2013年02月08日

カントリーで行きまっせ #7 ナッシュビル/グランド・オル・オープリーの興隆

20年代はフィッツジェラルドの本の題名で知られるようにジャズの時代であり、SPレコードの時代だった。アパラチア音楽のニューヨークのレコード会社の録音もその放流でしかない。それがメジャーなジャンルになると考えた節はない。またその後も商業的な都合でジャンルが変節するが、カントリー・ミュージックが(最近はともかく)、消えてなくならなかったのはナッシュビルの興隆の所為であるし、それはラジオ=テレビ番組グランド・オル・オープリーの興隆によるものであった。グランド・オル・オープリーを放送したWMSは強力なラジオ局でほぼ全国で聴くことができたとされる。そして大恐慌後の30年代ほぼ現代と直結するカントリー音楽が一大商業音楽として成立するのである。

しかし出発は、かなりいい加減だったとしか思えない。どちらかというと音楽寄りのショー番組から、音楽番組として成立していったことが初期の出演者の足取りから読み取れる。黒人のデフォード・ベイリーが出演していたのは驚きかもしれないが、それは番組がミンストレルショーやメデシンショーのように低級の娯楽という意図があったのが推測できる。実際アンクル・デイブ・メイコンもロイ・アンカフもそういったショーの出身であった。
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アンクル・デイブ・メイコン(既出のバンジョーを演奏する古い世代1970年生まれのエンターテナー)、ロイ・アカフ(20世紀生まれのフィドラー、シンガー)、デフォード・バレイ(1899年生まれ人カントリー、ハーモニカプレーヤー)などであった。

1925年頃にメイコンが結成したメイコン&ヘッドキーパー(後にフルーツ・ジャー・ドリンカーズを結成、ゴスペルを録音するときはデキシー・セイクリド・シンガーズ)が、ナッシュビルで演奏した3週間後にWMSの放送開始となったため、グランド・オル・オープリル最初のミュージシャンとなった。1925年12月26日のことだった。当時は別にカントリーの中心と言うこともなく、ローカルなラジオ局の一つでしかなかった。各州にラジオ局が作られ、多くのミュージシャンがローカルな番組に出演していた。これは1950年代まで続くことである。メイコンは26年間WMSに出演するが、メインパーソナリティではなく、他の人気ミュージシャンとの共演の形を取ることが多かった。このため彼に特にヒット曲はなく、バンジョー奏者としての腕はあまり評価されていない。40年代にはビル・モンローとツアーをしているがすでに70前後である。しかし、後のブルーグラスに、バンジョーがつきものだという固定観念を、あるいはステレオタイプを残すのには大いに貢献したものと思う。音がでかいリズム楽器としての役割は他のジャンルではギターの改良やジャズにおけるドラムスのフィーチャーで実際に消え失せつつあり、唯一残ったのが、でかい音を嫌う田舎のプロテスタント白人の音楽分野だけであったということである。

バンジョーは民俗楽器でも何でもなく、まして現代においてバンジョーは時代錯誤であるのは、楽器の音量の歴史から明らかである。このかわりにギターやフェンダーエレキギターがブルーグラス以外からバンジョーを追放することにつながるのである。

UNCLE DAVE MACON-BUDDY WON'T YOU ROLL DOWN THE LINE

むしろ、おどけたボーカルと、ショー的な間奏部分のバンジョーのピッキングが、カントリーミュージックのバカみたいで名人芸に走るショー的要素が一通り入っている演奏だと思う。

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1903年テネシー生まれのロイ・アカフ(Roy Acuff)は「カントリー音楽の王」とよばれる。ヒット曲は知られていないが、音楽的スタイルの洗練と、ナッシュビル・サウンドの商業的確立には多大な業績がある。ナッシュビル音楽は産業に発展するのである。さらに彼は1942年音楽出版社を設立し、ハンク・ウィリアムズ、ロイ・オービソン、エヴァリー・ブラザーズと契約し、パティー・ペイジの「テネシー・ワルツ」をヒットさせる。

アカフは、まず最初野球選手だったがその後メディンショーに雇われ、伝説のアパラチアン・バンジョー・プレイヤー、クラレンス・アシュレイと会い、彼から「The House of the Rising Sun」「Greenback Dollar」を学ぶ。
Roy Acuff The house of rising sun 1938


スチールギターとベースが入っているが、それは生まれ故郷のノックスビルのラジオ局で演奏をしていたとき、ハワイアン・ギタリスト、クレル・サニーが、ベーシスト・レッド・ジョーンズがアカフのバンドに入ったためだった。その後バンド名をクレージー・テネシーマンに変え、クリアなアカフのボーカルが人気となって(メイコンとは逆だ)、多くの曲をレコーディングする。
Roy Acuff - Great Speckled bird 1936


ジーミー・ロジャース=カーター・ファミリーの流れから言えば水準の高い演奏だが、あくまで東部から見た南部人のステレオタイプで商売をするグランド・オル・オープリーは、彼らのバンドをオーディションで落とした。バンドは名前を変え、アパラチア風のスモーキー・マウンテン・ボーイズにしたあと、オープリーに出演するが、スチールギターがビーチャー・カービーに代わり、高音のバンド・サウンドを確立し、メイコンと共演したりもするようになる。1940年にハリウッドに進出、メイコンらとの映画を残すほか、1943年B級映画「O, My Darling Clementine」などに出演し歌う。アカフが司会を務める「グランド・オル・オープリー’プリンス・アルバート」が1938年から1946年まで続く。

彼のクリアなボーカルはジミー・ロジャースの直系であるし、なによりもスチールギター(アコースティック)をメインの独奏楽器に高めたことは、好き嫌いにかかわらずカントリーのサウンドに決定的変化を及ぼした。ナッシュビルの保守性はドラムやエレクトリック楽器の拒否にも表れるが、アカフはその革新でも少なからぬ役割を果たしたと思われる。まったくアコースティックのビル・モンローと決定的に分枝してしまったと言うことである。
Roy Acuff - Wabash Cannonball 1939


Roy Acuff & The Smoky Mountain Boys / Country Style USA


Roy Acuff - Great Speckled Bird

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デフォード・ベイリー(DeFord Bailey)

最初のグランド・オル・オープリーひとりで、しかも最初の黒人だった。ハーモニカがメインdねたの楽器もプレイした。次のナンバーが十八番らしいが、このスタイルはブリストル・セッションでEl Watsonが演奏した「Narrow Gauge Blues」と類似しているものである。
Pan American Blues


彼は1927年から1941年までオープリ−に出演するが、著作権団体BMIとASCAPにより、公の演奏を事実上禁じられ、音楽界から追放され、靴磨きなどして暮らしたという。理由は明確でない。まあ、たぶん人種差別であろう。
のちに、リバイバルしたときの映像が残っている。

DeFord Bailey Playing Fox Chase and Pan American Blues.


DeFord Bailey: A Legend Lost


DeFord Bailey: A Legend Lost 2
posted by Mondayota at 11:32| カントリー