2016年03月01日

東大の国語問題がくだらない

2016年東大国語1入試問題
内田樹の「日本の反知性主義」という本からの出題である。

まず、リチャード・ホッフスタッターの「アメリカの反知性主義」の引用から始まり、意味不明なロラン・バルトの引用がある。大意は、反知性主義も単なる知識の点ではより知性的であり、知性主義は見かけで区別できない。そこで内田は、集合的な知性の更新に寄与するのが私の知性主義の定義だ。

これだけの話である。
18歳の子供には難しく見えるかもしれないが、要するに「私が所属する集団の知的停滞を革新することを期待している」ということである。

これは多くの本を読んできた大人には、トマス・クーンのパラダイム・シフトの焼き直し(パクリ)でしかないのは自明であろう。

東大の出題の意図は、知識の詰め込みではなく、知的革新が「いい」という東大の停滞感(シンガポール大と北京大に抜かれた)を何とかしてね、みたいなメッセージ性が読み取れる。

問題点を指摘すれば「アメリカの反知性主義」は名著かもしれないが、ひとつのアメリカ人がいるかのように論じている点でよろしくない。あんたアイダホでポテト作ってるおっさんにとって知性って何よってことよ。

それはお飾りだ。「反知性主義」という言葉が使いたかっただけだ。

さて内田樹はマルクス主義者で、構造主義者で、フェミニストで、よくわからない日本精神主義主義者である(つまり自然=ピュシスを日本の自然信仰に位置付け、その自然の弁証法的唯物論=マルクス主義というわかりにくい手法だが、中沢新一とかの緑の党的発想も類似である)。そして知性を語るのに十分だとは決して尊敬されているわけではないということである。

内田は東大の仏文!だそうなので、俺は信じられない。ご存知の通り、フレンチ哲学・文学理論など、アメリカの知性主義者たちはバカにしているからである。

こういう背景は、18歳の子供にはわからないだろう。東大の出題者こそ、自己の知性の定義の範囲の狭さを顧みていない査証である。

まあ、この本の趣旨に対する答えは、日本の老人たちの知性は危機的であり、あなたたちに何とかしてもらうほかはないということだと読める。

満点は試験の教室から出ていくことだと思うね。そうじゃなきゃこの出題の趣旨に反するよ。つまりこういう知性主義への誘惑こそ反知性主義だからだ。一時よく朝日新聞とかに出ていた感じの。

今後入試改革をするのなら、内田樹の愚論をコテンパンにやっつけるようなものでなければならないと思う。

posted by Kose at 19:50| 哲学社会科学エッセー