2016年08月11日

因果と論理

「必要条件だが十分条件ではない」

は含意の問題である。因果関係ではない。

OCT4マーカー発現は、多能性の可能な条件である。多能性を結論として求めている。
だが因果的にOCT4マーカー発現の観察が多能性の結果でないでないことが経験的に知られている。
例として上げられているのは自家蛍光の誤認識やマーカー発現の確率の低さである。
そのため、マーカー発現を論理的に十分「な」条件でないと言いたい気持ちはわかる。
だが多能性がOCT4マーカー発現を含意する

多能性→OCT4マーカー発現

という場合、多能性を十分条件とする意味がないのである。
単にOCT4マーカー発現は他の可能性も含むため、多能性を可能的に(蓋然的に)含意するということである。
これが論理でないのは、OCT4マーカー発現が多能性以外を含意をすることは「十分」規約化された知識でなく、経験的に多能性を含意しないことが知られているということだけである。

そこからOCT4マーカー発現は多能性の必要条件であるというのは、他の経験的条件の参照なしに無意味である。多能性が観察できないからである。

しいて言えば、OCT4マーカー発現の非観察は、多能性の不在の十分条件である。
そして、OCT4マーカー発現の観察が多能性を含意するよう実験の精度を高めることは可能である。自然科学とはそういうものだが、たとえば数学における含意の関係は実験によって条件を変えるなんてことはできないのである。

概ね確立した自然科学的因果関係は必然的で論理的に同値である。キメラの場合は実際に多能性のある細胞から特有のマウスが成長させるということで必然的因果関係があるのである。

この場合に、キメラは多能性の十分条件だという「論理」は、「同じものは同じものに等しい」ことについて『鏡の国のアリス』におけるアキレスと亀の無限後退と同じように、「不要である」。
posted by Kose at 07:01| 哲学社会科学エッセー