2015年10月23日

難問解決案―サール先生を解釈する

約100年の言語哲学を批判するのはしんどい。
その代わりサール先生を再解釈する―サール先生も言語哲学の要素を共有しているから。
志向性―これは生物学の能力
象徴能力―XをCでYとする―言語能力の志向性の高度の能力
言語制度―象徴能力を社会制度にしたもの、言語学的言語でない場合もある―例:石の列、王冠、制服、「数学」、「コンピュータ」。
まあとりあえず思いつきだが。

それとは別に「萌え」ってなぜか突然死語になっていない?コスプレがオタク文化から、ハロウィーン文化に変わった途端に、「萌え」は死んだと思う。どうだよ社会学者???
posted by Mondayota at 07:09| 日記

難問

また、早く起きてしまった。

大きな点は、ちゃんとの述べられないおれが悪いが、言語が心に内的か、外的かであるらしい。
クワイン、パトナム、デイヴィドソンのようなスーパースターは外的である。
クワインがどの程度今日受容されているのかわからない。というのもクワインの論理学は論理学の標準モデルではないからである。本も出ていない。というか論理学の標準的本はないんだが。クワインの難点はクラスで(これも超難しいが)、自然言語にクラスはないと主張している風に理解できる。だが、身体運動というクラスはある。知覚というクラスはある。言語というクラスもある。心というクラスは異議があるかも知れないがある。そうでないと哲学が言語一元論になる。そしてかすかに、クワインはカルナップの弟子として、言語独立的論理学的認識論なのである。つまり言語は論理的でそれと世界の関係を扱うだけなのである。
クワインは割とまとまっている。2冊だけである。と言っても2冊とも論文集だが。
クワインの後はほぼ天才ゲームである。だいたい読んでもほとんど理解できない。

そこで俺様の公理、「読んで理解できないものはなんか間違がある」、を設ける。

明らかに言語が独立した実体だというのは間違っている。

ということは前にも述べた。哲学者が観念論で間違えたのは感覚が信用ならんという、キリスト教的禁欲主義の道徳のイデオロギーを前提にすべて議論していたためだと思う。ニーチェは単にそれを同じような観念論の用語で言っただけである。

面白いことにまともな経験論の哲学者がいないことに哲学者は気づかない。せいぜいジョン・ロックだけである。ロックといえばタブラ・ラサだけで否定されおしまいだが。

経験論哲学者はたくさんいる。科学者のことである。つまり哲学者は彼らからすればみみっちい見かけ上物質とは何かというささやかな経験論的研究モチリと積もれば科学になったのである。

だから物があるか物が認識できるかを論じるより先に、物を属性を調べたのである。なぜものの属性を調べるかについて厳密な存在論も認識論もないが、調べることができ論理的に記述できたのである(もちろん失敗のほうが多いんだろうけれど)。

これが哲学者の間では偉大な経験論哲学がほとんどいない大きな理由である。

では経験論的に言語とは何か、心とは何か。

心の存在についてはたとえば行動主義心理学におけるように、心は経験的に知りえず、行動に実験のみで知り得るとか、哲学的内観で知りえるとか(現象学はその一方厳密な形式だが)、無意識が意識を力動学的にコントロールしているとか、馬鹿げた話が多すぎた。だから20世紀、認識論的に心は不確かで言語は確かだという理由でのみ、言語実在論があったのは当然といえば当然である。

だが、その間科学技術は発達し物質的に豊かになり、物質を否定するキリスト教禁欲主義は「蒸発した」。

ニーチェもマルクスも、この物質的繁栄を前にしては、やはり道徳的僧侶みたいのである。

わかる?

だからサール先生はアメリカ人だよ。彼の学位論文は1955年だそうだが、キャリアは全部UCバークレーだ。1960年代の若者の反乱に付き合ったことより、ガルブレイスが1959年に書いた「豊かな社会」を真っ先に生きた人なわけよ。自動車でキャンパスに行って、週末にスキーする哲学者(サーフィンするにはちょっと世代が10年違ったかな)は、もはや巷にあふれる技術と、消費しきれない商品で、およそ古代宗教を特徴づけた、現世否定とは関係ないわけよ。

まあおれは躁うつ病で現世否定気味な部分がなきにしもあらずだが、一般的には現世否定は物質の氾濫によって隠されてしまっていると思うよ。アフリカとか中東だとそうじゃないんだが。

それがひとつ。だがから素朴に物質を肯定する態度は偽りではない。毎日程度は異なれ三食おいしくいただける。テレビや新聞はとんでもなく非知的だが、北川景子や佐々木希はとんでもなくかわしい。

そして心理学はいろいろ困ったちゃんなのだが、とにかく哲学者の現世否定の根幹となる感覚についてはものすごく詳しい。

だが総合的意識(総合的でない意識というのは多分定義上ないが)について、よかれあしかれ20世紀末心の唯物論や心の計算理論のような野心的で馬鹿げた仮説がまじめに受け入れられるようになった。

この時点でおそらく言語実在論は立場突然なくなった可能性がある。たとえば言語学のより新しいスタイルである認知言語学は、構造言語学と生成文法を拒否するところから20世紀末あっという間に誕生したり。

だからサール先生の志向性は思ったより使えるわけ。それは言語哲学を犠牲にしても使えるかどうかが微妙なんだよ。しょせん哲学だから。

じゃあおれは自分でフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、カルナップ、クワイン、クリプキ、パトナム、デイヴィドソンを一斉掃射しろと行っても無理よ。一言で言えば彼らは言語実在論者であってそれを証明しなかったというだけど。

まあ来年もこの哲学的ゴミ掃除をやる気があったらやるかもしれないけどな。おれは社会学がもっとひどいことについてなにか述べるのが目的なのだ。社会学は比較社会学である場合でないと無意味というのが、たとえば20世紀末のベネディクト・アンダーソンやブルデューやウォーラーステインらに認められる特徴だと思うけどな。それは文化人類学の異国趣味とは違うんだよ。

だからスーダンにおけるコンプラドール部族の独裁は韓国のコンプラドール朴正煕の独裁と同じだというような仮説ならもっているよ。このような独裁は後発国は容易に解決しがたいし、日本もそういう部分がなくはないのである。こうして日本について言及できるだろうということである。

とにかくたとえば日本人社会学者が日本社会について日本語でなにか書いても何の価値もないということだ。

う〜む。


posted by Mondayota at 04:48| 日記

2015年10月21日

追加 マルクス主義ほか

前回のポストのような事態が生じたのは個々の哲学者のサークルの置かれた状況にもよるかも知れないが、もっと一般的には、反ヘーゲル、そして特にそれを科学だと言いはったマルクス主義の影があると思う。
ほとんど誰も気づかないがウェーバーの宗教社会学論選は、直接ヘーゲルの歴史哲学を実証的に書き換えたものである。暇な社会学者は、やってみればその同型性に驚くはずである。そしてウェーバーはマルクス主義の経済決定論に対してエートスがしたがって観念が自己発展するのだということをヘーゲルを改訂して主張していることに気づくはずである。おれがこれに気づいたのは病気から治ってだから2006年頃の話しである。

つまり精神の科学(ドイツ語では学問と科学は同じ語である)に対抗するエートスがあったのである。忘れられた多くの学者はマルクス主義の影響を受けていたが、1994年に失脚したのだ。

これは学問が偉大な時代の話で、大学でポップカルチャーをやっている時代の話ではない。
だから国立大学の文系学部は廃止すべきなのだ。

国立大学で社会学勉強して電通とかメディアに入って、社会学的予言の自己実現の遊びにふけっている奴が多すぎる。
電通大学とか博報堂大学とか作ればいいのだ。電通大学世論操作学部アイドル科とか博報堂大学世論操作学部デザイン科とかな。
posted by Mondayota at 04:41| 日記

2015年10月20日

企業か法人か?

"corporation"は一部は完全に「企業」「会社」なんだが。カリフォルニア会社法の条文も引用しているしね。しかしアメリカでは会社法で法人となることがCorporationの定義一部でCompanyとの違いだそうだ。だが明白に営利企業である場合を除けば、"corporation"の地位機能の創出の文脈では、「法人」であることが要点である。サール先生は無自覚なのかもしれないけれど。なのでできるだけ法人とする。あるいは、デリダの『有限責任会社』へのあてつけなのかもしれないが?しかし説明不足というか事例不足だよね。お金とか壁とか王とか比較的単純な物と比べることができないのである。

カリフォルニア州会社法の該当部分
Chapter 2. Organization and Bylaws CA CORP § 200。同セクション原文全体は次のとおり:
(a) One or more natural persons, partnerships, associations or corporations, domestic or foreign, may form a corporation under this division by executing and filing articles of incorporation.
(b) If initial directors are named in the articles, each director named in the articles shall sign and acknowledge the articles;  if initial directors are not named in the articles, the articles shall be signed by one or more persons described in subdivision (a) who thereupon are the incorporators of the corporation.
(c) The corporate existence begins upon the filing of the articles and continues perpetually, unless otherwise expressly provided by law or in the articles.

サール先生(b)を落として引用している。(b)には明らかに「人」initial directorが指名されている。このinitial directorはX項ではないという議論が欠落している。法人格が特殊だというのは認めるのに吝かではないが、X項つまり人や物をY項つまり法人とするのではないというのは微妙である気がする。

まあ会社法について何も知らないので、文句をいう筋合いではないが。

しかしこの不自然な点にまあある程度妥協を見たので、疑問は保留して、なるべくやる気を回復して、先に進めたら進みたい。
posted by Mondayota at 20:02| 日記

2015年09月25日

ドン・ヘンリー(イーグルス)の新作アルバム「Cass County」が聴けるページ

First Listen: Don Henley, 'Cass County'
SEPTEMBER 17, 201510:03 AM ET
http://www.npr.org/2015/09/17/440361538/first-listen-don-henley-cass-county
*一番上のCass County [Deluxe Edition]をクリックすれば全部(1時間2分52秒)聞けます。

この9月25日「今日」リリースのドン・ヘンリーの驚くべきカントリー・アルバム!
冒頭の曲はペダルスチールをフィーチャーした完全ナッシュビル・カントリーだが、他の曲は、「ロング・ロード・アウト・オブ・エデン」のスタイルに近いので、期待できます。
ドン・ヘンリーのソロ時代は、シンセ全盛期だったので、イーグルス初期からすればこんな感じが自然か?

追加:埋め込むことができた。ここで聴けます。


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Don Henley Cass County Official Trailer


Don Henley Performs "New York Minute"

Don Henley Performs "Too Much Pride"
posted by Mondayota at 14:58| 日記

2015年09月12日

ホモ・ナレディ

南アの洞窟で発見された、ホモ・サピエンスに近く直立した、頭部が小さい原人の話し。

埋葬なのか、議論は分かれているらしいが、興味深い点は、手足はホモ・サピエンスに近いが、頭部などは原始的な形成を残していること。

ナショナル・ジオグラフィックで近々特集号がでるとか。

小顔のヒト属新種ホモ・ナレディを発見、南ア
ナショナル ジオグラフィック日本版 9月10日(木)18時24分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150910-00010002-nknatiogeo-sctch

形質人類学についても無学なので嫌になってしまうが、以下は感想文。

『社会生物学論争史』で、チョムスキーが、言語は適応の所産ではないと語ったのは確かなようだ。
社会生物学の遺伝的適応と、文化的行動の話はグズグズの様相を呈している気が上巻を呼んだ限りする。ほぼ自分の希望的観測ないしは宗教的信念に合わせて包括的説明がなされるケースがあまり多くて、そういう部分は飛ばし読みしたら、飛ばし読みが非常に多くなってしまった。

昆虫レベルでも、個体の至近要因(つまり行動)は、遺伝子(究極要因)と相関的であるように考えられていると思うが、すべての個体が同じ行動を取るわけではない。つまり適応的でない行動する個体もある。ただ通常淘汰されるだけである。

遺伝子変異のほぼ中立説というのが日本人女性生物学者によって提起され(木村資生の中立説の改良版)、ごく最近国際的な賞を得たらしい。つまり遺伝子の変異は、適応とほぼ関係がないというようなことか?

なんでこんな高度な話題を扱わなくてはならないのか?さっぱりわからん。

大きく見て、というか進化論は大きく見るほかないと思うのだが、そもそも決定的でないのに、反進化論者は、決定論的だから悪いという。他方進化論者は、数学的美しさのゆえに、決定的であるかのように見せることに魅了されているように思える。

獲得形質が遺伝子に影響を及ぼさないのと、あるゆっくり変異して異なる至近要因をもったグループが分枝するのとは別のことである。

以上がおさらい。

さて、文化だが、明らかに適応の代替手段を提供するものであり、かつそれ以上のかなり余計なものを派生させるようなものである。

生物学論争だとそこら辺すっ飛ぶ。

ヒトの場合、脳や行動発達が出産後の最低でも数年異常引き伸ばされる。このことから、文化的行動がマクロな意味での(ミクロな意味では遺伝子以外の化学生物学的環境も含まれる)環境、それが究極因に基づいていても至近因の偶発的な変異の余地を増大させるのは比較的明らかである。

また交尾についても、発情期が限定されていないから、多産であり、至近因で単に遺伝子を残す以上に誰とでも交尾しても構わない蓋然性(至近因)が増えるのも比較的明白である。

ヒトのオスの行動について確かなことはなにもない。おそらくエサとしょっちゅう妊娠出産し、なかなかメスから巣立たない子どもを包括的に世話する係の人なんだろう。そうでないとメスと子は、他の動物の餌食になるばかりである。

フェミニストは嫌いかもしれないが、初期バンドはこんなもんだろう。

バンドには、他の生物と、他のバンドとの交渉がある。ヒトのいい面も嫌な面もこれも文化だということである。他の生物では、農耕牧畜したがって富の発生の萌芽があり、他のバンドとの交渉では、交易と戦争の萌芽がある。

まあそれもよろしい。主題は異なる。

文化、従って知能と言語に、手と口の自由が先立つというのが「ホモ・ナレディ」の示唆するところである。

ホモ・ナレディの話は、ウィトゲンシュタインの「哲学探究」の冒頭の言語ゲームの比喩を思い起こさせる。

まず身振りがあり(ヒトの他者の意図の獲得が9ヶ月革命で起こることを知っている以上この身振りが言語以前の重要な出発点であるのは否めないと思う)、それに「ダー」とか雑音を発する(これは浅田彰によるラカンの紹介をおちょくっているのだ)。

さて、「私」「あなた」というのは最初どのようだったのだろう。明らかにその時点で遺伝子は働きようがない。ラテン語を見ても、日本語を見ても、それは文の文脈である。

だから、最初の会話はこんな感じだ。

ダー! ダー? ダー! ダーダー! ダーダーダー! ダーダーダーダーダー!

ダハハハハ!

ダハハハハハハハハハ!

オブラディ?

オブラダ?

ダー!

ディー!

終わり。
posted by Mondayota at 05:53| 日記

2015年09月03日

死者に鞭打つ

sIMG_1515.JPG

うまく写真が取れなかったが(反射するのでむずかしい)、サノエンブレムのコノテーションは、「刺激」である。この他に銀を使った激辛ガムもあった。
なるほど、真ん中の黒が濃いグレーなのはわかる。そうでないと完全に激辛系の配色になるのである。
死者に鞭打つ。
posted by Mondayota at 11:33| 日記

2015年09月02日

Google類似画像検索の検証

今回活躍したらしいツールのひとつGoogle画像検索の類似検索

おれの間抜けなパクリ作品
g4165.png

Google検索デフォルト画面の左上
google@searcj.PNG

画像をクリックしてカメラマークをクリック
google-image1.PNG

画像をアップロードまたはドラグ
google-image3.PNG

その検索結果
google-image4.PNG

LINEかよ!

そういうわけで単純な類似検索では、類似性は単純に評価されないことがわかった。
反転、色相など変えて検索するような検証作業が必要だろう。最低限

追加

反転モノクロで検索
g4165-mono.jpg

検索結果の「ごく」一部 これらから探すだけでも大変だが、俺のパクリがオリジナルに似てないことが証明された。
google-image6.PNG
posted by Mondayota at 04:44| 日記

2015年08月24日

8月24日は姥ヶ橋延命地蔵尊縁日

母が元気がわりとよかったので、車いすに乗せてお参りしてきた。
よくわかってないんだけどね???

なむ〜

sIMG_1509.JPG

sIMG_1511.JPG

posted by Mondayota at 15:40| 日記

2015年07月26日

読売ウソ記事

大人がけん引、アイス人気…販売過去最高ペース
読売新聞 2015年07月25日 15時54分
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20150725-OYT1T50088.html

20〜40代のプチ贅沢で消費が伸びているのだとう言う

ウソである。

一番人気はロッテの「爽」である。
http://www.lotte.co.jp/products/brand/soh/

soh.jpg

これはラクトアイス(代表は明治スーパーカップ)ではなく、ラクトアイスとシャーベットのハイブリッドである。バニラ系は品切れ状態である。

しょうがないので最近「爽パイナップル(果実入り)」を買ってくる。
 
シャーベット(かき氷)VSアイスクリームと言われるが、まず
これだけ暑いとバータイプのものはすぐに溶けてベチャベチャになるので実用的でない。
なのでカップタイプというとこれが選択肢がない。事実上
ハーゲンダッツ、爽、スーパーカップ、少しマイナーでMOW(森永)
プチ贅沢しようにもあまりに暑いのでしょっちゅう食べるため、ハーゲンダッツ250円位はもったいない。
爽、スーパーカップ、MOW
なら140円でアバウトにハーゲンダッツの値段で2回食える。
ガリガリ君も溶けるのでアカン。

そういうわけで、アイスクリームのニュースを検索したがどれも的はずれである。

爽のバニラの供給が少なすぎる。

あるいはそれに相当するニッチのオルターナティブがない(スーパーカップは基本かなり甘ったるいのだ)

アイスは溶ける。クリームであろうとシャーベットであろうと。
なにがプチ贅沢だ、マーケティングのウソに乗った記事書きやがって読売!このように小ネタで、じくじく新国立のアダを返してやる!五輪エンブレムはまあ最初のジャブである。これが二発目である。

2020年、国民と旅行客の全員の「溶けない」アイス需要を満たすことができるのかが新国立競技場完成以上に懸念される。
posted by Mondayota at 10:14| 日記