2013年02月06日

カントリーで行きまっせ #4 カーター・ファミリー(2)伝記

カーター・ファミリーの誕生までの重要な記録がWikipedia日米に掲載されていないし、その他にもなかなかない。次のOldies.comのThe Cater Familyの「biography」の冒頭の部分を訳出した。
http://www.oldies.com/artist-biography/The-Carter-Family.html

これによって、なぜフィドルその他独立したメロディー楽器が入らず、メイベル・カーターのカーター・ファミリー・ピッキングがその代わりをし、コーラスが薄いのかがわかる。彼らの出発は、確かに地元の教会の集まりであったかもしれないが、父親の世代から音楽一家であり、多くを家族の中で演奏したことが、その他商業的ゴスペルグループと異なる点であり、ジミー・ロジャースで指摘するのを忘れたが、少なくともAPカーターがシンガー・ソングライターで、トラディショナルでもゴスペルでもない、オリジナル曲を歌うことができた点も多くのミュージシャンと異なり、ジミー・ロジャースと共通する点でもあった。APはフィドルを弾けたし、セイラとメイベリンはバンジョーも弾けたがあまり演奏していない(APの父母の宗教上の理由とされているが、記述が見つからないものの、母方がプロテスタントで、ダンス音楽の演奏がタブー視されたのかもしれない)。そのため皮肉にもレコーディング・ミュージシャンとして、まだ新しい楽器であるギターの魅力を初めて最大限引き出したミュージシャンと言えるのは確実である。
驚くべきは、APが黒人ミュージシャン、リドルズと共同で歌の収集の旅をし、メイベルのギターがその影響を受けた可能性があることである。当然、カントリーブルースも収集していたであろうし、カーターファミリーピッキングには、カントリーブルースの血が流れている可能性があると言うことである。ジミー・ロジャースにおいてもそうだったが、カントリーのルーツの半分はブルースであるといってよかろう。
またこれもWikipediaとかに当たり前のこととして書かれていないが、リードシンガーは妻セイラで、ぼくのもっているCDを聴く限り、APがバースでハモることは多いが、三人で3パートハーモニーをするのはコーラス・パートにしばしば限定される。したがって、カーター・ファミリーがコーラスで秀でているということはない。むしろ白人ゴスペル・グループの方が分厚いコーラスを歌っていたのであり、そのシンプルなコーラスに特徴があるのである。その影響はカントリー・ミュージックに決定的だと思う。

カーター・ファミリーの誕生(伝記)
カーター・ファミリーはカントリー・ミュージックの最初のファミリーとして、またカントリー・スタンダードとなった「ワイルド・フラワー」「キープ・オン・ザ・サニーサイド」のようないくつかの曲で有名である。カーター・ファミリーのオリジナル・メンバーは、A.P.カーター(Alvin Pleasant Delaney Carter:アルヴィン・プリーザント・カーター、1891年12月15日バージニア州スコット郡メイセス・スプリング誕生、1960年11月7日バージニア州スコット郡メイセス・スプリングで他界)、彼の妻セイラ・カーター(Sara Dougherty:セイラ・ドウアティ、1898年7月21日、バージニア州ワイズ郡コバーン、フラットウッド誕生、19791月8日カリフォルニア州ローダイで他界)、セイラの姪(Maybelle Addington:メイベル・アディントン、1909年5月10日バージニア州スコット郡ニッケルズビル、カッパー・クリークで誕生、テネシー州ナッシュビルで1978年10月23日他界)である。APはまた子供の頃フィドルを演奏し始め、母から多くのオールド・タイム・ソングを学んだため「ドク」カーターとしても知られる。彼の父はフィドラーだったが結婚するとき宗教の信仰のためやめた。若いときAPは地元の教会で二人の叔父と姉と4人で歌った。最初彼はインディアナの鉄道で働いたが、バージニアのクリンチ・マウンテンのホームシックとなり、1911年地元に帰った。彼は作曲に興味を持ち、旅する果物の苗木売りの仕事を見つけた。

旅の途中ある日、「エンジン143」を歌いながらオートハープを弾く(と伝説は言う)セイラと出会い、1915年6月18日結婚した。セイラはバンジョ−、ギター、オートハープを学ばなければならなかった。また子供の頃、地元でマッジ、メイベル、その他友人と定期的に歌った。二人はメイセス・スプリングに家を建て、APは農業や庭師を含むいろいろな仕事をした。そして地元の教会の社交場や他の機会に一緒に歌い演奏した。二人は「海のそばのログ・キャビン」のような歌を歌ってブランズウィック・レコードのオーディションを受けたものの、レコード会社はフィドリン・ドクとしてスクエア・ダンス・フィドル・ソング演奏したが、ドクは父や母の強い信仰心反すると感じたためレコーディングを素っ気なく断った。

1926年APの兄弟エズラ・J・カーターとの結婚後、メイベル(アディントン)が親戚のグループに入り地元でエンターテイメントトリオを始めた。新たな義理の姉と同じように、メイベルはギター、バンジョー、オートハープが同じように弾けた。そしてベース弦でメロディーを弾き、高音でバックビートをはじく独自のスタイルをすぐ作り上げて、トリオのメイン・ギタリストになった(メイベルは、APが歌探しの旅いに行ったとき同行した黒人ギタリスト、レスリー・リドルズの影響を受けたかもしれない)。セイラはオートハープをしばしば弾きながら、リードボーカルを担当し、APはベースを、メイベルはアルトのコーラスを加えた(セイラはまたおそらく彼女の好みと言うよりレコード会社のプロデューサーの指示だったがいくつかのレコーディングでヨーデルを入れた)。

カーター・ファミリーのサウンドは全体として斬新なものだった。初期のフォークやヒルビリー音楽のボーカルは普通楽器演奏の二の次だったが、シンプルなハーモニーを使うトリオは楽器をボーカルを優先する形でしか使わなかった。1927年7月地元の新聞がビクターレコードのらルフィ・ピアがテネシーのブリストルで地元ミュージシャンのオーディションを行うと報じた。セイラは3人の子供がおり(最年少はたった7ヶ月だった)、メイベルは初めての妊娠で7ヶ月だったが、彼らはブリストルに向け25マイルの旅をし、8月1日初めてのレコーディングをした。彼らは6トラック録音した。ピアは強い印象を受けレコードは彼らとレコーディング契約をビクターが結ぶのに十分なセールスを記録した。

1928年から1935年までの間に彼らは‘Keep On The Sunny Side’, ‘Wildwood Flower’, ‘I’m Thinking Tonight Of My Blue Eyes’, ‘Homestead On The Farm’ (別名‘I Wonder How The Old Folks Are At Home’), ‘Jimmie Brown The Newsboy’ and ‘Wabash Cannonball’などの彼らの多くの古典的名曲のオリジナル・バージョンを含む多数のトラックをビクターでレコーディングした。
posted by Mondayota at 17:08| カントリー