2016年09月29日

錯視などの哲学的意義、懐疑論を経験的に検証できること

脳神経科学が、意識とか心がわかるとかいい出すと眉唾ものである。その手の本がたくさん出ていて、吐き気がしそうである。

さてジョン・サールが2015年に出した新刊『Seeing As They Are』(当時ディズニーの映画が流行っていたので翻訳のタイトルは『ありのままに見る』にした)は、サール先生が80歳を超えて、もうちょっとでラッセルの域に達しそうな年齢で出した本で、主に知覚の志向性を扱ったものだ。とくに比較的新しい哲学的知覚理論で、「宣言主義」という理論を批判するものから発展して一冊の本になったんじゃないかと思う。
宣言主義は、真の知覚と偽の知覚が排他的だという立場として簡単に要約できる。
だが、「錯視」のような認知心理学の得意な例は、真の知覚でありかつ偽の知覚である領域があるということを示している。
認知心理学ないし脳神経生物学がしばしば含意する、「ヒトは脳によって騙されている」というのはある意味本当である。生きるに都合いいように外界の知覚を適当に脳神経レベルで編集しちゃっている体得る。「錯視」のような例は、その編集が自覚できるまれな例の集合である。
ここで重要なのは
1)「〜と見えると(ように)見る」というシステムの「〜と見える」部分は、知覚に本質的である。
 この「と見える」部分は、ニュートラルな意味で現象学的部分である。そのため錯覚が起きるためには現象学が必要であると言う哲学的含意がある。これを過小評価した言い方で「ヒトは脳によって騙される」部分の「ヒト」が現象学的質的知覚をもっている=(脳科学の用語で言うと)クオリアをもっているということである。
2)このような異常な知覚と正常な知覚は同じである。これが宣言主義の拒否の部分に当たる。
3)そして異常な知覚を、知覚対象の経験的に確実な知識と、現象学的報告の間の齟齬によって、「錯覚」であると科学的に明言できるということである。
4)デカルトはいろいろな種類の懐疑を提起したが、およそ経験的にある種の懐疑は、根拠あるものとして科学的に解明できるが、たとえば悪魔に欺かれているかもしれないというような、哲学者に任せるしかない問題として残る。「悪魔が欺く」というのは、たとえば「脳が心をもつ」と言うくらい漠然とした問いだからである。

かくして、心に関する脳神経科学の帝国主義は避けるけれど、人間の誤った知覚は人間の正常な知覚の一部であることを示すことによって、ほとんどの哲学的懐疑論と哲学的懐疑論の克服のために発生したすべての観念論哲学は「オワコン」である。

このため、唖然とするかもしれないが、日本で行われているほとんどの哲学論議は無駄である。

とかね。ちょっと復習してみた。
posted by Kose at 15:16| ジョン・サール