2016年12月31日

【読売】飼育のサルもイモ洗い、「食の文化」ある可能性

ジョン・サールの『社会的現実の構成』(私訳)で幸島のサルの食文化が、文化が人固有のものでない例として取り上げられている。幸島のサル(Imo)は野生で、海水で洗う行動が世代を越えて集団に共有されたものとされている。わざわざ古い本をウェルナー・クマ―の『霊長類の社会:猿の集団生活と生態的適応』、社会思想社(教養文庫)、1978という本をアマゾンで古書で買って確かめた。次は短いその引用部分である。

集合的志向性から、制度的事実へ:お金の例
 社会的事実のもっとも単純な形式は集合的行動の単純な形式を伴う。前に言った通り、私は集合的行動の能力は生物学的に先天的であり、集合的志向性の形式は排除できる、あるいは何か他のものに還元できるものではないと考える。たとえば、自然公園で一緒に移動したり、一緒に狩りをしたりする動物にとって文化的装置も、文化的慣習も、言語もない。ハイエナが孤立したライオンを殺すため群れで移動する時、たとえハイエナの行動が非常に熟練して協調しており、ハイエナがライオンにだけ責任があるのではなく互いに責任があるとしてもどんな言語的、文化的装置は必要はない。協働的行動の淘汰的有利は明らかであると、私は確信している。排他的でない適応性は共通の種と協働することによって、増大する。
 集合的な動物の行動を志向性の一般理論に同化することの唯一の扱いにくい特徴は、ライオンを攻撃するハイエナの例のようなどんな複雑な行動の形式においても、それぞれの動物の集合的行動への個別の貢献が集合的志向性とは異なる志向内容をもつという事実に由来する。人間の場合、たとえば私たちがパスプレイを実行しており、私の役割がディフェンシブ・エンドをブロックすることなら、その場合私の個人的志向性は「私はディフェンシブ・エンドをブロックしている」である。だが、たとえ私がパスプレイの実行の役割としてのみディフェンシブ・エンドをブロックしているとしても、それは集合的志向性「私たちはパスプレイを実行している」とは異なる内容を持つ。個人的志向性の内容は、その場合、たとえ個人の志向性が集合的志向性の部分であっても、集合的志向性の内容とは異なるかもしれない。タンゴは一人では踊れず、パスプレイは二人では実行できない。2 社会的、制度的現実の階層的分類学を発展させるひとつの段階として、私は既に集合的志向性を含むいかなる事実も社会的事実であると明記した。そのため、たとえば、ハイエナがライオンを狩ることも、議会が法律を採択することも、ともに社会的事実の例である。制度的事実は社会的事実の特殊な下位クラスであることになる。議会が法律を採択することは制度的事実であるが、ハイエナがライオンを狩ることはそうではない。
 次の段階は集合的種類の行為者的機能の導入である。集合的志向性と物理的モノへの行為者的機能の意図的な割り当てを含む装置があるなら、ふたつを結びつけることは大きな段階ではない。どのようにひとりの人があるものをイスやテコとして使うと決めることができるかを理解するのが簡単なら、その場合、たったひとりでやるより、私はどのようにふたり以上の人が一緒に全員が座ることができるベンチとしてあるものを使ったり、何人かで操作するためあるものをテコとして使うと決定することができるかを理解するのは難しくないと思う。集合的志向性は個人的志向性と同じようにたやすく行為者的機能を生成できる。
 次の段階は、もっと難しい。なぜならそれは、モノへの機能の割り当てが、ベンチとして使われられる丸木やテコとして使われる棒の場合のようにモノの本来的特徴によるだけでは遂行できないモノへ機能を集合的に課すことを必要とすることだからである。この次のケースのタイプでは、機能はそれ自体人間の協働の問題としてのみ遂行される。この段階、集合的合意や受け入れによって機能が遂行できる集合的に機能を課すことは、制度的事実の創出の重大な要素であることを少し詳しく見てみよう。
 たとえば、そのテリトリーの回りに最初に壁を築く原始的な部族を考えてほしい。壁は全く物理学によって課された機能の事例である。壁は侵入者を締め出し、部族のメンバーだけを入れるのに十分大きいと考えよう。しかし壁は次第に物理的障害であることから、象徴的障害に発展すると考えてほしい。壁が次第に崩れ、残った物が、石のひとつの列だけになると想像してほしい。だが住民と隣人は彼らの行動に影響をおよぼすような仕方で、テリトリーの境界をなすものとしてその石の列を「認識」し続けると想像してほしい。たとえば住民は特別な条件下でのみその境界を横切り、外部の者は住民が同意した場合にだけテリトリーに入ることができる。今や石の列は、全くの物理学によるのではなく、集合的志向性によって遂行される機能を持つ。高い壁や堀とは異なり、壁の残骸は単にその物理的性質のために人々を締め出すことはできない。非常に原始的な意味で、その結果は象徴的である。なぜなら物理的モノの集合がいまやそれ自体をこえた何かを指示する機能、すなわちテリトリーの制限、を志向する。石の列は、物理的障害と同じ「機能」を遂行するが、それは物理的性質によってではなく、それは集合的に新たな「地位」(status)、境界のマーカー(marker)の地位を与えられたためそうする。*
 私はこの段階をもっとも自然で無垢な発展と見たいが、それは重大な含意をもつ。動物は、自然現象に機能を課すことができる。たとえば手が届かないバナナを取る道具として棒を使う霊長類を考えてほしい。3 そして一部の霊長類は、ある世代から次の世代へ伝えられる行為者的機能の伝統を発展させさえすることがある。そのためもっとも有名なニホンザルの「イモ」は芋から砂を落とすのに水を使い、やがて塩水は砂を落とし、かつ芋を美味しくするという両方をするのに用いられる。「イモ」に感謝を捧げつつ、「今では、海水でのイモ洗いは子ザルがイモを食うことといっしょに、その母親から習う、ひとつの伝統となって定着している」とクマーは書く。4 人類学の教科書はお決まりのごとく、人間の道具を使う能力に所見を述べる。だが、他の生活形式との真にラディカルな分岐点は、人間が集合的志向性を通じて、機能が、単に物理学や化学によるだけ達成することができず、ある「機能」が割り当てられる新たな「地位」の特殊な認識、受け入れ、承認の形式で継続的協働を必要とする現象に機能を課す時生じる。これは人間の文化のすべての制度的形式の始点であり、それはつねに後に見る通り、XをCにおいてYとみなすという構造を持たなければならない。

すこし、サールの翻訳再開しようかなと思った。

飼育のサルもイモ洗い、「食の文化」ある可能性
読売新聞 2016年12月31日 12時09分
http://www.yomiuri.co.jp/science/20161231-OYT1T50019.html?from=ytop_photo
 愛知県犬山市の日本モンキーセンターのヤクニホンザルが野生のニホンザルと同様のイモ洗い行動をすることがわかり、同センター飼育技術員の山田将也さん(29)が調査研究をまとめた。
 センターの冬の風物詩のサルのたき火での焼きイモがきっかけで、山田さんは「サルにも食の文化がある可能性があり、今後も調べていきたい」と話している。
 同センターで飼育しているヤクニホンザルは、伊勢湾台風のあった1959年に、飼育員が廃材を燃やして暖をとるのを見てから、火を怖がらずにたき火にあたるようになった。その際、ふるまわれた焼きイモを一部のサルが飼育施設内の池の水で冷やして食べるようになった。これをきっかけに普段から生のイモも池の水につけて食べることが観察されている。
 宮崎県の幸島こうじまにいる野生のニホンザルは人が与えたサツマイモを海水で洗い、塩味をつけて食べることで知られている。河合雅雄・元京大霊長類研究所長が「人間以外の動物の文化的行動」として1965年に英文学術誌「プリマーテス」に研究論文を発表してから、世界的に有名になった。
 ヤクニホンザルは屋久島に生息するニホンザルの仲間。これに気づいた山田さんは「幸島と同じ、サルの文化的行動ではないか」と考え、昨年9月から今年3月まで計55回にわたって観察記録をとり、その調査結果をまとめ、鹿児島大学で開かれた日本霊長類学会で発表した。
 それによると、イモ洗いをするのは全体(150頭)の3分の1にあたる50頭。このうちオスが33頭、メスが17頭だった。また、50頭のうち、母親もイモ洗い行動をしたのは10頭、母親がしない個体は20頭、残りは母親が死んでいるため不明だった。さらに幼い個体はイモ洗いをしないこともわかった。
 山田さんは「もともとは熱くて食べにくいので冷やすという合理的な理由があったのが、熱くなくても水につけるという食文化的な習慣が広まったとみられる。母親以外のサルの影響が大きいことも興味深い。また、4歳以上にならないと行動を習得できないこともわかった」と話す。
 今後、イモ洗いの行動がどのようにグループ内に伝わるのか、その経路や要因を解明する研究を続けるという。(大隅清司)

posted by Kose at 14:31| 日記

若山照彦考

ロックフェラー大学からの引き抜きについては書いた。
CDB創設時2001年、同大ペリー氏と同時に就任した。
この点、理研の「不透明な」採用と呼ばれるものが最初からあったことに伺われる。
いったい若山氏が引き抜かれたのか、コンビが引き抜かれたのか、ペリー氏の引き抜きに若山氏が使われたのか、今となってはよくわからない。
ペリー氏は2010年満期で理研を離れている。
なぜ、若山氏が2010〜2012年度理研に残ったのかは誰も問題にしないが、少なくとも理研の調査報告では、2012年度はすでに理研の席を失っており、客員研究員であったことが伺われる。
2011年度がどういう位置づけなのかよくわからない。
さて2012年は何の年か記憶しているだろうか?
山中伸弥博士のノーベル賞受賞年である。
ジョン・ガードン博士と山中博士が同時受賞したのだが、ガードン博士のカエルのクローンから山中博士のiPS細胞の間には、有名な羊のドリーにくわえ、ドリーの再現実験にあたる若山氏のクローンマウスの成功などクローン研究の成功が山のように、ガードン〜山中の間にあるというのが歴史である。
これが意味するのは、若山氏だけではないが、ガードン=山中の受賞は裏返すと、哺乳類クローン研究はノーベル賞から除外されたと言うことである。
だから、小保方手記で、山中ノーベル賞受賞で若山氏の様子がますますおかしくなったという証言をしているのはこの背景で了解できる。
世界的研究成果を残しながら、正式の所属が決まらない浪人生活中で、ノーベル賞から見放されるという結構きつい状態に当時彼がおかれていたと推測するのは無理とは言えない。

小保方氏が若山研に単にハーバード論文あるいは小保方博論の一部としてキメラマウスの依頼をしたのは2010年7月20日であると記されている。博論中のキメラは完全なものではないと読み取れるが、塊でキメラマウスに成功するのは2011年11月以降である。

動機理解としては、微妙である。任期切れまで数ヶ月である。これ以降小保方氏は、若山氏がいなければ、キメラマウスないし「幹細胞」の樹立は不可能になったと証言している。

ぼくは、まあ神業みたいなもので独立にキメラマウスができていてもおかしくはないと思う。だいたい生物学の再現(小保方氏も含む)は、何年もかかっても不思議はないので、小保方=若山間でもそれは同じだ。

山中iPSがすぐ再現されたように言われているが、論文が2006年8月、イエニッシュ博士の再現が2007年4月である。

STAP細胞事件は1月末に始まったが、2〜3月にマスコミが再現できないと騒いだのは無知のなせる技だった。まあ大隅典子やポール・ノフラーらの学者政治に踊らされた面があるのだろう。

そういうわけで、キメラマウスが若山氏なしではできないのは理解できる。
だがSTAP幹細胞は、STAP細胞特異の培地を樹立して「からならず」STAP細胞に「無限の」増殖能を与えるものでなければならない。だから、キメラはできても幹細胞はできないというSTAP糾弾派が想定していないケースが存在し得るのである。この場合において、幹細胞は十分条件だが、キメラマウスは必要条件である。さらに言えば幹細胞の重要な必要条件はSTAP細胞特異な「培地」である。この培地を小保方氏は渡され、実験したが成功せず、増殖率グラフのねつ造につながったものと見なせる。ここで「必要条件」がひとつ「ない」のである。
詳しいことはわからないが、小保方博論=ハーバード大論文には十分な実験が行われたと見なせるが、2012年の浪人時代、若山氏はそれ以上のことをやったのは確かである。

若山氏が不正を行う動機の背景はこれでわかった。不正はしてないかもしれない。不正をしていないならすでに山梨大に席を得た若山氏は、科学者の良心に基づいて、せめて1年程度は再現が行われないことをもって、とことん小保方氏をかばうべきであった。

ぼくは若山氏の夫人が事件の真犯人の一人だと考えているが、それと若山氏の良心と不正の問題は別である。若山氏の良心と不正を疑う必要がないのは、若山氏が英語が事実上できず、論文に何が書いてあるか本当にわからないのでパニックになった場合だけである。こちらのケースもある。若山氏が幹細胞培地を明らかにし、英語ができないことを白状すれば、彼は白であると見なせるとおもうのであった。
posted by Kose at 08:09| STAP