2017年01月04日

当為は事実に由来するか

これはサールが1969年の論文で主張したことらしい。
検索すると、たくさんの反論が論文で出ていることがわかる。

ストレートに言うと発話行為は、すべて何ほどか規範的である。

事実言明的発話行為ですらその事実が「真であるべきだ」と言うことを含意しており、もっと他のタイプの発話行為より規範的である。
したがって発話される事実は、当為であるというのは本当である。
しかし発話行為はコンテキストやバックグラウンドが正しいとき理解されうるので、コンテキストやバックグラウンドを無視した事実的発話行為が当為として成立するとは限らない。
典型的なのは
「多くの女性は子供を産み育てる」
であろう。
「子を産み育てない女性も少なからずいる」
というのも事実的かつ当為的である。
こんな論争を呼ぶ主題について検討は避ける。
社会生物学ないし進化生物学の本を読む限り、事実と当為に鋭い対立があるとは思えない。ヒト特有の、いわば自由意志が介在するからといっても自由意志が過大評価されていることも大いに考慮されるべきなので、鵜呑みにできない。
「人は空を飛べない」
と言う事実を挿入すると、当為は可能性を含意する、と言えるが、当為は必然的ではない、と言えるだろうと言うことである。
近代西欧哲学の事実と当為の二元論は、心身二元論と平行している。
ヒトが単に生物なら、事実と当為になんの齟齬もない。
さらにサールのバックグラウンドに生物的背景をもっと書き込むなら、ヒトの身体的ディスポジションと、それに文化的形式を与える規範、そしてヒトの個人的集団的能力や状況と、当為が可能な事実になるにはサールの立場でも多くのレイヤーがあることは簡単に指摘できる。
ヒュームまでさかのぼるこの問題は、社会生物学論争で、再び提起されたが、当為は事実に由来することは本当であるが、事実が真である程度に違いがあれば、当為を一般化できないのも明らかである。
自由意志の万能性は、原子論的個人主義とともに明らかに時代遅れであって、サールの主張はその発話行為の基本的理解に立てば、錯綜する問題を解く手がかりになりそうである。

posted by Kose at 05:46| 哲学社会科学エッセー