2016年01月10日

ジョナサン・カラー『文学と文学理論』岩波書店、2011借りてきた

Free Speech Act
ジョン・サールが1960年代UCバークレー校で参加したフリー・スピーチ・ムーブメントとサールの地位を決定づけた本『スピーチ・アクト』(発話行為)の両方へのリスペクトをささげて名付けました。


サイトFree Speech Actに、ジョン・サールを含む哲学関連文献すべて掲載しました
Free Speech Act
https://freespeechact.wordpress.com/
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原著は2007年で“The Literary in Theory”(理論における文学的なもの)。
まさに「逆さまになった言葉」だな。ソーカル後も、理論が文学だと言えるのは大した度胸だ。

まだポストモダンが生きているとは???

サール先生が83歳でご健在だというほうが、驚きであるけれど。『会話』のなかで、85歳のバートランド・ラッセルに「死んで天国に行って神様がいたらなんと言いますか」と聞いたサール先生である。きっと85歳になるのを心まちにしているだろう。学生に聞かれるんだ。「サール先生、死んで魂がナマの事実以上のものであると知ったらどうしますか?」「ぼくの犬ルートヴィヒと遊ぶさ」とか・・
ラッセルは98歳まで生きた。
レヴィ=ストロースはなんと101歳まで生きた。

さて、サール先生への回答はない。デリダの言い分を「第6章 行為遂行的なもの」p211〜257で繰り返しているだけである。

注においてのみサール先生に触れている。pp254−256。
(21)モントリオールの鉄学会でのデリダの講演は、Marge de la Plosopie(Paris. Minuit, 1972)に収録され、英語ではGiraph 1(1977)に、発話行為の理論家ジョン・サールの熱気のこもった応答ともに掲載された。デリダの長大な反論は、以下。“Limited Inc. a, b, c”(Giraph 2)。デリダの二テクスト。Jackes Derrida, Limited Inc(Evanstonm II:Northwetern University Press, 1988)として出版された。このやり取りで取り上げられた問題を10年後に考察するかなり長い“Afterword: Toward: Toward an Ethics of Discussion”が付加されている。「署名、出来事、コンテキスト」におけるデリダの議論を、分析哲学の語彙にみごとに移しかえたものに以下がある。Good Bean, “Derida Dry. Iterating Interability Analytically.”Diacritics 25. no.3(fall 1995):3-25.デリダとサールの悪名高いやり取りを論じたものとしては以下を参照。Cullar, On Deconstruction, 110-28; Stanly Fish, “How to Do Things with the Austin and Searle”in Is There a Text in This Class?(Cambride, MA. Hervard Press, 1980), 197-245, Miller, Speech Acts In Literature, 69-111.

*デリダのつづりを間違えてみた。

最低限『有限責任会社』が悪名高いことはデリダ教信者ジョナサン・カラーもみとめたわけだが、彼の“Deconstruction”(『ディコンストラクション』岩波書店)に対するジョン・サールのレビューは無視しているということだ。そしてそれにしても自分へのサール先生の批評を隠ぺいするため、ずいぶんまじめな長い注を書いた物だ。それだけ列挙すれば、すべて列挙しているじゃないかと思うからな。また刊行年から見て、ジョナサン・カラーが、『会話』を読んでいるのは確実だ。「書き落とす」という見事なジョン・ケージ的ディコンストラクションを反復しているわけだな。

本文は、どこでも聞ける話の蒸し返しでしかないと思う。パフォーマティブとパフォーマンスを並べて論じるのはいかがなものか。パフォーマティブ、典型は「約束する」あるいは「離婚届に判を押す」とパフォーマンス、ベッキーの「謝罪」にはかなり大きな違いがると思うんだが?
*謝罪は、表現的で、充足方向は空で、何も変えない。

彼らは“How to Do With Word”をオースティンが未完成と考え、生前に公刊しなかった事実すら把握していない。そしてどの程度かわからないが(読んでないから)、サール先生は、たぶんオースティンについてのデリダの論評を論評しただけだと思う。だから最初から身のない話だったわけだ。

ジョナサン・カラーのようなクソ野郎に、デリダらの受け売りではなく、遂行動詞というタイプの言葉を見つけ、そこそこまとめるだけの「研究」をする能力があるかどうかということである。

サール先生の射程はどんどん広がっていき、単なる記述文のようにみえても無責任な発話はないということになる。まあそもそも無責任な人間は、正気である限りたぶんいないだろう。そしてこれはごく日常的常識で、その日常的常識を超えた価値をもつ文学芸術がどれほど多いかは怪しいということだ。

そういうわけで、特にジョナサン・カラーのこのクソ論文は参照しないで、サール先生のものだけ検討する。
posted by Kose at 11:01| ジョン・サール