2017年01月04日

ニック・フォション『ジョン・サール』序文(私訳・PDF)

サールがどんな立場に対立化しているかということについてははっきりしている。ひとつは科学主義的な規則のプラトン主義的存在である。これは彼が育った、論理実証主義(日常言語学派に対立するところの)から、認知心理学や人工知能や生成文法などである。そのためついつい論理規則が心や言葉やものとは別の世界で独立して、たとえば数学式のように存在するというのはサールにはばかげたことであった。対照的に伝えられるところではクルト・ゲーデルはそういうプラトン主義者だったらしい。言語の自立性は生成文法にも構造主義言語学にも共通する20世紀の神話と言えるが、これはもっと専門的な認知言語学者によって厳しい批判にさらされている(だが、サールはあんまり認知言語学に賛同していないのだが)。もうひとつは反実在論である。哲学は、考えによって世界をとらえる営みだから、世界は考えに還元されるという莫大な先入観があるのは、今日では比較的自明である。テクノロジーが不可欠な現代、いったいジャック・デリダがアメリカで講演するために、お金も、パスポートも、ジェット機も使わず可能であったか指摘するだけで他に何も言う必要がないくらいである。現代の最終的なこのような考えへの還元論(観念論)は現象学で、ジャック・デリダはそもそも望みのない還元論の聴衆に対して、還元論によって還元論を否定しようとしたのかもしれないが、ほとんど理解しがたいものである。発話行為と中国語の部屋とサール=デリダ論争くらいしか一般に知られていないかもしれないが、本当に情けない。
 今後1章ごと、暇を見て掲載していくつもりである。サールが理解できなかったらバカである(全部を合理的に再構成して理解できるか知らないが)。デリダを理解できたと触れ回るのは単に小さな学者仲間以外に話し相手がいないだけである。
 日々科学技術は進歩し、その利便をますます受けるのはたいへん楽しいことで、お金があればなんでも楽しみたいものである。もうオヤジなので、バンド組むのが面倒くさく、録音は全部デジタルだ。発表場所もネットだ。
 だが巨大な資金を必要とする現代科学は大半が、科学に無知な投資家や政府を欺く過剰に理想化されたプロモーションを通してしか、普通一般人はアクセスできない。脳ブームも、人工知能もそのようなものである。科学者はこの点で金に心を売っていることが多いので、多く見積もっても話半分だと思うべきだろう。同じ理由のため心は存在しないとかぶち上げ、科学技術を売り込むことによって最低でもつまらない本を大量に売ることができるのである。
サールの読者なら、そういうなんちゃって万能科学をまじめに取り合うことはないのである。

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Nick Fotion "John Searle" Introduction (PDF)

John Searle

Nick Fotion

Philosophy Now
Routledge
2014 (First Published 2000 by Acumen)


目次

序文
第1部 言語哲学
1 サールの発話行為理論
2 サールの分類学理論
3 非標準的発話行為と発話活動
4 メタファーとフィクション
第2部 心の哲学
5 心の志向性と言語
6 心の状態と言語におけるネットワークとバックグラウンド
7 心の再発見
8 認知心理学と無意識
第3部 社会の哲学と他の問題
9 社会的現実
10 制度
11 存在論
12 真理、表象、認識論
13 総括
文献
索引


序文

ジョン・サールは分析哲学の伝統の中で育ったが、彼はその伝統を越えている。ひとつの理由はたとえば、分析哲学の伝統がひとつやふたつの主題の特定の側面に狭く焦点を当てるようフォロワーに奨励するが、彼はさまざまな主題について書くことである。長いキャリアの中でサールは言語哲学、心の哲学、社会制度の本性や構造、コンテキスト(彼はネットワークとバックグラウンドと呼ぶ)、科学、因果関係のような主題について幅広く書いてきた。
 だがそれを越えて、彼はこれらすべての主題をひとつにまとめてきた ― 彼は単一の「大きな絵」の哲学の立場を形成するようそれらを総合してきた。この本で後にわかるよう、彼の立場は大部分反論的である。それは視野にあるすべて ― とくに何が現実かについての私たちの感覚 ― について脱構築することに没頭する、事実喜々としているようにみえる強力で広範に根付いた現代のポストモダニズムの伝統に反論する。サールの立場はまた、意識を完全に無視したり、心の現象を説明するとき意識を軽んじる点で、意識の価値を毀損する心理学や心の哲学の支配的主張に対してもまた反論する。興味深いことに現実、意味、そして彼の大きな絵の立場を有意味にする彼の感覚を擁護するとき、サールは彼が反論する主張の多くと協力するのである。そう、彼は言う。私たちはある視点からのみ事物を見ることを知っているが、しかしなお私たちが有意味に現実世界と接する存在であると考えることができる。そう、彼はまた言う。科学は私たちの頭の中で無意識的に進行するものの言葉で意識を説明できる。だが、それは意識の重要性を無価値にする必要はないと付け加える。そしてそう。分析哲学の細部へのこだわりは重要だか、それは大きな絵、ないし「総合的」分析哲学に取り組むことをはばむものではない。サールの対立する主張のうわべの非全体的なまぜものは、すべての論的からの攻撃を招きやすくする。同時に、そのまぜものはその主張をおもしろくし、オリジナルなものにする。現代の哲学シーンで起きていることに興味をもつ誰もか遅かれ早かれ折り合いをつけなければならないものである。
 サールが分析哲学を超越する別の理由は、彼が言語について語ることは、哲学者だけでなく、言語学者の興味もまた惹く。彼が心について言うことは、哲学者だけでなく心理学者の興味も惹く。彼が社会的世界について言うことは、哲学者だけでなく、社会科学者の興味も惹く。そして彼が因果関係と科学的説明について言うことは哲学者だけでなく、科学者の興味も惹く。その場合、彼の著作は少数より、むしろ多くの人々にとって興味深いものなのである。
 さらに、別の理由は彼が書くスタイルに関係する。彼が育った欧米のジャーゴンで、サールはストレートシューター(謹厳実直)である。彼が何か言うとき、はっきりずけずけものを言う。彼は完全にジャーゴンを避けるわけではないが、控えめにしか使わない。彼の態度は直接的に明確に述べられないなら、それはかれが言おうとしていることを知らない印である。しかしときどきサールはあからさまにあけすけすぎる。自分に同意しない人と対峙する場合、彼の攻撃はしばしば真正面から、対立する。その結果、サールの読者、とくに彼に共感していない人は、彼が言っている内容についてよりも、彼の敵対的なスタイルに目を奪われがちになる。私はサールが論敵の多くの攻撃を指摘するが、彼らに対してわずかな議論しかしないというような哲学者と哲学者ではない人両方からの非難をどれだけ多く聞いたか思い出さずにはいられない。この問題のため、その非難は ― とくに主題が心の本性の場合 ― 彼自身の主張のためでさえどんな議論でも彼がわずかしか述べないとしばしばなされる。確かに、彼の論敵にとっては、サールが議論を欠いた人のようにみえるのである。つまり感情的で人身攻撃の訴えとみなされがちである。結果としてあちこちで乱闘が生じるがが、それは驚くことではなく、それで舞い上がるたくさんのほこりこそ、サールにかけられたすべての嫌疑のた原因に注意を引くことになるのである。
 その場合、サールについての、より少なくその論敵についてのひとつの最終地点は、ほこりが静まることである。いったんこうなれば、読者はたぶんサールのスタンスが様々な個々の哲学的問題についていかに適切か理解する立場にいることを知るだろう。第二の目標は、サールが書く様々な主題についての彼の主張がひとつの総合を形成するようにどの様に結びついているかを示すことである。彼自身1998年の著書、『心、言語、社会:現実世界における哲学』でそれをどの様に行っているかを示す。実際、彼はそれを哲学教授のために行うが、特に教養ある一般読者のためにそれを行う。彼は哲学者としての彼のつとめが幅広い読者が彼の主張に親しみやすくすることだと考えているようにみえ、彼は明らかにそのつとめを楽しんでいるのである。それでも、馬の口からだけでなく、馬からわずかに離れており、馬が客観的に言っていることを聞くことができる人にとって、良いニュースを知ることは時には役に立つ。
 サールの1998年の本は、彼の全体的哲学的立場の三つの主要な主題に対応する三部に分かれている。彼が取り上げる第一の主題は心である。論争のちりがもっとも分厚いのがここであり、おそらく彼がこの本の初めで心をなぜ取り上げるか、そして実際なぜ彼が他の主題よりこの主題により時間を割くかの理由である。だが、もっとありそうな理由は私たちが他の二つの主題について彼が言いたいことをよりよく評価できるということである。すなわち心がどのように働くかをいったん理解するなら、私たちは社会的現実を扱うのに、現実が心の構成物であるため、よりよい立場にいるのである。次いで、いったん社会的現実を理解するなら、私たちは、彼の著作の第三の主題である言語がいかに働くか理解することができるのである。サールは三つは互いに密接に結びついていると主張する。現実は多ではなく、一である。たとえそうであっても、社会的現実と言語はともに私たちの心の力の産物であるため、他を理解させる前に、心をもつ現実の彼のツアーを始めることによって彼の全体的な哲学的立場を説明することは、サールにとって意味がある。
 この本の仕事は異なる点からツアーを始める。それは言語哲学から、ついで心へ、そしてそこから社会的現実へと進む。これは彼がそのキャリアで実際にとって道筋である。彼は最初、言語についての著作でその名声を得た。そしてそれは彼が心の哲学についての問題にとりかかりはじめたのは、この分野の傑出した哲学者としての地位をすでに確立した後にすぎない。私たちの心的現象の理解にまつわる問題に彼は関心をもちながら、彼は社会的現実、より詳しくはその現実がいかに創出されるかについて書くため1990年代、その関心を拡大した。
 しかしサールの言語についての著作から始める主な理由は、彼の知的発展の後を追うためではなく、彼が言語について語ることを理解することを理解し、彼のアイディアが心に関するそれに、それから社会的現実になぜどのように発展したかを説明することをわかりやすくするためである。だから、この研究の第1章〜第4章(第一部)はサールの言語についての思想を探求する。これらの章で、私たちは発話行為(Speech Act)、彼のメンターであるジョン・オースティンから学んだ概念について彼が焦点を当てるのを見る。発話行為はサールにとって、言語コミュニケーションの最小単位、あるいはより適切には、実際の言語使用の最小単位である。私たちは単に指示したり(refer)、叙述したり(predicate)することによって言語を用いるのではない。すなわち、私たちは通常、「その絵画」と「赤」ないし「赤である」のような表現を発語して世界と関わるのではない。そうではなく、たとえば、当の絵画が掛けられているギャラリーにまだ行ったことがない友だちに話す時、私たちは「その絵は赤い」と言う。それゆえ、指示と叙述は発話行為の中でその役割を演じる。それは指示し、叙述し、その後そうすることで、発語する発話行為を組み立てる様なのではない。
 発話行為に焦点を当てることで、サールが自ら買って出た任務はそれらをよりよく理解できるようにすることである。彼はどのようにそれらが働くか、言い換えれば、それらがどのように分析すべきかを詳しく知ることを望む。今書いたように、この説明は彼が(発話行為内でなされる)指示すること叙述することに取り組むことを強いる。だが、赤い絵のような単純な例の場合でさえ、発話行為が発話者とギャラリーの状況に関するコンテキストを説明に入れることを含む。しかし多くの発は行為は、コンテキスト的により豊かである。たとえば、司令官が兵士に報告するよう言うとき、発話行為を理解することは、階級や軍隊の伝統について知っていることを前提とする。同様に牧師が若いカップルを結婚させるとき、教会の伝統やその伝統のコンテキストが役割を演じる。だから私たちは発話行為の分析が、すでにサールが将来社会的現実を理解することに関心を持つこと、そして直ちに私たちがあれこれの仕方で組織された単なる言葉の列として言語を見ることを越えさせることを理解する。これは私たちが言語それ自体を単に注目することによってでは言語とその働きを完全には理解できないことを意味する。言語だけに注目するなら、命令、約束、祝福、宣戦布告などのものはナンセンスになるだろう。発話行為はコンテキストに埋め込まれているのである。
 だが指示、叙述、コンテキスト以上のものが発話行為にはある。発話行為はある種の「行為」(act)である。そのようなものとして、サール(と彼以前にオースティン)は、発話行為は意図(intention)を説明に入れることなしに理解できないことを自覚していた。私たちが他の人とコミュニケートするとき、私たちは意図的に(intentionally)そうする。これが言語的形式で表現される感情的反応と発話行為が異なる仕方である。私が完全に真っ暗闇でむやみにドアの鍵穴に鍵を差し込もうと手探りするとき一連の文字化不能な表現を発語するなら、私は言語を意図的に用いているのではない。私が言うことは、出来事あるいはコントロールできない反応であって、行為とは見なされない。だが静かなとき、はっきり落ち着いた声で「ドアのところに変なやつがいる」「ドアを閉めてくれ」「君を雇う」「おめでとう」と言うなら、私は意図的に話している。そのようなものとしてこれらの発語はそれぞれ、発話行為なのである。
 意図や他の心の概念が他の仕方で、発話行為に関与する。「私は明日自分のオフィスにいると約束する」と言うとき、私は意図的に話しているだけでなく、その約束の中で、私はオフィスにいるだろうという「意図」を表明しているのである。他の発話行為は異なる心の状態を表明する。私がアトランタの今日の天気は晴れだと記述するとき、私は太陽が輝いているという「信念」(belief)を表明する。私が君にそのサンドイッチをとってくれと要求するとき、私は君がそうする「希望」(hope)を表明する。同様に、君がテニスの試合で勝った君を祝福するとき、私は君の成功の「幸せ」(happiness)を表明している。だから発話理論には心の概念が浸透しているのである。発話行為が何かを社会的、物理的コンテキストを説明に入れることなく完全に理解できなきないのとまったく同じように、この理論を様々な心の概念を説明に入れることなく理解することはできない。
 だがもっとある。発話行為の理論は意図、信念、希望や類似の概念だけでなく、また志向性(Intentionality、わざと大文字とする)の説明を与えなければならない。意図が私たちがする、あるいはしているつもりであることに関係しなければならないにもかかわらず、志向性は言語に見いだされる「アバウトネス」(aboutness、訳注;あえて訳せば「について性」)に関係する。アバウトネスに出会うひとつの仕方は私たちが世界を記述するとき、私たちが抱く信念にある。月が出ていると言う場合、私たちは信念を表明し、この信念は月の地位ないし状態「について」である。言語の中でアバウトネスが出る別の仕方はもっと直接的である。今夜は月が出ていると言う場合、私は月と呼ばれるモノ(object)「について」語っている。(訳注;aboutの訳語「について」の括弧は訳者が挿入)。
 そのためサールがそのキャリアの最初の部分で発話行為について広範に書いた後、社会的現実(発話行為のコンテキストの重要な部分)に注意を当てることで発話行為の彼の理解を拡張することに移ることができたのであり、心に焦点を当てることができたのだった。彼は実際まず後者を選んだ。おそらくなぜなら心の哲学や心理学の研究への関心が、1970年代と1980年代高まっていたからである。その頃、コンピュータとのアナロジーで、私たちはよりよく心を理解できると主張した認知心理学やより特殊な理論が大流行だった。サールはほとんどすぐ、この大流行にハマった多くの研究者や思想家が彼が言いたいことと対立することを心や心的現象について言っていることに気づいた。発話行為の著作を出すとすぐに、信念、意図、欲求、そして志向性のような概念が意味があり、彼にとって重要であるように思えた。だが心理学や神経心理学や関連する科学における「認知主義」的発見の権威を擁護する新たな概念を発展させることを望む人々に対して、サールの日常的概念は最低でも廃れつつあるもののようにみえた。
 その後、サールが『志向性』(”Intentionatlity”、1983年)と言うタイトルの本を書き、それを越えて彼が言語について言いたかった主なことを終わらせた後、すぐ心の哲学の他の本や記事を書くことになったのは理解できる。現在の研究で、心に関するこれらの著作は、第5章から第8章(第二部)で扱う。第5章は志向性の主題についてである。彼の議論はこの場合、心の彼の主要な特徴に関するフレームワークをなし、またどのように志向性が言語と心の両方に見いだされるかの問題を解決することでもある。第6章は言語の使用がコンテキストに埋め込まれているのとちょうど同じように、心もそうであることが直ちに明らかになるためバックグラウンド(あるいはコンテキスト)の概念を扱う。第7章と第8章は直接、心を扱う。それらは彼の心に関する主要な著作『心の再発見』(”The Rediscovery of Mind”、邦訳『ディスカバー・マインド』、1992a)に関係する。それらはまたサールと、すでに述べたようにあらゆる方面から彼に襲いかかる「敵たち」の間のほこりまみれの論争に関係する。
 心の哲学の土俵での闘いが続く中、サールは社会的現実に関連する問題に取り組むようになった。この場合、主要な著作は『社会的現実の構成』(”Construction of Social Reality”、1995a、未邦訳)である。この本とこの主題に関する他の著作は第9章と第10章(第三部、それは第11章〜第13章を含む)で議論される。この議論で発話行為の理論と彼の心の理論にさかのぼるつながりは明白である。事実、社会的現実のほとんどは、昔の概念、特に彼の言語哲学の著作によって構築されているようにみえる。この点で、なぜ最初の4つの章でサールの言語の理論を、その後社会的現実にもどる前に次の4つの章で心の哲学を論じることが意味あるのか評価できるだろう。
 第11章と第12章は後片付けの章である。主にそれらはサールの存在論に関するだけでなく、彼が認識論について語らなければならないことに関係する。サールはそれらについて独立した本を書くことはなかったが、彼のキャリアを通じてこれらの主題を論じてきた。存在論における彼の実在論(realist)の立場が彼の初期の著作の多くとぴったりはまることを書くのはおもしろい。あそこの自動車は青いと私たちに語る発話行為は、自動車についてであり、その実在する(real)青い自動車があそこにあることについてである。それは何かの印象とかセンス・データとかその他についてではなく自動車についてである。言語の志向的力(Intentional powers)は実在を指示する(point out)。だが心の志向的力は同じように指示する。私が自動車を見る場合、私は現実に自動車を見る。そして学生が私のオフィスに来るのを見る場合も同じである。なぜなら学生に支払う現実の授業料が入って来るからである。
 この本の最後の章はそれに先立つすべてをまとめる。そしてある程度、サールの哲学的立場全体について某か結論を書く。最後に、希望することは、読者がたとえ現代哲学で起こっていることの何らかの意味をもつべきなら、知らなければならない哲学者として、ジョン・サールを評価するようになることである。
 二つの最後の導入的な意見は次の通りである。第一に私はサールが書いてきたすべての主題を詳細に論じる試みをこの本では行っていない。たとえば、私は彼の論文「”べき”は”である”に由来する」(Deriving 'Ought' from 'Is'、Searle 1969; Ch.8)についてのテキストで何も語っていない。私はたとえこの論文がよく知られており、幅広く掲載されていたとしても、それはサールの倫理学や価値の理論へのサールによる孤立した乱入を表しているため、その主題を避けている。そのようなものとして、彼の「総合的分析的」立場より大きなキャンバスに入れるのは難しい。私はまた初期のサールの別の乱入 ― 大学政治の境域への ― についても何も語ることはない。カリフォルニア大学バークレー校の若き教授陣として、長い営みをしてきた社会が根本的外科手術を必要とした頃のはるか昔の学生運動に、彼は味方した。明らかにこの本のサイズでは、すべての話題をカバーできないし、それぞれ公正に振る舞うことはできない。
 第二に、この研究で、私は他の人たちのサールの立場への見解を最小限にとどめている。サールについての『哲学者索引』(The Philosophe's Index)にリストされたますます増える項目(すでに数百を超える)がある。これらの記事、議論、レビューのほとんどはサールを狙った練習のため使う試みである。これらのうち代表的な例を説明し、サールのそれに対する応答であるだろうものを構成しようとするのは、不必要に体裁を複雑にするだけだろう。結果として、読者は特定の問題についてのサールの立場も彼の全体的な哲学的立場も両方とも、見失うだろう。だから私はサールの立場を説明するのに助けになる目的に資する場合に限り、他の人の主張に言及し、見解を述べる。便宜ため、私はテキスト本文でこれらの見解を挿入する。別の場合、他の人の見解が妨害的に思えるなら、注で言及する。何にもまして、私は可能な限り率直かつ明快に説明を維持しようとする。そうすることはまさにサール主義者であるべきことである。
posted by Kose at 07:13| ジョン・サール