2016年08月14日

日常語における条件法(推論)の落とし穴(プロの哲学者でも容易に間違える。なぜなら日常語は形式的でないから)

さて、野矢茂樹の推論の合理性の欠如は、日常言語は合理的規則をもつとは限らないことに由来する。そして合理性は自由な意思を拘束しないからでもある。我が家の恣意的規則とかいうなら論理学者の看板は下ろすべきである。

重大な類似の例は「自白」である。

自白は合理的かつ任意的(自由な意思による)でなければ証拠の価値がない。このため犯人であることは、自白可能性の条件だが(つまり犯行を知っているので合理的に説明できる)、合理的自白は、自由意思に基づくことが証明できないと(捜査官の誘導や強制がないことを証明できないと)証拠価値がないである。

結論として、日常言語では、語の意味から、推論はできず、合理性の基礎は暗黙であり、論理学者もよくわからないのである。このため高度の論理学は全部数学なのである。

もう一つ厄介な問題は因果関係である。

因果関係を論理だと勘違いするとカントの先験的カテゴリーになると思う。そうではなく、因果関係は実在(カントが否定するもの)の側の関係であり、それを知識上整理すると論理的に表現できる場合があるにすぎない。

いろいろ調べても、明白な必然的な因果関係は、必要十分条件と同じ推論である。つまり前提の恣意的でない例外的事例がない。
いや前提の恣意的でない例外的事例が本当にあるかどうかは具体的因果関係を検討しないとわからない。
他方蓋然的な因果関係は、なんとなく推論できるだけである。明白な事例は、雨である。また雨である。
前線が通過するなら、雨が降りやすい。
夏に寒気が流れ込むなら、雨が降りやすい。
台風が通過するなら、雨が降りやすいが、台風の影響で遠隔地でも雨が降りやすい場合もある。
条件と結論の関係は多対多である。このため、天気予報が外れてもだれも責任を負わないのである。

この問題を理解するには様相論理学まじめに勉強しなきゃダメだと思うが、日本語で気楽に読める本はたぶんない。ケンブリッジの入門書にあるので、相当暇なら読んでみるかもしれないが・・・それより個別の科学を勉強したほうが為になるような気がするけど。

日常言語で「なら」とかは頻繁に使う。STAP細胞批判派論理学者が好む「必要」とか「十分」とかも何気なく使っているが、概ね、必要十分条件の意味で日常では使っているため、必要だが十分でないとか言われると何を言っているのかわからなくなるのである。特に因果関係について。前提に明示されない他の前提の存在に注意を払うのは慎重な議論には必要だけど。彼らが正しいのか間違っているのか実際にはわからない。ものすごいちゃんとした証明をもっているのかもしれないし、単にレトリックに過ぎないのかもしれない。ものすごい証明についてはぼくが遺伝子生物学全然わからんのでどうしようもない。因果関係への論理の適用はそういうものである。

そういうわけでSMAP解散であるそうだ。別に感想はない。ツイッターも見ない。
posted by Kose at 05:33| 哲学社会科学エッセー