2014年12月21日

Android音楽プレーヤーHF Player(ONKYO)がすごい他

アンドロイドのデフォルトのプレーヤーを使っていたが、ネットの記事でONKYOがハイレゾアダプター(結構高いのでとても買えない)を出した記事に、HF Playerのことが載っていた。本来はONKYOのヘッドホンやイヤホンと相性がいいように作られているらしいが、それをインストールしてほぼ1000円のおれのイヤホンで聞いたら、これがものすごく音が良くなる。詳しいことはわからないが、ザ・バンドのロビー・ロバートソンの生っぽいエレキギターの音なんか、アコースティック・ギターみたいに聴こえるくらいである。ONKYOのイヤホンだけでやすいタブレット買えるから、このプレーヤーだけで満足しておく。現段階ではトライアル・バージョン。1月に新バージョンが出るそうだ。多少金払ってもいいと思う。

記事
http://www.phileweb.com/news/audio/201412/20/15347.html
■1月提供予定の最新HF Playerは「超進化版」

また、ハイレゾアプリHF Playerの開発者である日月氏は、1月に提供されるHF Player最新バージョンについて「超進化版です」と紹介した。

HF Playerのアップデートは大きく2つあり、1つはスマートフォン内のMP3/AACやWAV/FLACなどの音源を、DSD 2.8MHzまたは5.6MHzにリアルタイム変換してDoP出力する「リアルタイムDSD変換」機能に対応すること。もう1つは、Android向けのみの新機能として、OTGケーブルを介したUSBオーディオ出力でハイレゾ出力が行えるようになるドライバー機能が実装される。

リアルタイムDSD変換機能については、上述の同社初DSDネイティブ再生対応機DAC-HA300の発売にあわせて、本アプリと組み合わせることでDSDをより良く楽しめるように用意したものだ。上述の東氏が語った「いつでもどこでも色んなデバイスでクオリティの高い再生が行える」というDAC-HA300の特徴が、アプリと組み合わせることでより強化される形となる。

さらに、AndroidのUSBハイレゾ出力も大きなトピックだ。Android 5.0ではAndroid自体がUSB Audio Classをサポートし、OTGケーブルを使用することで外部USBオーディオインターフェースへオーディオ出力できるようになったものの、ハイレゾのネイティブ出力が実際にできているか疑う声も多かった。日月氏は「今回のアップデートで、この問題がクリアされます」とアピールした。

岡田氏は「Android端末の場合、これまでハイレゾ再生周りについてはその仕様が機種によって異なっていました。でも、外部DACへのUSB出力に関しては、HF Playerアプリを使うことでハード自体の仕様には縛られず実現できるというのはビックニュースですね。ユーザーの方にとっても嬉しいのでは」とコメントした。

なお、本機能の使用については、端末ごとのCPUのスペック等によっても実際に利用できるかは異なる可能性があるものの、日月氏は「Android 4.1以上の端末であれば対応するといって良い」と語っていた。

さらに、PC/Mac向けのHF Playerアプリも、DAC-HA300の発売とあわせて来春にリリース予定であることが明かされた。なお、本アプリについては、DAC-HA300とDAC-HA200の2機種のみが対応となり、その他のUSB-DACでは使用できない。

DoPとかDSDとかOTGなんて、分析哲学なみにたちの悪い用語だな。要するにDSDネイティブ再生対応機DAC-HA300を買えということだ。価格は不明。まあ当初2万円くらいかな?

ちなみにONKYOってパソコンもタブレットも出しているんですね。

さて、ちょっとフレーゲとラッセルの古い本を図書館から借りてきて、言語哲学の主要問題を原文で扱ってみたが、確立した集合論を前提にして内包=意味=記述=概念、外延=指示=対象がのフレームワークがどうなんだと考えてみた。集合のいい本がない。これについてお金をかけるくらいだったら、ONKYOのイヤホンを買ったほうがマシである。

要するに、確定記述は偶然性を免れないし、フレーゲの「意味」は狭すぎるため、世界のありうる対象を扱えない傾向があり、そのため、いずれにせよ論理実証主義に発展したように科学哲学化しか道がないということである。とても「歴史」を扱える方法論ではない可能性が高い(実際歴史の分析哲学というのはごくわずかで、しかも相当期待はずれである)。歴史的には、この系列の科学論は迷走をきわめた。、

しかしまあ残念ながら小保方氏は失敗したものの、青色LEDの発明で、論理が演じた役割は大きくない。STAP細胞騒動の場合は、証拠は不備だらけだが、故笹井氏の論理は抜群だったということである(名声の与えた影響も小さくなかったと思われるが)。したがって前提の命題を検証することが、科学なのであって、しかも前件の命題は「原子文」のように単純ではなく、クワインによればどの段階でも分析的かつ総合的だということだ。

というわけで、科学は分析哲学から自立しているということである。分析哲学はほとんど扱うべき領域を持たないので、自然言語の形式化という袋小路に入って行き詰まっているという感じだ。

サールは完全に非主流派で、科学を対象とせず、言語については日常言語学派から始まって、かなりはじめから「心の哲学」に移行したということだ。それはたまたま認知科学や神経生物学より先行していたので、その店でも注目されたということである。

おそらく「I believe that …」のような形式は、オースティンが主題化したものだけれど、サールはフレーゲが未発展にしたままの論点を引き継いだ可能性が高い感じがする。

それくらいオースティンとサールには開きがある。

そこでデリダが、オースティンの発話行為についてサールに論評を依頼したというのが、そもそもおかしいのである。サールがオースティンの説明をしたのか、サールの説明をしたのかも、デリダにはわからないであろう。

サールの論評は要約しか収録されていないはずである。

またハーバーマスによる「発語内行為」と「発語媒介行為」に理想と強制の二元論を読み込んだことにも何かサールには意見があるらしい。

そして哲学、思想界をせっけんした言語論的転回、つまりある種の相対主義的観念論は、あっという間に消えてしまったのである。

その直前、サールは『志向性』を1983年上梓したのである。

もはや、志向性抜きの記号がかなり限定的な働きしかしないだろうというのはAI批判でも明らかである。

いい加減な最近のロボットはネットでWikipediaを検索して会話するのだそうだ。それでは小保方氏は批判できないと思うんだが?

しばし、休憩する。夢にまで意味と指示が出てくる。

そこでJavaプログラミングを年内試してみたいと思う。


posted by Kose at 16:31| Android