降もミニコーナーで出るようになったからだ。今日はお腹ぽっちゃりをなおす、運動というのをやっていた。壁に手をついて背筋を伸ばすという簡単な運動だが撮影の角度ではかなりエロい体勢である。さすがNHK、真横からしか撮影しなかった。ハラハラドキドキのNHKでした。

さて例のMIDIソフトシンセ、Timidity++だが、いろいろ調べても全然流行ってないのがますますわかった。なんだか日本人だけ熱心だったみたいだ。Vine Linuxにデフォルトで入っていた時期があるらしい。まあWinampのLinux版というのもあるのだが、これはアメリカ人熱心である。今読んでいる佳境の「基礎からのLinux」が終わったら、Winampはやってみる(ただしアップデートされてもずっとアルファ版)。Timidity++はそれが使用するエクストラパッケージが、RPMForgeとバッティングして、毎度更新要請が出てはインストール試みるとエラーがでいるため、完全に削除してしまった。まったく更新要請は出なくなった。めでたしめでたし。

posted by Mondayota at 12:42| 日記