2016年08月12日

サールによる推論規則それ自体は推論に何も寄与しないことの「アキレスが亀に言ったこと」を引用した説明

かつて、サール先生の『行為と合理性』から抜粋した、「推論規則は判断に何の力をもたない」ことをルイス・キャロルの「アキレス亀が言ったこと」の無限後退を参照して説明した部分を思い出した。

論理的意味で何が十分条件で必要条件かは、判断になんの力も持たないのとおそらく同じだからである。

サール先生は2000年の『行為と合理性』で、形式論理は、成功した判断のパターンを整理しただけのものとした。

これを裏付ける根拠を僕はもっている。
形式論理があいまいさなくうまくいくのは、人間が人為的に合理的に作った規則の体系、最大の物は数学、身近なものはゲーム、法律は適用される要素が生身の人間社会なのでうまくいくとは限らないということであり、ましてや日常語を形式論理に代入できる保証は何もない(代入して初めてその後の合理性の程度がわかるというていど)。

というのも推論形式は、二つの集合ないし命題で〜P∨Qが成り立つことだが、まず同一律が明確でなければならないし、問題となるのは〜P∧Qに要素命題が存在するのが、PとQから必ずしも導けないからである。
トランプの場合同一律に問題はないとする。
Pはハートである、Qはマークは赤である、とする。
では直ちに〜P∧Qを述べよ。
ダイヤである。
このダイヤが存在することが、P→Qを決定する。P→Qがアプリオリにダイヤの存在を決定するのではないのである。だから「含意する」という「→」という推論は後から命題内容を判断した場合に確立するのである。
この場合、トランプでマークが赤のものが2つあり、ハートはその1つだという事実の方が規則で決められていることを知っていることが、推論の基盤なのである。別に推論しなくてもこの基盤はかわりはないのである。つまり推論はあらかじめ知られたことをカッコいいパターンで述べ直したものに過ぎない。少なくとも一部の人には論理的に推論するのはカッコいいと思う。前期ウィトゲンシュタインなんかはその権化である。
そしてこの場合推論規則に合致する十分条件はハートないしダイヤであることであり、必要条件に合致するのがマークが赤いことである。しかしマークが赤いことは、ダイヤまたはハートであるこの必要十分条件である。これがかっこいいと思うのか?頭がいいと思うのか?

OCT4マーカー発現のを必要条件と呼ぶのは単に類似のパターンをもつことによるメタファーである。
マークが赤いことは、複数の可能な条件の和集合である。
OCT4マーカー発現は、複数の可能な条件がありうる。
この二つの関係はメタファーである。前者は合理的規則に由来する論理だが、後者は事実問題である。
ではOCT4マーカー必要条件論者に言うが、OCT4マーカー発現の同一律は明確か?これは確率的だと思う。そしてそれが発現するのは多能性遺伝子の存在の可能性である。仮に多能性遺伝子とOCT4マーカー発現が同値であるとする(確率の違いを無視する)。すると多能性遺伝子が存在し、それが幹細胞樹立に帰結しないのはなぜか。それは生物学的性質が、まるで論理的ではなく、固有の、場合によっては未知の生物学的因果関係に依存するからである。
論理はこれらの現象になんら寄与しないが、それを文章にするときにはよく知られたパターンとして整理して文章にするのに使うことができるかもしれないし、なんでできるのかわからないというほかないかもしれない。

と書いたところでサール先生の該当する文章の抜粋を掲載しておく。

ジョン・R・サール『行為における合理性』より(p19〜)

2.合理性とは、合理性の規則に従うことに尽きるのではないし。そうすることにおおむね存するのですらない
 古典モデルの第二の主張、すなわち合理性とは規則の問題であり、われわれがそれらの規則に従って考えたり行為したりする程度に応じてのみ、われわれの思考や行動は合理的なのだという考えに移ろう。この主張を正当化せよと求められたなら、伝統的な論者の多くは、おそらく論理学の規則に訴えるであろう。古典モデルの擁護者が示しそうな事例のうち、最もわかりやすいものは、たとえば単純な肯定式の論証である。

もし今夜雨が降るならば、地面が濡れる。
今夜雨が降る、
ゆえに、地面が濡れる。

この推論の正統化を求められたなら、肯定式の規則に訴えたくなるだろう。すなわち、pとpならばqは、qを含意するというものである。

(p&(p→q))→q

しかしこれは致命的誤りである。こう言ったら最後、ルイス・キャロルのパラドクスから逃れることはできない。パラドクスを復習しよう。アキレスと亀が論争をしており、アキレスはこういう(この例はルイス・キャロルのものとは異なるが、論点は同じである)。「もし今夜雨が降るならば、地面が濡れる。今夜雨が降る。ゆえに、地面が濡れる」。それに答えて、亀が言う。「よかろう、それを全部書いていくれ、全部書いてくれ」。アキレスがそうすると、亀が言う。「『ゆえに』の前にあるものからその後にあるものにどうやったら行かれるのか、行かれるのか、わからんね。その移行は何によって強制されるのだ。そもそもその移行は正当化されるのかね」。アキレスは答えてこういう。「この移行は肯定式の規則によるのだよ。つまりpと、pならばqは、qを含意するという規則だ」。「よかろう」と亀は言う。「ではそれも書いてくれ。何もかもぜんぶ書いてくれ」。アキレスがそうすると、亀は言う。「ぜんぶ書いてもらったが、地面が濡れるという結論にどうしてたどり着くのか、まだわからんね」。アキレスは言う。「どうしてわからないんだ。pと、pならばqと、pとpならqならばqからはqを推論して良いという肯定式の規則からはqを推論できるじゃないか」。「よかろう」と亀は言う。「では、それもぜんぶ書いてくれ」。この先どうなるかはおわかりであろう。われわれは無限後退に陥るほかないのである。
 無限後退に陥らない方法は、推論の妥当にとって公的式の規則はいかなる役割も果たさないと考えることで、最初の致命的な誤りを回避することである。導出の妥当性は、肯定式の規則から得られるのではない。ほかのものの助力なしに、推論はそのまま完全に妥当である。より正確に言えば、それ自体で妥当な無数の推論に見られるパターンを描くことによって、肯定式の規則のほうが妥当性を付与されるのである。それは前提から結論が帰結するからにほかならない。語の意味自体が推論の妥当性を保証するに十分であればこそ、そのような無数の推論を記述するパターンを定式化することも可能となる。しかし、推論がそのパターンから妥当性をえるのではない。いわゆる肯定式の規則とは、それ自体で妥当な無数の推論にみられるパターンを述べたものにすぎないのである。つぎのことを忘れてはならない。「pと、pならばqから、qを推論するにあたって、規則が必要と考えるならば、pからpを推論するにあたっても規則が必要になるだろう」。
 この論証に関して言えることは、妥当な論証のいかなるものに関しても言える。論理的妥当性は論理学の規則に由来するのではないのである。
 この点を正確に理解することは大切である。肯定式を規則としてではなく、もうひとつの前提として扱ったしまった点でアキレスは誤ったのでだと言われることがよくある。そうではない。アキレスがそれを前提としてではなく規則として書いたとしてもやはり無限後退は生じたであろう。導出の妥当性は前提及び推論の規則に由来するということも同じように誤りである(まさに同じ過ちを犯している)。そうではなく、妥当な推論の妥当性において、論理学の規則は何の役割も話していないというのが正しい。論証が妥当なとき、それはそのままでだとうでなければならないのである。
 我々は高度な知識を持ってしまったせいで、実はかえってこの点を理解しにくくなっている。というのも、証明論があまりに華々しい成功をおさめ、コンピュータ科学などの分野で重要な成果をもたらしたことから、われわれは、構文論において肯定式の役割を果たすものが、論理学の「規則」とほんとうに同じものだと思ってしまうのである。しかし、それはまったく別である。



という形の記号が

p→q

という形の記号の前に書かれているのをあなたが見たとき、あるいはコンピュータがそれを「見た」とき、あなたあるいはコンピュータは



という形の記号を書く、という規則が与えられたとしよう、この時あなたはひとつの規則を手にしており、あなたはそれに従うことができるし、それを機械にプログラムして、機械のはたらきを因果的に決めることもできる。これは証明論において。肯定式の規則の役割を果たすものである。そして証明論では、この規則は単なる記号に対して働くものであるがゆえに、本当に実質的なものである。その規則は、それ以外の点では「解釈されることのない形式的要素」*に対してはたらくのである。 *「」はおれ。
 現実の推論では、肯定式の規則はいかなる正統化の役割も演じないのに、われわれはこうして、その事実に気づかなくなってしまう。証明論や構文論のモデルを作り、現実の人間が行う実地スや内容のある推論過程を、そのモデルが正確に写しとるようにすることは確かにできる。そしてもちろん誰もが知っているように、モデルを用いてできるさまざまなことがある。構文論が正しければ、最初に意味論を入れてやると後は勝手にことが進み最後に正しい意味論が出てくる。構文論的変換が正しいからである。
 名高いゲーデルの定理を始め、よく知られた問題がいくつかあるがmそれには描かわたないことにすると、機械の推論モデルによるシミュレーションが高度になったおかげで、われわれは意味論的内容を忘れてしまうのである。しかし現実の推論では、推論の妥当性を保証するのは意味論的内容であって、構文論的規則ではない。
 ルイス・キャロルのパラドクスに関連して、哲学的に重要な事柄が二つある。第一はこれまで検討してきたもので推論の妥当性において規則は何の役割も果たさないということである。第二の点は、飛躍に関わる。「われわれは、論理的関係としての帰結関係や妥当性と、人間の自発的な活動としての推論とを区別しなければならない」。われわれの考察した事例では、前提から結論が帰結し、ゆえに推論は妥当である。しかしこのことは決して、現実の人間がこの推論を行うことを強制するものではない。推論という人間の活動には、他のあらゆる自発的活動と同じく、飛躍がある。仮にわれわれが、この推論はそのままで妥当であり、肯定式の規則は推論の妥当性にまったく寄与しないという点をアキレスと亀に納得させることができたとしても、推論を行うことを拒否するという不合理を亀が発揮することはありうる。飛躍は、論理的推論にも当てはまるのである。

亀がアキレスに言ったこと ルイス・キャロル
What the Tortoise Said to Achilles
https://en.wikisource.org/wiki/What_the_Tortoise_Said_to_Achilles
邦訳 石波杏訳
http://www13.plala.or.jp/nami/tortoise.html
posted by Kose at 05:43| 哲学社会科学エッセー