2015年01月11日

LinuxコマンドラインでJavaしてみた

Lubuntu14.04LTSだが、 JavaSDK は互換IceTea7がインストールされ、パスは通っている
HomeにMyJavaフォルダ作成
 $ mkdir ~/MyJava
 $ cd ~/MyJava
プログラムはviで、書いてみる。
フィル名はTest1.java
 $ vi Test1.java
クラス名を必ずファイル名と同じにしなくてはいけない。プロググラム内容は省略
class Test1 {
 public static void main(String[] agrs) {
 ............
 }
}
メインクラスは、これが定石。パブリックで、静的で、返り値を持たず、引数としてargsという名のStrings配列を持つという意味だ。

コンパイル
$ javac Test1.java

Test1.class
が生成される。

Java仮想マシーンで実行
$ java Test1
成功1

昨日終えた本は、これすら書いてないほど、恐怖の入門書だったため、さっそくネットで調べてやってみた。
Eclipseだと、編集画面でどんどん自動的にprogram要素が補完されるため、正直「何も覚えられない」。
そういうわけで高い本は買わず、ネット記事で先の本と同程度のことをやってみることにした。

昨日板橋で借りた本で、観察依存性について更に突っ込んだ内容があった。
光を2つのスリットを通すと干渉波野模様が出るというのは必ずどの本にも書いてあるが、その際にも1つの光子を観察すると干渉波ができないということが確認されていると書いてあった。これはシュレジンガーの猫の喩え話とは違って、もっと大きな原子で実験されていることらしい。
どう解釈しても、光子が波でありかつ粒子であることは「事実である」。ニュートン物理学的に合理的解釈することはできない、受け入れるほかない現実がそこにあるという点が重大である。
これを解釈すると、素粒子の世界には入ることができない基本的事実である。
つまり原子論的物理観は、マクロな世界の事実である。どんなに頑張ってもカントに素粒子世界に対応するものは見いだせない。
素粒子世界についての哲学的解釈は存在するが、それは物理学者の解釈であって、哲学者の解釈ではありえない。まして現象学とかなんとか。
多くの精密科学はそうである。
しかし脳神経科学の脳神経科学者の解釈は正しくない。それほど精密でないからである。
生命活動の基本的レベルでの脳の働きはそこそこ精密である可能性はある。
だがゲーム脳があるとかなんとかは精神分析並みに占いである。
だがその線弾きは難しい。
言語能力は、所与で独立した脳の局所的能力か、それとも心の働きと共に獲得されるものか?
これは20世紀中前者が支配的だったが、たぶん後者に今世紀移ったと思われるが、では心の働きとはなにか?
これは言語哲学にとって大ピンチである。
あらゆる超越論的哲学は、心に依存しない記号と文法や概念のカテゴリーを想定しているのである。それ故、普遍的と主張しているのだが、そんなもの心の働きの一部だとなると哲学全滅の可能性がある。
もはや視覚について哲学者が論じることができる範囲は極めて小さい。
ちょっと前までは視覚の言語依存性について真面目に哲学的に考えられていたが、この件に関しては素朴実在論がおそらく正しいことは以前述べた。
すると、意識は言語によって構造化されているというたぐいのフランス哲学は終わりである。
物は生物である限りの人間として言語と関係なく見えているし、触れるし、哲学者の頭をビール瓶で殴って殺害することも可能だということだ。そして超越論的にではなく、実定法によって、殺人の罪で逮捕されるだろうということだ。それくらい哲学者には頭に来ているが実行はしない。デタラメを主張する権利は、ムハンマドを冒涜する権利と同程度だからだ。なんで小保方春子氏のでデタラメが社会的にメディアスクラム的に糾弾されて、フランス・ポストモダン的デタラメが糾弾されないのか不思議だ。要するに彼らの反実在論は、自らの反実在論でもあったわけだ。
いい加減な話だ。


posted by Mondayota at 05:23| Linux