2017年05月10日

【翻訳】ジョン・サール:ぼくの同時代人が書くナンセンスな物を読むと頭にくるんだ(2014年のインタビュー)

久しぶりに有意義な(つまり自分の関心にのみ応える)お仕事ができて嬉しい。
AIの派手な宣伝の中、それに対する有力な反論を展開した人物として再び脚光を浴びている人物としてジョン・サールのなを知ったような人、つまり2000年代になって初めて知ったような人には、おぼろげながらジョン・サールのいくつかのキャリアについて予備的知識を得ることができるだろう。
このインタビューは2014年1月25日公刊だが、翌年、2015年に"Seeing Things As They Are"(未邦訳だが、ぼくの海賊版では「アナと雪の女王」が流行っていたので『ありのままに見る』と訳した)を書いていることがインタビューの最後で言及されている。懐疑論の影響を受けたすべての西欧近代哲学は間違いであると本当に主張ている。次でPDFを読んでほしい。簡単な英語なんでKindle版で読むことを薦める。

『ありのままに見る』PDF

まあ、サールに同意する哲学者は多くないが、それは言葉、心、知覚の「志向性」を「因果関係」が充足するというケースを否定する懐疑論にとりつかれているためである。これは哲学が知識についての知識と知識でない世界との関係、今の場合は因果関係を扱う義務をなぜかどんな偉大な哲学者も感じなかったことによるとぼくは理解している。サールが現象学ではないかという誤解も同じ誤りである。知識は因果関係との関係で誤りえるが、因果関係を疑うのは知識の傲慢である。デカルトもカントもそういうことである。だからテキストの外部はまさにあるのである。サールと並んだ20世紀の哲学会のスーパースターもほぼ誤りである。また科学者が脳とか知能とかを特権的に論じる資格があるというのも傲慢である。
だがサール先生も結構ゴーマンなんだけどね。
ちなみに20世紀言語哲学がほぼ無力になったのは、言語の構文や音韻構造が、心と無関係に、20世紀的言葉を使えば「超越論的」に自律していると考える誤りによってである。チョムスキーはまさにそうだったが、AIによる自然言語処理も、言葉が心と関係なくパターンとして自律しているという点で誤りなのである。AIが繰り出すパターンは確かに有用なんだが、それは人が心を使わずパターンだけで言葉を使っていることが多いからであるかぎりにおいてである。結局AIが「愛している」と言っても心はこもっていないのである。「水が飲みたい」と言っても水を飲む動機も水を飲む装置も、下働きの科学者やエンジニアに作って貰わないとならないのである。
これは彼らが好きな知能が、生物の進化の産物で、神がデザインしたものではないことを真剣に科学者らが受け止めていないことによる。
サールはそれについて語らないが、アメリカで進化論について語ると日本と比べものにならないくらいややこしいことになるんだ。世界の先進国で進化論を否定するのはせいぜい10%くらいだが、アメリカとトルコでは50%が進化論を否定する。
『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスは、未だインテリジェント・デザインに対する攻撃的著作を何冊も書いている。『進化の存在証明』とか読んでみてほしい。
アメリカのAI科学者は、神のデザインのごとく「知能」を考えていてもおかしくはないが、日本の科学者にそのような強い動機は考えにくいのである。日本じゃ儲かるかどうかだけの話の気がする。
やれやれ・・・

Free Speech Actにも追加しました。

話がそれるが、今回、読み上げ校正のため新しく公開されていた次の読み上げフリーソフトを利用した。従来の同種のソフトより遙かに高性能で使いやすい。学校や仕事で、下書きを校正するときにものすごく役立つと思うので推薦する。
Balabolka



PDF版
サール:ぼくの同時代人が書くナンセンスな物を読むと頭にくるんだ(Searle Interview on NewPhilosopher.pdf)


サール:ぼくの同時代人が書くナンセンスな物を読むと頭にくるんだ
Searle: it upsets me when I read the nonsense written by my contemporaries
by Zan Boag on January 25, 2014
NewPhilosopher
http://www.newphilosopher.com/articles/john-searle-it-upsets-me-when-i-read-the-nonsense-written-by-my-contemporaries/

ザン・ボアグ:どんな目的に哲学は貢献するのですか?また哲学がまだ有意義であることを守るため哲学者たちは何をしていますか?

ジョン・サール:ぼくは哲学者が人々が考えているようなことについて大して心配すべきだとは思わない。ぼくに関するかぎり、他の主題がより大きな問題に以下に関係するかによって重要性を持つから、哲学はすべての中でもっとも重要な主題だ。そしてそれが哲学とは何についてかだ。より大きな問題ってことさ!

ザン・ボアグ:科学者や哲学者は密接に協力することについて知られていませんね。彼らはしばしば互いに競い合います。特に意識の問題となると。この数年以上、「ハード・プロブレム」の取り組みで科学者と哲学者の間の関係に改善は見られましたか?

ジョン・サール:ぼく自身はそんな経験はしていない。ぼくは多くの神経生物学者と認知科学者と協力している・・・ぼくはどんな専門的議論もみつけてはいない。彼らはぼくより実験室で研究しがちだが、ぼくらはともに共通の問題に取り組み、ぼくらが手にできるすべての知識を気にかけている。ぼくは哲学者と科学者の間にはっきりした区別があるとは思わない。ぼくは手にできるどんな素材も利用し、有効に思えるどんなことにも従うつもりだ。そしてしばしば経験的研究が、ぼくがやっている哲学的探求にたいへん役に立つことがわかるんだ。

ザン・ボアグ:ウィトゲンシュタインがあなたの仕事に影響をもったというのはフェアですか?

ジョン・サール:ウィトゲンシュタインは多くの面でぼくにとても大きな影響を与えたよ。否定的な影響をね。だって、ウィトゲンシュタインはぼくがやろうと試みている類いの哲学は不可能だと言ったからだ。君はすべての問題を解決する理論的哲学を試みるべきでも、すべきでもない、言語を検証することによって特殊な難問に取り組み、解決すべきだと言った。さて、誰かが哲学には一般理論はありえないと言うなら、ぼくは本能的に一般理論を構築することになるのさ。まさにそれこそぼくがやってきたことだ。だからぼくの企ては根本的に反ウィトゲンシュタイン主義なのさ。けどそう言ったからといって、ウィトゲンシュタインが20世紀最大の哲学者であり、ぼくに大きな影響とインパクトを与えたと考えていると言わなければならない。彼の哲学について全般的概念は、ぼくは共有していないというだけだ。

ザン・ボアグ:あなたの「中国語の部屋」の話のように哲学者が提案する思考実験の重要性について語りたいと思います。どのよに、このような思考実験は重要なのでしょうか?

ジョン・サール:思考実験はたいてい実際の実験ができないから重要だ。そしてそれは哲学だけでなく科学でも本当だ。だから、アインシュタインが「宇宙を進む光線に座っていると想像せよ」と言ったが、そうさ、それが思考実験なのさ。彼は「光線にまたがろう」とは言おうとはしなかった。もちろん君が「それじゃ僕らは落ちちゃいますよ」とか「宇宙は寒すぎますよ」とか言うなら的外れだ。だから思考実験はいつも役に立つ。そして君はもししかじかが真ならそれはどのようかを想像することによって君の概念を検証できる。さてこの場合、たとえ中国語をひとつも理解できないにもかかわらず、中国語の質問に答えるためのプログラムに従い、中国語で回答するなら、それはどのようなものかを想像した。そして、電子計算それ自体は思考ではないことを理解することを可能にするため、それはたいへん有効な思考実験となったのさ。

ザン・ボアグ:意識は、脳の物理的プロセスによって引き起こされる実在する主観的経験であり、意識に関するかぎり、見かけが実在であると言います。これについて詳しく述べていただけますか。

ジョン・サール:意識は人間や動物の主観によって経験される場合に限り存在する。OK。意識が本物の生物学的現象だと認めて欲しい。さて、結局それは経験されるかぎりにおいてのみ存在するため、他の生物学的現象と何ほどか違う。しかしそれは興味深い地位を与える。どのようにものが意識的にわれわれに見えるかとそれが実在的にどのようであるかの間の違いについて幻覚/実在の区別があるため、意識は幻覚に過ぎないことを示すことによって、意識の存在を反駁することはできない。だがまさに意識の存在に関する場合、ぼくが意識的であることがぼくに意識的にみえるならば、ぼくは意識的だ。君が夕陽や虹についてできる仕方で、まさに意識の存在について幻覚/実在の区別をすることはできない。なぜなら、その区別はものが意識的にどのように見えるかとそれが実在的にどのようにあるかの間の区別だからだ。

ザン・ボアグ:あなたはまた意識は、消化や火のように物理的特性だと言います。

ジョン・サール:意識は消化や光合成のような生物学的特性だ。さてなぜそれは教育を受けた誰にでもたまらなく明白なのではないのか?そしてその答えはこんな一対の伝統だと思う。一方で意識が物理的世界の実在的な部分ではないと言う神、魂、不死があり、そして意識が物理的世界の部分でないと言う科学的唯物論の悪い伝統がある。それらは、消化、光合成、有糸分裂、縮瞳、その他の生物学的現象と同じ、生物学的現象としてのそれ自体の条件の上で意識を理解することを拒否するのさ。

ザン・ボアグ:あなたは数十年間心の理論に関して仕事をしてきました。その間に考えが変わったことはありますか?

ジョン・サール:ぼくは以前決して取り組まなかったあらゆる主題に取り組んだ。ぼくは言語哲学の研究から始め、心の哲学に取り組んだのは本当に中年になってからだ。ぼくはいかに言語が働くかに答えようと努めているだけだと考えていた。だが言語は自然現象であり、雑多な質をもつんだ。ぼくの口から出るノイズはただの物理的雑音であり、音響的爆風であるが、意味をもつ。われわれはどのように物理学から意味論に至るのか?ノイズから意味へ至るのか?そしてそれは、人間的現実と物理学や化学が記述するものとしての基本的現実の間の関係の本性についての一般的問いの一部だ。そしてそれはぼくが継続的に没頭している問題だ。ぼくは現在理解してるほど明確に30〜40年前は多くのことは理解しておらず、長生きしたら今よりもっと明確に理解できるようにだろうと疑いなく思っていなかった。だがそれはぼくの研究で基本的に連続している。

ザン・ボアグ:あなたは普通の人と何が違うのですか?早起きをして、古代哲学者のテキストを読むのですか?

ジョン・サール:ぼくはあまりテレビは見ない・・・メディアがわれわれの感受性に莫大な影響をもってきたのは明らかだと思う。この長期的な影響が何かを知るのはたいへん難しいけれど、電子メディアに過剰にさらされる結果として感受性が貧困化していることに疑問の余地はないとぼくは思う。ぼくは大して哲学を読まない。ぼくの同時代人が書いたナンセンスな物を読むとぼくは頭に来るんだ。拡張された心の理論なんかゴミ箱に放り込みたくさせる・・・だからたいていぼくは小説や歴史の本を読むんだ。歴史の本を読むのは好きだね。小説を読むのも大好きだ。膨大な偉大な著作があるんだ。

フォークナーやアメリカの偉大なモダニストたちがぼくに及ぼした影響を語ることは無理だ。メミングウェイ、フォークナー、フィッツジェラルドほどぼくに影響した哲学者はいなかった。彼らはぼくの全感受性に莫大な影響をもった。それにすべてのアメリカのモダニストの伝統。詩や他の文学の形式には言うに及ばず、哲学に費やすよりもっと多くの時間を文学に費やした非常にたくさんの偉大な歴史書や偉大な小説がある。別に自慢しているんじゃなくて、不満を述べているんだ、ぼくはおそらくもっと哲学を読むべきだろうね。けど多くの哲学の本は膿んだ歯の手術みたいだと思う。君はそういうくだらないことを切り抜けなければならなかったって考えているんだろう?

ぼくがハマっているのはスキーで、ナッツみたいにスキーが好きなんだ。けど、正直に言わなきゃならないが、人は80年も生きると、昔みたいに急な斜面を上手く滑れなくなるんだ。さすがに次のオリンピックチームに入ろうとは思わないよ。

ザン・ボアグ:あなたの仕事とは別に、何か推薦できる心の哲学に関連する本はありますか?

ジョン・サール:どいつもこいつも本当にすこしもいいとは思えない。ウィトゲンシュタインはいつも読むと啓発的だ。ほとんどそれは会話だから、君は彼と議論をすることになるだろうね。けどぼくが言われる必要のあることを言う心の哲学者にお目にかかったことはない。それがぼくが心の哲学についてたくさん本を書く理由なんだ。君はぼくが充分な本を一冊書くことができると考えるんだろうけれど、ぼくは心について何冊も本を書いたし、疑いなく書き続けるだろう。なぜならまだ巷に誤った主張があふれているからだ。

けどなお、ぼくは君のウィット(理知)を鋭くする偉大な人としては、ウィトゲンシュタインを薦めることができる。ウィトゲンシュタインと議論をするのは偉大だ。なぜなら非常に頭切れ、何が重要な哲学的問題かについての本能をもっているからだ。彼は、ぼくが本質的だと思うことを、すなわちそれらの問いに体系的に答える体系的な理論を構築することを拒否するんだ。

さてぼくは哲学史にはあきれるほど感心するが、正しい理由はない。ぼくはライプニッツとかカントとかを読むことからぼくが多くの真理を学んだとは思っていない。ライプニッツはたぶんこの世でもっとも知的な人物だったと思うけど、彼の哲学的主張はおそらく間違いだらけだと思う。つまりモナドとかその他についてだ。カントはおそらくこの世で最も偉大な哲学者で、彼は強迫観念だが、全部、物自体は知りえないという、誤りに基づいているとぼくは思う。知りえる。ぼくは机を見ており、ぼくは物自体を見る。

ぼくは知覚についての本を書いている。ぼくはカント、デカルト、バークリー、ヒューム、ライプニッツ、スピノザその他のすべての連中に答えようとしている。なぜなら彼らはみな知覚についての同じ誤った主張をもっているからだ。だから哲学をを賞賛するため、誰かについて尋ねるなら、ぼくは間違った相手だと言うことだ。ぼくは過去の偉大な思想家について適切な敬意をもっているけれど、悲しいかな、全員間違ってばかりで、ぼくの仕事はその誤りを指摘することなんだ。
posted by Kose at 18:02| ジョン・サール

赤黒P90テレの画像作ってみた:バッカスの製品より格好いいかもしれない

ちょっと色味は違うんだけれど。もう少し赤が光沢があり派手。

Red-black-P90.png

どう考えても、いい感じだ。
Googleで検索したが、このパターンの組み合わせの製品はないし、改造品も見つからなかった。

TBSモデルと名づけたい。TBSが赤坂にある放送局だから。

超安いのにものすごく上手そうな雰囲気がある。ベッコウ柄ピックガードの方がなおいいかもしれない。思ったよりけばくないかもね(大阪のおばちゃんになるかと思ったが)。ベッコウ柄ピックガードは3〜6千円だけど。

意欲がわいてきたぞ。

だがサールをやる。
今回のインタビューは、まるでサールにも哲学にも不案内な人には本当にさわりだけで面白いと思うよ。
posted by Kose at 09:11| 日記

まず、赤バッカス・テレキャスのP90化

いろいろやりたいことはあるが、お金もないし、手ぢかなと頃から、現在使用中の赤バッカス・テレキャスを土台に
1)ピックアップガード 黒 1500円くらい *もとは白だが。

2)セイモアダンカンP90 黒 1万円くらい
 装着に挑戦する。
ボディ赤・ピックアップガード黒・ピックアップ黒になる。六本木のバーかよ!

4)家にはRCAピンジャックコード(オスーメス)が死ぬほどあるので(USBで何でもつながる前はたいへんだったのだ)、コントロール部とピックアップをピン弱で着脱可能にする。同じことはテレキャスフロントピックアップにもする。これが音質やノイズに影響するか未知。

5)P90用にザグリを入れる。

これで、テレキャスのフロントピックアップのレゾンデートルとは何か、レオ・フェンダーの思想を思いながら、フロントP90はどんあなスタイルのサウンドに合うのか研究したい。
すぐ歪ませるだけで文句を言う小僧に書けることばを見いだしたい。

まずこれから周波数解析の問題を音響工学の本を読みながら、アホみたいな形容詞に頼らないディスコースを探りたい。テキストの外部はある。まだ図書館から用意ができた通知がない。

その他はいろいろ組み合わせが決定的とは言いがたいがハムバッカで、検討中。
いけてない自分のエレキギターのハムバッカーを移植してみるのもあり。上手く行けばダンカンにしてみるかもしれない。

上手く行ったら、フロント・リアセットは、フェンダー・ビンテージに変えるかもしれない。比較対象がバッカスオリジナルでは説得力乏しい感じがするから。これ1万くらい。

最終的にこれはピックを変える専用ギターになる予定。ストラトのシングルをテレキャスのフロントにするとどうなるのか読んだことがない。ぼろいストラト・ピックアップならある(ネジが切れてしまって瞬間接着剤で止めてある)。

なおスキルがアップし完成度が高くなったら、スクワイア・アフィニティでやる。
そもそも中古で売れるフェンダーではどんなクラスであれやらない。

だが今週はやらない。サール先生の翻訳そこそこ進んでいるから。
posted by Kose at 00:43| 日記