2013年02月08日

カントリーで行きまっせ #8 その他のいけてない初期ナシュビル・サウンド

グランド・オル・オープリーは次第に大きな会場を必要として移動し、1943年現在のライマン・オーディトリアムに定着する。1939年から1956年までNBCのネットワークに入り、その全国的影響力を行使するようになる。

前回書いたとおり、グランド・オル・オープリーは、あり得ない「アパラチアの郷愁」と名人芸の融合物を「演出」したショウを、アメリカの田舎者に最初から提供したのである。

この国内の異国趣味は、テネシーの月夜やケンタッキーの草原などたわいのないものも含まれた。この点まったく日本の民謡系歌謡曲とおなじ嘘っぱちなのである。その嘘っぱちと名人芸はニューオリンズについても言えるし、ヴァンヘイレンやその他ヘビメタにもいえることなのである。

しかし、明らかにナッシュビル自身に、クリエイティブなミュージシャンを生み出す想像力は欠けていた。そのため、カントリー音楽史は、西への移動してしまうのである。その西のカントリー音楽を扱う前にどんなつまらない音楽をナッシュビルが提供していたかを確かめる。20年代にオープリーで演奏したほとんどがナッシュビル近郊のなんちゃってマウンテン音楽プレーヤーたちである。彼らが「本物の」アパラチア・ミュージシャンと交流があったのかどうかも分からない。Uncle Dave Maconのようなショーマンですら、彼らに比べたらクリエイティブなのである。ナッシュビルの保守性というのは、マネしかできない性、あるいはそのまんまパクリ性の自信のなさの表れだと思われる。このナッシュビルの空っぽさが21世紀のカントリーチャートの崩壊となって現われるのである。

次のハンンプティ・ベイトは1875年テネシー中北部(Castalian Springs、ナッシュビルが最も近い都市)生まれで、アパラチアンではない。ブリストルセッションと比較して単なるマウンテンダンスミュージックでしかなく、カントリーとしてジャンル化できないものである。編成は比較的大きいのだが、それを生かすアレンジがはない。当時のラジオなので、ベースは聞こえるはずがないと思われる。オープリーには1925〜36年出演した。
Humphrey Bates & His Possum Hunters-Throw The Cow Over The Fence


つぎのバンドもテネシーのバンドである。クック兄弟は父親が事故で他界する頃にはテネシー中で有名なミュージシャンだった。ハーモニカの演奏の革新で認められている。
http://www.allmusic.com/artist/the-crook-brothers-mn0001798822
The Crook Brothers-Jobbin' Gettin' There


ブリンキー・ブラザーズに至っては、ナッシュビルの隣の町の出身である。兄弟それぞれ1888年、1893年生まれである。マウンテンミュージックではなく、そこそこ垢抜けたバラードを歌っているが、ビル・モンローがオープリーに参加したとき交代した。
Binkley Brothers-All Go Hungry Hash House


フィドラーのシド・ハークリーダーはナッシュヴィル郊外の出身である。
Sid Harkreader & Grady Moore-Old Joe


Fiddlin' Arthur Smithもナッシュビル郊外(Bold Springs)の出身である
Fiddlin' Arthur Smith - Eighth Of January


Paul Warmackhaもほとんどナッシュビル郊外(Whites Creek)の出身である。
Paul Warmack and his Gully Jumpers Robertson County


限られた写真だが、オーバーオールかスーツのいずれかしか身につけていないことに注意していただきたい。そこで例のカウボーイが、どんなに適当なものでも、ファッションとして必須になるのである。

そのためにはシンギング・カウボーイを扱わなければならないが、カウボーイについてはちょっと先入観がアメリカ人にも日本人にもある。これは歴史的に解釈し直さなくてはならないし、西部開拓史とも関連するので時間がかかるかもしれないので、どっちが先になるか微妙である。

場合によってはビル・モンローを先に扱う。ブルーグラスという音楽はない。ビル・モンローと彼のバンドのフォロワーがいるだけである。創造性を欠いた名人芸の世界である。
posted by Mondayota at 16:19| カントリー