2016年05月11日

ドゥールーズほか

図書館で借りた本がたまってたまったものではない。

「進化する遺伝子概念」はまだ20世紀初頭のメンデルの再発見でまだ「遺伝子」という言葉が登場する直前である。この段階で、形質(表現型)と因子(遺伝子)の区別が安定していない。このころの遺伝学の研究は、わかりやすい種の交雑(エンドウ豆の形とか鶏のとさかの形)の観察分類から、みえない因子(遺伝子)を推測するという段階である。メンデルは完全に単独で成功していたが、その後何年もそれを取り上げて解釈を加える世代が登場しなかったということである。メンデルは神学校に籍を置いていたため、生物学の研究を継続しなかったのである。この本は、DNAが単純に表現型を決定するという通俗的な話がそれほど確かではないことを最終的に書くことを目的にしている本だが、まだ3分の1しか進んでない。この後エピでミクスの本を読むつもりだ。まあ4週間で両方読めばいいので焦らない。

昨日は通院だったので途中の図書館でまた本を借りた。
「脳科学の真実」(河出)は主にイギリスで研究していた認知神経生物学者が、日本の脳ブームについて書いた本である。前読んだ「脳の壁」と論旨は同じだが、プロパーの分野が異なるので面白いかもしれない。気楽な本である。暇つぶしに読む。

「差異と反復」。ネットでたまたま議論の俎上に上ったため借りてきた。
ひどいの一言に尽きる。
すでにほぼ半世紀前の本で当時の状況はかなりわかっている。
すでにわかっていることは
1)基本的にドゥールーズは哲学史の独自解釈しかできない
2)当時のフレンチのラジカリズムを1に統合しようとした
これだけである。
「差異と反復」を読むくらいなら、フレーゲの「意味と指示」をとことん熟読したほうがましだとしか言えない。例の10%以上曖昧に書かなければアンファンティールだと言ったフーコーの言葉通り、随所にほとんど無意味な修飾が見られ、しかも肝心の主題すら曖昧である。
主題はだから「同一性」である。
ラッセル的に言うと同じ内包には無限の外延が可能であるということである。
あきらかに外的ものは、同一である。このパソコンのキー配列がいちいち変わっていたら、一生ブログの更新はできないだろう。だからまず自然はそれ自身の原理で同一だし(だから科学的知識が可能なんだし)、人は社会的にあるものを同じものとみなすコード(パソコンのキーボードの配列)によって同一なのである。生活していくうえでそれ以上の問題はない。
だが哲学的伝統では、ものの同一性は所与ではないのだ。そのため表象や概念や記号で同一性を与えなければならないのだが、そのような内的同一性(内包)に対して、理論上無限のもの(外延)があり得るのである。
しかもそのような同一性をラジカルに否定したいドゥールーズの議論は大げさで混乱しまくりとしか思えない。
そのため今度は本を読む方の「差異」とか「反復」という言葉が多義的としか言いようがないのである。ほぼメタファーである。
一体カントが作り上げた伽藍を大げさに言い換える必要があるのだろうか(表象、概念のような言葉の扱いで恐ろしく古い近代哲学にずっぽりだということはわかる)。
フレーゲとラッセルの100年前に書かれた論文はなかなか批判を許さない。
だが彼らの論理学の欠陥は「知識」しか扱っていないのであり、そのためのちに言語哲学という形になってしまったのであると考えている。言語哲学が成功しているとは考えない(そうだったらサールは読んでいない)。
反論はしないけど、ドゥールーズを読むくらいなら、ラッセルとフレーゲの短い2論文をちゃんと読もうと思ったというのが感想である。

東大のガキがドゥールーズのようなくずを引っ張り出してきて新現代思想を今現在展開しようとしているらしい。東大の哲学は腐っている。
posted by Kose at 04:54| 哲学社会科学エッセー