2016年03月01日

日本の知性主義 再校閲

日本には知性ということばはなじみがなかった。長い間知性と感性の対比の中で使われてきた言葉である。
知的という言葉すらひとつのファッションアイテムになってしまった。スターバックスコーヒーでマックをたたくのが知性的である。
戦前戦後、欧米から輸入された新思想をいち早く吹聴することが知性的と勘違いされた。
政治的な文脈では、イデオロギー控えめに言ってマニフェストを掲げるパフォーマンスが、保守党の縁故政治に対して知的とみなされる言葉が、踊っている。
日本に知性がない証拠はたくさんある。新聞の諸書評が、仲間内の持ち上げ合いであって、厳しい批評が下されることはない。
アメリカのエスタブリッシュメントでは、日曜のブックレビューで第三者が厳しい批評を加える。
日本の知性とアメリカの知性を比べる土台を見つけるのは困難だ。
もう少し言葉にとらわれず、知性の欧米的基準について考えてみよう。いわゆるリベラルアーツは、中世大学における自由七学科にはじまるかもしれないが、それを最も完成させたのは、ゲーテ時代のビルグンスロマンである。日本の「教養」が直接ドイツ式教養の影響を受けたのは間違いない。だがひとつ問題がある。ドイツ経由の教養はしばしばドイツロマン主義の直接の影響を受け、英仏のより新しい文芸や思想の展開を受けなかったことである。それは大学の課題ではなくたとえば文芸春秋や朝日ジャーナルやその他民間のジャーナリスト兼学者が担うことになった。東大は、鎖国状態である。
そこに一石を投じたのは、フランス現代思想であり、東大や京大その他教授が翻訳して、パクれば新しい教養とみなされた。岩波書店は「知の発見」のようなウルトラ楽観主義の宣伝をした。しかし根本的な学問的欠陥によって、その新教養主義者破滅した。ひとつには丸山圭三郎の死、山口昌男が依拠した文化人類学における「サモアの青春」でっちあげスキャダル。脳科学における記号の脳依存性の発見など、急速に影響力を失った。
これらは、狭い世界の出来事であるが、もっと大きな枠組みの変動があった。ソ連邦の崩壊とグローバリぜーションの拡大、インターネットの普及である。
おおむね1990年までの知性は、反自民党で済んでいた。社会党などは旧ソや中国の御用政党だったのがソ連崩壊で明らかになり、急速な支持を失った。
もはや、議会制民主主義与党に対峙する知的立場を構築することに誰も成功していない。
おそらく海外の流行や、旧来の対立構造に依存してきた知性は気が付いてたら、あり得るのは「真理の含意説」だけである。
これは、表面的な部分から真相まで及ぶ。表面的にはポピュリズム的「民意」の獲得(これが知性主義者の反知性主義である)、そしてたとえばハーバーマスが提唱したような真理の合意説は、ものすごい保守的態度(日本分子生物学会の大隅典子のような)か、際限のない揚げ足取りにしかならなかったのである。
さて冷静に見てみよう。
社会は知性では動いていない。ほとんどが経済であり、少し安全保障である。これらは現実のコントロールという技術的結果が真理の条件なので、真理の合意説と関係がないのである。それゆえ多くの国民は、自らの小さな世界に反映する限りにおいて、かなり常識的な判断をしていると思われる。もちろん彼らが未来を予測しているわけではないが。
そういうわけで21世紀に何が知性であり、何が正義がは、合意とは関係がなく、大変不安定だいという点で内山樹は全くの抽象論に終始している。
一部の極端な下品な政治運動を否定するために「知性」を持ち出すのは、知性の尊厳を台無しにする行為である。
ぼくは、20世紀の言語哲学の不毛な通常科学から脱そうとしているアメリカの学者は、学際的でいまだリベラルアーツの精神を保持している稀有な存在だと思う。
さて日本で尊敬される現代文というものはあるのだろうか?すくなくとも内田樹は輸入思想のパクリでしかない。
ぼくは苦労をして、日本の閉鎖的哲学がバカみたいだということを示そうと今後も試みるが、ぼくがばかげていない哲学を生む力がないのはわかっている。だが内山樹の切り貼りの作文が東大生を知性を決定することになっていることには衝撃を受けている。俺より確実に優秀でなくてはいけないからだ。
最後に「知性主義」には何の意味もないのだ。アメリカの反知性主義とか言ったって、キリスト教原理主義者は進化論を信じておらず、インテリジェントデザインなんか信じているだからホッフスタッターの引用を待つまでもない。
 *追加:アメリカのプロテスタントの際限のない分派活動が、そういう反知性主義の基盤であると思う。
 そういう分派はロックバンドのコンサートのようなミサと説教を行う。

少なくとも、日本人は記紀を科学的に支持しておらず、ほとんど全員が進化論を受け入れていると思う。

だがである、アメリカのポップミュージックと日本のポップミュージックを比べるとアメリカの反知性主義も、郷に入れば郷に従えでいいのかもしれない。アメリカの知性主義者は未だヨーロッパの方を向いており、フォスターやルイ・アームストロングを知性的とは思わないんだろう。

スティングいわく、ニューヨークではマナーは珍しいそうだ。同じくらい知性は珍しい。

パラダイムシフト的研究を安易に志せば、小保方氏の運命が待っているだろう。気を付けてほしいものだ。
posted by Kose at 21:51| 哲学社会科学エッセー